[携帯モード] [URL送信]

LOGICAL×BURST
[返信する]

By クロポン補佐官
2023-05-06 05:00:08
チェリーブロッサムの夢 第二話
 


     2.

 白い廊下へと射し込む、硝子(がらす)越しの暖かな秋晴れの日差し。午前の光は目に痛かったが、その先に居る人物の後ろ姿に自然と顔は弛(ゆる)んだ。

「──おはようございます、ネコくん」

直ぐ後ろにまで迫っても、こちらの様子に気が付かない警戒心の薄さに少し呆れつつ。自分の声に気が付いて驚いた様子で振り返り、視線が合うと同時に相手はパッと顔を綻(ほころ)ばせる。何がそんなに嬉しいんだ、とは思いつつも。まあ、悪い気はしないものだ。
「おはようございます。すみません、ぼーっとしてて」
「寝不足ですか? あんまり無防備にしてると危ないですよ…?」
「あはは。すっ転ばないよう気を付けます!」
「……、そうですね。不意打ちとか奇襲には気を付けて」
「え…」

──ドサドサ、カランッ………



 優人(ゆうと)の抱えていた腕の中から、次々と厚い書物やバインダーやらが滑り落ちて。ペンケースから飛び出した万年筆がコロコロと足元を転がった。
「───危ないですから。…ね?」
イノセントの腕の中、しんっ…と黙り込んで言葉を無くした優人の様子に構わず、更にキツく抱き寄せる。相手が例え、戸惑っていようが驚いていようが……自分に恐怖していようが。大して差し支えはない。──目が覚めてから、あれからずっと、自分は“こいつ”に“こうしたい”って思っていたから。拒絶されようが抵抗されようが、今の自分がこうしたいからこうするってだけで。…深い意味はない筈だが、チリチリとまたユラユラと。燻(くすぶ)る炎のように、押し殺した情欲は不意に溢れ出しそうになる。優人を抱く腕にまた、無意識に力が籠(こ)もる。

「…ぷっは、苦し──。朝の“おはよう”のハグです?」
 もぞもぞと身動(みじろ)いで、優人は一つ息をつく。自身の背へとふと触れるものがあり、イノセントは思わず瞬(またた)いた。
「イノセさん、いちいち力も強いし少し大袈裟だから。てっきり、締め殺されるのかと思いましたよ?、俺」
気持ち背伸びをしながら、優人はイノセントの鎖骨辺りへ顔を擦り寄せ、縋(すが)る。
「──嬉しいけど、ちょっと恥ずかしいから。あんまり余所(よそ)でやっちゃダメですよ…?」
 優人側からの思わぬハグのお返しに、イノセントは柄(がら)にもなく素の表情が出そうになる。今現在、自分が戸惑った顔をしている事へと遅れて自覚し。イノセントは左手を大きく広げると廊下の天井を仰ぎつつ、慌てて自身の顔を覆った。
(───こっちは、純粋な下心だっつーに……)
覆った手にジンワリと顔が熱いのが分かった。廊下の窓に映った自分は、“らしくない姿”を惨めにそこへと晒(さら)している。
(だっせ…)
耳まで熱い…、こんな事は前まで無かった。
「はあぁ〜〜……」
自分でも思わず、溜め息が洩(も)れる──。
「終わりですか?」
「──終わりですよ、もう…」

 弱くて強い、その緩んだ“拘束”から逃れて。イノセントはその場に屈み込み、本らを拾って埃(ほこり)を払った。
「あ! ありがとうございます」
イノセントの一連のそれらに全く気付く事もなく、優人は自身もしゃがみ込んでペンケースの中身を拾う。万年筆を拾い上げながら、ふと…。
「あれ? ねぇ、イノセさん」
「何です」
「あ、やっぱり。今日はそっちのイノセさんなんですね」
「はい…?」
 こちらを首を傾けて覗き込む優人に意図を取り兼ねて。イノセントは無言で優人へ視線を返した。
「“オラついてない”イノセさんって、久し振りじゃないですか?」
目許(めもと)を細め、悪戯(いたずら)っぽく優人はこちらへと笑い掛ける。
「……………」

 何を言い出すのかと思えば…、と。イノセントは呆れたように息を吐き出し、ムッとした表情をつくり、眉根を寄せて再び相手を見た。
「──機嫌いいです? 何かイイ事でもありました??」
クスクスと笑って、優人はこちらへと無邪気な笑顔を向けてくる。
「別に…」
 …何がそんなに可笑(おか)しいんだ、と。イノセントは拾い集めた物たちを優人へと黙って差し出した。
「あ、ありがとうございます!」
本らを受け取り、閉じたペンケースと共に抱え直すと腰を上げる。同じく立ち上がったイノセントを笑顔で再び見上げて、それからスマホ画面の時計へと目を落とした。
「何か予定でも?」
「はい。これから先生のとこ行かなくちゃで───」
 歩き出した優人に歩幅を合わせるが“残念な気持ち”と“行かせたくない”という本心が、どうしても前面に出てこようとする。イノセントの足が静かに止まる──。





 ──つんっ…、と弱く。セーターの腰辺りを引かれ、優人は後ろを振り向いた。
「はは。なに、可愛い事しちゃてるんですか───イノセさん」
…まるで、小さい子供のように。自分を引き止めるイノセントの姿に、優人は失笑を零(こぼ)す。祟場(たたりば)にどやされるであろう事は直ぐに頭を過(よ)ぎったが。それ以上、足を踏み出す事ができなかった。
「どうしたんですか? 黙ってちゃ分からないですよ?」
「─────、」


 イノセントのプライドの高さなら知っている。幾(いく)ら待とうが、この問いに答えは返ってこないだろう。──それでも。俺だって、“貴方の本心”を“貴方の言葉”で知りたい…。ほんの僅(わず)かな期待を抱(いだ)いて、優人はイノセントに背を向けた。

──トンッ

 軽い衝撃が背にあって、絡みついてきた長い腕に笑って目を閉じた。
「…狡(ずる)いなあ──、」
相手の腕へ触れて、小さく零した。マナーモードの短い着信音が低く廊下に響く。
「ねぇ、イノセさん。俺、もう行かなきゃ……」
背後の相手から返事は無い。
「……俺がイノセさんの事、振り解けないって分かってるんでしょ…? ねぇ──」

((いっそ…、どっかに連れ去ってくれたらいいのに───なんて。こんな、少女趣味な馬鹿な事、思っちゃってるのにな…。教えないけど……))

「もし、先生が来たら。一緒に謝ってくださいよ?」
「……………………」
「置いて逃げたりなんかしたら、許さないですから……」
「お前、シャンプー変えたか?」
「……はい?」
──スンッ、……
「やっ…、ちょっと! な、何ですか、急に…!? は、恥ずかしいですからっ! …かっ、嗅(か)がないでくださいよ、勝手に──!??」
 もだもだと途端に抵抗を始めた優人を押さえつけて、匂いの出処(でどころ)を容赦(ようしゃ)なく執拗(しつよう)に探る。
「………スタイリング剤?」
「…え?? ……整髪料、なら。多少は、つけてますけど…」
「前まで、つけてなかったろ。色気づきやがって……」
「俺の勝手でしょ!? 最近、髪が広がって大変なんですから!!」
「元からだろーが」
「知ってますよ! ──だから。纏(まと)めるのに毎回、苦労してて………」

「ったく、またアンタか───」

 色気も素っ気もなく、単にただギャーギャーしていた所を祟場へと見つかった。
「センセェ…!! イノセさんが急に絡んできて、俺の事いじめるんですけどっ!! 助けてください!!」
「はあッ?! 虐(いじ)めてねぇーだろうが、別にィ!?」
「さっきから放して欲しいのに放してくれないし、ヤダって俺言ってんのに全然やめてくれないじゃないですか、だって──!!」
「…そりゃ、お前がっ……!!」
「あーあー、ハイハイ」
ぼっす、と音を立てて。祟場は手にしていたA4ファイルでイノセントを優人から引き剥(は)がす。
「優人も優人だがアンタもアンタだ。いち魔王が、こんな朝っぱらから。どーせまた、下心あっての魂胆(こんたん)だろ? 何にせよ、その持て余した性欲の矛先を優人へ向けんな。この変態魔王が──」
「…んだと、この腐れ眼鏡──!!」
 いつもなら止めに入る優人も、今回ばかしは被害者面してイノセントをジトッと睨(ね)めつけている。どうにもこうにも分が悪い。

「──アンタも忙しいんだろ? こんな所で油売ってていいのか?」
「うるせぇー! 俺に説教すんじゃねぇ!!」
 祟場は純粋に不服さを訴えかけて、無言でファイルにて自身の肩を軽く叩きながらイノセントを見遣る。見てくれは教師か研究員といった所だが、視線が素のガラの悪さを語っている。…この、エセ教諭(きょうゆ)が──とイノセントが吐こうとした時。
「こいつも、いっちょまえにもう忙しいんだ。次の任務先が決まって、今は準備期間なんだよ。“時幻党(ここ)”に居るからって暇な訳じゃあない。…憂(う)さ晴らしなら他を当たってくれ」
「……………」
一つ舌打ちをして、腹立たしさにそっぽを向く。その横で祟場は、今まで手にしていたそのファイルを優人へと手渡す。
「…これを渡しときたかったんだ。あとは自分で探して調べるなりして一人でやれるな?」
「……。はい、大丈夫です。わざわざ、すみませんでした。ありがとうございます」
「ん」
パラパラと何やら資料らしきファイルに目を落として捲(めく)り、顔を上げると祟場へと応じた。



「───次は、何処に行くんだ?」
 資料を見直す優人の肩へと肘(ひじ)を置き、捲られるページの文字たちを何となく目で追う。
「“無限戦争世界(エンドレスウォーズ)”です」
「エンドレス〜?」
「少々、治安の悪い所みたいですけど。白羅(ばくら)さんが動けない今の内の方がいいんじゃないかって話になって。あんま初心者向けじゃない感じなんですけど、そうも言ってらんないかなーって」
「────…、」
パタン、と優人はファイルを閉じる。
「俺、このまま書庫室に行ってきます。書斎(しょさい)の鍵、貰えますか?」
「…その事なんだが。これからは、お前も頻繁(ひんぱん)に足繁(あししげ)く通う事になるだろう。合鍵を作って置いたから、これはもう返さなくていい。無くすなよ」
「はい。ありがとうございます」
祟場から鍵を受け取る優人の様子を無言で眺め、イノセントは静かに優人から離れると一歩後ろへと退(ひ)いた。
「あれ? イノセさん…??」
長く白く伸びた廊下には、先にも後にも祟場と優人以外、誰の姿もない。
「ようやく、この場の空気が読めたんだろ。何も気にしなくていいさ、お前は」
「………」
優人はイノセントの消えた廊下の先を無言で見遣った。




 

[編集]
By クロポン補佐官
2023-05-02 04:30:24
 
   チェリーブロッサムの夢



     *


 …最近、気付いた事だが。心身共に疲れ果てた日なんかに寝ると、あいつが夢に出てくる事が多い。

((──優人(ゆうと)、))

ふと、そんな事を零(こぼ)したら。愁水(しゅうすい)の奴に「潜在意識的に癒やしを求めてるんだろう、彼に」と笑われて、腹が立って口汚い悪態を吐き散らしてきた反面で。変にそれが腑に落ちて、納得してしまった自分へ妙な感覚へと陥(おちい)ってしまったのが、つい先日の事──。





 これは、夢だ──。

((イノセさん……))


 時幻党(じげんとう)の中庭。もう、幾度となく迎えた春の風景。…あいつは。雲一つ無い四角く切り取られた青の下で、散りゆく桜の花びら達を感慨深そうに幹へと背と頭を預け、静かに空(くう)を見遣(みや)っていた。その姿に暫(しば)し、目を奪われ。何処か寂しそうに、切なげに目を細め、中庭中央の桜の大木へ凭(もた)れる姿に。堪らなくなって、蒼(あお)い芝生へと俺は足を踏み出していた──…。





『優人!』

 春の空の下、静寂を断った俺の声は何処か幼い。それどころか、あいつに対する今の感情が抑え切れずにそのまま声に出て、自分でも驚き思わず焦った。
 続く言葉を飲み込み、途切れさせて。踏み出したばかりの足を止め、やたらと速まる鼓動の音に違和感を覚え。自身の両手と足下に落ちた影に、今現在の自分の現状を察しつつも信じられず。中庭へ面した廊下の窓へ目を遣(や)ればそこへ映った自分の姿は、──人間でいう“十三”かそこら…。
(───何だ、これ……)
 故(ゆえ)に、これが夢なのだと容易に察しは付く。…付くが、今はそんな事より、あいつの事が気になって………。

『イノセさん』

 その声に呼ばれて、弾かれたように振り向く。相手は真っ直ぐにこちらを見つめていて、ふわりと優しく微笑んでいた。
『どうしたんですか? ──ねぇ、そんな所に居ないで。こっち、来てくださいよ。桜、凄く綺麗ですから。一緒に見ましょう?』
優人が自身の隣の芝生を軽く叩いて、こっちへ来いと俺を促(うなが)す。「ガキや猫じゃねぇんだぞ…」と僅(わず)かに苛立(いらだ)ったが。もう一度、窓硝子(まどがらす)へと映った自分の姿に目を遣り、一つ溜め息を吐き出した後で。大人しくそれへと従って、また足を踏み出した。さくさくと芝生が柔らかい音を立てる。



『泣いてたんじゃねぇーのか?』
『え? 泣いてませんよ?、俺。ただ、綺麗だなって思って見てただけで。もう、散り始めちゃってきてたから。イノセさんと一緒に見れて良かったです、桜』
 明るくはにかんで、隣で立ち尽くす俺に惜しむ事なく笑い掛ける。…見間違いなのか、強がってるだけじゃないのか。掛けてやるべき言葉に迷って。一人、眉尻を落とす。
『もう。ほら、座って! ここから見える景色、本当に綺麗なんですから。一緒に見ましょうってば。“今”しか見られないですよ? きっと』
優人の左手が優しく俺の右手を包む。引き寄せられ、隣に促されるまま座り込んで、共になって桜と散りゆく桜の花びらの舞う深く青い空を黙って見上げる。
『ね? 綺麗でしょ?』
『…うん。』
 優人は飽くまで笑っていたが、俺の方が逆に物悲しくなってきてしまった。無言で空を仰ぐ俺に安心して、嬉しそうに優人はまた自身も桜の花びらの降り注ぐ空を見遣った。少しの間だけ、共に桜たちを見遣って。会話も無く、過ぎ去るばかりのその情景よりも。優人の事の方がどうしても気になってしまって、相手に気付かれないようにそっと様子を盗み見る。
『……………』
 いつもの見下ろすアングルとは違って、少しだけ見上げる形に近い、そのアングルは。相手の表情がよく見えた。

((──俺の昔居た世界には、いっぱい咲いてましたよ? 桜…))
((俺が元居た世界に帰りたいって言ったら、イノセさんはどうしますか───?))

 ごく近い距離から見つめた優人の瞳に宿る光が、いつもより強くて。ゆらゆらと周りの景色を映しながら、瞬(またた)けば溢(あふ)れ出るものが容易く想像が出来てしまい。…胸の奥を刺されたかのような痛みに襲われ。更に重く苦しく、胸が軋(きし)む──…。
──ギュウッ……
 腹立たしくも、小さく華奢(きゃしゃ)としか表現の出来ないガキの手で。唐突(とうとつ)に相手の肩を引いた。急に引かれてこちらを振り向いた優人へと、精一杯に伸び上がって押し付けるように一方的に唇を重ねる。…静寂に、春風が二人の髪を揺らして時間は無となる──。





『──どうしたんですか? 急に』
 少しだけ照れたように笑って、俺の頭を優しく撫でる。宥(なだ)めるように。大人な余裕ある素振りで微笑む相手と、余裕の無い自分…。慰(なぐさ)めてやりたい、何処へも行かせたくない、他の何にでもなく自分だけを見て欲しい……色んな感情が焦りや焦燥(しょうそう)を伴(ともな)い、ゴチャ混ぜになって。なのに、それを相手に伝える術(すべ)が思い当たらなくて──。
(今…、俺がこんなガキじゃなかったら………!!)
 悔しくて、ギリッと奥歯を鳴らし歯を噛み締める。若い芝生を掻き毟(むし)って、力任せに相手を押し倒そうと優人に対し上から不意を突いて乱暴に覆い被さった。



『………イノセさん──、』
 容易に抱き留められ、言葉も合わす顔も無くてそのまま優人の首元に縋(すが)る。情けなくて、情けなさ過ぎて、泣きたい気分になった。
『どうし……』
『やらせろっっ!!!』
虚(むな)しくその場に響いた自身の言葉へ、今更になって半分後悔して、それでももう自暴自棄になって。優人の首へと回した腕に目一杯、力を込めて。駄々を捏(こ)ねる子供のように無遠慮に縋りつく。かろうじて涙は出なかったが、それが鼻へと回ったせいで無条件に鼻を一つ啜(すす)った。

『──随分と大胆な言葉ですね。』

 ビクッと、これもまた無条件反応で身体が小さく跳ね上がった。怒られる、拒絶される──それが怖くて身を引こうと相手から両腕を慌てて離した。
『………??!、』
それに関わらず身動き出来なくなったのは、こちらへ向き直った相手に逆に強く抱き締められたから。
『こんな所で? 何言ってんですか、バカですか───』
めちゃくちゃに虚仮(こけ)にされて、笑われて。恥ずかしさと苛立ちに頭に血が上ったが。何を言い返す前に、更に強く抱き締められて。つい今さっきまでの怒りが、嘘のように静かに引いて行く。相手の脚と脚の間に収まって、さっきまでとは真逆に優人へ自分の首元にへと縋られている。
(…満更でもなかったって事か──??)
 恐る恐る、優人の背へと右手を伸ばして。自分の首に縋った優人の耳元へと小さく訊(たず)ねる。
『………していい?』
『ダメです』
あまりの即答に愕然(がくぜん)とする。
『場所、変えるから…』
『そうゆう問題じゃありません。俺が周りの人達に怒られちゃうでしょうが』
『……。ガキ扱いしてんじゃねぇーよ!!』
『イノセさんは子供です』
『違うっっ!』
『違いません』
『違うったらっ!』
『違いませんよ』
『〜〜〜〜〜ッ!!!』








(…夢が覚めたら───、)

 恨(うら)めしさを滲(にじ)ませて、ジトーとした眼差しにて。桜の木へと凭れた優人を見遣った。相手は尚(なお)も目を細めて、こちらをクスクスと笑っている。
──サラッ…
『!』
 徐(おもむろ)に伸びてきた左手に優しく前髪を掻き上げられて、───静かな口付けが額へと触れた。目を見開いたまま固まって、憎まれ口の一つも叩けなかった自分に少し驚いた。辺りは再び静寂に包まれる。…キスをされた額から、「親愛」「愛情」「許容」………「傍(そば)に居ます」、言葉では告げられてはいないそれらが、じわじわと静かに浸透してきて。気付いた時には、両目からボロッ…と大粒の涙が溢れ出していた。自分自身でも何が起きたのか直ぐには理解できなくて、頬を伝って零れ落ちた涙が芝生に次々と吸い込まれていく。僅かに視線を上げて優人の方を見ると、ふっと優しい笑みを浮かべ、あいつの右手がゆっくりとこちらへ伸びてくる。指先で溢れる涙を拭われて、ぼやけていた視界が少しだけ晴れて。首を傾けて眉を落とした相手へと、衝動に任せて今度こそ押し倒さんと勢いよく腰を浮かせた。相手の背が桜の幹へと当って、重なった二人の元へと衝撃により余計に舞い散った淡い薄ピンクの花弁(かべん)らがハラハラと音も無く降り注いで───…。

(…これは、夢だから────)








     *

 ──ハッ、とイノセントは目を覚ます。いつもの自分の部屋、いつもの赤いソファーの上。…荒神白羅(あらがみばくら)の行方を連日連夜の長期に渡り尚も追い続け、疲労とストレスのゴタゴタな泥濘(でいねい)に塗(まみ)れつつ、朝方帰ったのも束の間。ベットに行き着く間も無くソファーへ身体を投げ出し、あれこれ苛立ちに辺りへ八つ当たった後そのまま寝入ってしまっていたらしく、部屋は見るも無惨にも散らかっていた。きっと、寝入り端(ばな)にチラリと“あいつが来たらまた小言を垂れながら、このとっ散らかった部屋を片付けようとするんだろうな……”なんて、何となく考えてしまったせいでもあるんだろう。

((…潜在意識的に癒やしを求めてるんだろう、彼に───))

愁水のあの言葉が一瞬、頭を過(よぎ)り。ソファーへと仰け反って凭れながら、「はっ!」と自嘲(じちょう)気味に失笑を洩(も)らした。



「……………………」
 部屋を沈黙が流れる。
(──妙に余韻(よいん)が長引く夢だったな……)
深く溜め息を吐き出し、天井を見上げる。寝る前の酷かった苛立ちは今は引いている。無意識に右手の甲を額へと当てた。
「あんな馬鹿みてぇな夢だったのに───」

((…夢が覚めたら───、))

 今し方、見た夢を瞼(まぶた)を閉じてなぞる。どんな過去にも記憶にも無い。本当に何の事はない、只の夢…。
──ムラッ……
「くはっ! だから、只の夢だっつってんだろうが──。欲情してんじゃねぇよ………」
軽くなった身体を起こす。自慰なんかじゃこれは治まらない。情欲の捌け口なんて、唯(ただ)の一つに決まっている。
「あーあ、馬鹿らし……」
床に転がった飴玉の一つを踏み潰してイノセントはふらりと部屋を出た。




 
『チェリーブロッサムの夢』

[編集]
By クロポン補佐官
2022-10-01 10:34:19
 


     * * *

(──マズった…)
 優人は一人、焦りに冷や汗を垂らしていた。
 自由奔放過ぎるフリージアの暴走を抑え込みつつ、尚且つフリージアの裸がこれ以上視野に入り込まないようにと。優人なりの苦肉の策、行動の筈であったのだが……。
(これは…、完全にマズった……。こんなの、“裸で”していい体勢な訳ない───…)
 自身の胸へと縋るフリージア。互いに裸体同士のこの状況にて、彼女を自身の膝上に乗せるなどというこの行為は、極めて非常に際どい体位である事に優人は今更ながら自覚してしまったのだ。…全てが既に、手遅れではあったが。
(…ぜ、絶対に。この状況下での“誤作動”は許されない────)
 意識をすればする程、頭の中は掻き乱される。優人は必死に本題……この空間から脱出する方法へと思考回路を無理矢理に軌道修正した。
(これは、夢…。夢なら覚めればいい訳で……。或いは、最優先事項として“服”を何とかこの場へ引き摺り出す事ができれば───……)
「ねぇ、優人。大丈夫? 心臓、ばっくんばっくん言ってるけど」
(──全ッ然、大丈夫じゃねぇーですよ……!!)
 フリージアの吐息が鎖骨近辺へと掛かり、優人の血圧は忽ち急上昇する。鼻血くらい簡単にいつ出てもおかしくない状況下にて優人はフリージアから精一杯、顔を逸らして目を閉じた。
(俺っ…今、絶対、すっげぇ糞ダサイ……!!)
左手にてフリージアの肩を掴み、優人は一ミリでも彼女との距離を取らんとする。相手にこんな惨めな顔など見られたくはないと、その一心にて熱帯びた自身の眼前へと右手の甲を添えた。
(もう、やだっっ…!! 誰か助けて……俺、このままじゃ死ぬ!!!!)





《──おやおや。今にも死んでしまいそうですね、彼…》
「くっくっ…、オイ。ミラ〜、お前、なかなか意地汚ぇ真似すんじゃねぇーかよ? なあ?」
 ゲラゲラと二人分の下卑た嘲笑いが空間に響き渡る。
「…やっべ。涙出たわ、俺」
鏡の中へと映り込む二人…、主(おも)として優人のその反応の一部始終にイノセントは愉快そうにくつくつと肩を揺らす。
《主、そんなに笑っては彼が可哀想ですよ》
「よく言うぜ。そんな状況を創り出してる張本人が──」
 更なる展開を期待して「で?」とイノセントはその先を促す。イチカメ、ニカメ…とばかりにミラの映し出す映像に死角は無い。





「優人…、ねぇ。触って──?」
「……!!?」
 フリージアの手が、優人の右手へと触れる。
「優人、女の人と……その、…経験、まだ無いでしょ? 私で良かったら練習台になってあげる」
「……………!!」
徐ろに誘導したその手をフリージアは自身の胸の上へと、そっと置いた。
「どんな感じ?」
「…えっ、あの……それは…………や、柔らかいですけどっ……??!」
視線を真っ直ぐに合わせられないまでも、彼女の鼓動がトクンッ、トクンッと触れたその場所から響いてくる。
「……だ、ダメだ、フリージア…。こんなの…………夢の中だって許される訳ないよ」
「夢。そう、夢だよ優人。これは、夢──。怖くないよ? もっとほら、ちゃんと触れて? こっち見てよ、優人…」
「っ、」





《──あーあ、宜しいので?》
「何がだ?」
《終わりにします?》
「これからだろ…? 笑ってんじゃねぇよ、お前も」
《妬かれないのかな、と。……ねぇ??》
「──くくっ、こんな“淫夢”紛い……妬くかよ。それに」
《それに…?》
「こんなもん。何処までいこうと相手は自分自身だろうが。“自慰”の範疇だろ、所詮。…寧ろ、よく勃つよな、自分相手に───?」
 一拍を置いてミラの嗤い声が虚像の間に響いた。
《違いありませんね、ホント──…》


 

[編集]
[*前] [#次]
[4-6表示]
[返信する]
[新規トピ]
[戻る]


無料HPエムペ!