彩雲の緋
忠告
状 元 杜 影月
榜 眼 藍 龍蓮
探 花 紅 秀麗
第四位 碧 珀明
「……見事に並んだな」
国試及第者が発表された日の夜、陽子は劉輝の執務室を訪れていた。
正面の机で劉輝が頬杖をついており、その脇にはいつものように楸瑛が控えている。しかし絳攸の姿はない……大方、いつものように道にでも迷っているのだろう。そのうち来るはずだ。
「うむ、まあ大体予想通りの結果なのだ。問題はここからだ」
「特例措置で二ヶ月間の据え置き、か。しかも上位二十名だけ」
「このまま例年通りに配属を決めれば、どうなるかは目に見えているからな。折角の優秀さも行動で見せつけてやらなければ信じる者などいない」
確かに、と陽子は頷いた。三十、四十を過ぎてようやく国試に及第するものも少なくないことから考えれば、今回の上位及第者たちはあまりに若すぎる。状元など弱冠十三歳の、幼いという言葉さえ似あいそうな少年だ。それに史上初の女性官吏となる秀麗は探花及第。妬みや僻みを買わぬ訳が無い。
楸瑛が懐かしむように目を細めて言った。
「思い出しますねえ、私や絳攸が及第した年にも同じ措置を取られましたよ」
「そう言えばそうだったな。あの悪夢の国試組∴ネ来のことだったらしいが」
「悪夢……ああ、吏部尚書たちのことか」
そもそも特例措置というのは及第者のアクが強すぎて配属を決め難い時に取られる手段なのだとか。
彼らが及第した年の国試で何があったのか詳しくは知らないが、噂ならいくつか耳にしていた。人の弱みを握った紅黎深が好き勝手やらかしたとか、黄鳳珠に近付いただけで意識を失う者が後を絶たなかったとか、他にも色々と。
まあ、噂は噂なのでどこまで真実なのかは分からないけれど。
それよりも今興味があるのはこれからの事だ。
「それで、その二ヶ月の間に進士たちには何をさせる予定なんだ?」
小卓に置かれた茶器を手に取って少し冷めた中身をすすると、劉輝も同じように茶に手を伸ばした。
「基礎的な書簡仕事と、各所での雑用なのだ。仕事の分配や記録は礼部の担当だな」
「皿洗いとか草むしりとか、ですね。ちなみに私の場合は厩の手伝いでした」
つまりは能力よりもまずは人格を見るということか。どんな雑用だろうと与えられた仕事に真摯に取り組めないような人間を重用するなど以ての外。恐らく今期の上位及第者がこの先出世するかどうかはこれからの二ヶ月でほぼ決定するだろう。
「いいな、それ。私の国でも取り入れてみようかな」
確か浩瀚が似たようなことをしていたはずだから、いっそ制度化してみても良いかもしれない。そう考えて思案を始めた陽子の耳に、ぽつりと漏らされた楸瑛の声が届く。
「しかし陽子殿はそんなに若いのに、国ではかなり上の方の地位にいるのだろうね」
「――ん? 私そんなこと話したっけ」
朝廷で働いているとは言ったことはあるが具体的な立場のことまでは何も話していないはずなのだが。眉を顰めた陽子に楸瑛は首を少し傾ける。
「いや普段の陽子殿の言動を見ていてそう感じただけだけどね。違ったかい?」
「うむ、余も思ったことがあるぞ。陽子は時々雰囲気が、何というか威厳のある感じがするのだ。とても余の年下とは思えなかったりする」
「……そうかな」
陽子はそう言うと曖昧に笑って誤魔化した。すると劉輝たちはやや不満そうな顔をしたがそれ以上突っ込んではこなかった。気を使われているのか――別に訊かれて困ることではないのだが。
まあ劉輝より年下だというのは確かに嘘だ。実年齢で言えばここにいる二人よりも邵可の方が近いのだから。
いくら外見が十七のままだとは言えど、重ねてきた年月が陽子を若者らしからぬように見せてもおかしくない。自分が常人とは比べ物にならぬほど波乱のある人生を送っているということは嫌というほど自覚している。
この際だから全て話してしまおうか――陽子がそう思ったところで、執務室の扉が突然盛大な音を立てて大きく開いた。
「くそッ……やっと着いたか……!」
そこに肩で息をしながら立っていたのは予想通りの姿。
含むような笑みを浮かべた楸瑛が、彼を迎え入れるように両腕を広げた。
「今日はまたいつもにもまして遅かったねえ絳攸。一体どこまで足を伸ばしてきたんだい? 後宮? それとも牢城かな」
揶揄するように紡がれた言葉で絳攸のこめかみに青筋が浮かび上がる。
「五月蝿い! 少し散歩をしてきただけだ!」
「いやいや、君のは散歩なんて可愛い言葉で済まされるようなものではないだろう」
世間では鉄壁の理性を持つと謳われる男の堪忍袋の緒が今にもブチ切れそうになっているのを察し、劉輝は慌てて宥めにかかる。
「ま、まあ落ち着くのだ絳攸。ほら、ここに茶があるぞ」
しかし王が手ずから淹れて差し出した茶にも目をくれず絳攸は几案に書簡の束を叩きつけた。
「な、なんだ? また仕事の追加か……?」
「全部、先の国試でそこの常春頭の弟が引き起こした問題の報告書だ」
地を這うような低い声に、楸瑛の口元が露骨に引きつった。
劉輝は崩れ落ちた山の上から恐る恐る数枚をめくって並んだ文字に目を滑らせる。
「むむ、こっちは錯乱した受験者たちが破壊した物品の見積もりか。こっちのは……辞職したきり帰ってこなかった礼部官の補填?」
「取り敢えず金銭面については藍家に損害賠償を請求する手はずになっている。文句はないだろうな楸瑛?」
「構わない、としか言いようがないね……」
はは、と楸瑛は乾いた笑いを漏らした。
それまで黙って耳を傾けていた陽子が、交わされるあまりの内容に黙っていられなくなり口を挟む。
「――前から思っていたのだが、たかだか笛の音ぐらいで被害だなんだと大げさすぎやしないか。確かに耳触りの良い音色とは言い難かったが、そんなに言うほど酷いものでもないだろう」
しかしその言葉に、楸瑛だけでなく劉輝や絳攸までもがまるで信じられないものを見るかのような顔で陽子に視線を注いだ。
一瞬にして妙な静寂に満たされた室内で最初に口を開いたのは楸瑛だった。
「それ……本気で言っているのかい?」
それはこっちの台詞だ、と陽子は眉を顰めた。他の受験者の妨げになるからと隔離するのは分かるが、錯乱だとか賠償だとかの単語は大げさにしか聞こえない。
劉輝が発言の意を示して軽く右手を上げる。
「つまり、陽子はあれを聞いても何ともなかったのか?」
「まあ、間近で聞くと大分五月蝿かったけど」
しかしどんなに酷かろうと所詮は笛の音。癇に障るという点で言うなら学校の黒板を爪で引っ掻く音に勝るものは無いだろうし、妖魔に引き裂かれる人間の断末魔の方が聞いていて余程発狂したくなるというものだ。
「あれを五月蝿い≠ナ済ますとはな……。俺も遠くからしか耳にしていないが、とても近くで聞けるような代物ではなかった」
「あのね絳攸、その近くで聞けるような代物ではない笛を私は今までずっと至近距離で聞かされ続けてきたんだよ。この苦労を労わって今後はもっと私に優しく接してもらいたいものだね」
「貴様が弟の教育をしっかりしてこなかったのが悪いのだろうが!」
軽口を叩く楸瑛と、噛み付くように反応する絳攸。……二人の会話はボケと突っ込みというか、いつもからかう側とそれに反応する側にきっぱりと分かれている。言うまでもなく楸瑛が前者、絳攸が後者だが。
「……仲が良いな」
ついぽつりと漏らすと、どこがだ!と絳攸の怒声が聞こえた。
陽子と一緒に二人を見守っていた劉輝はしみじみとした感じでうんうんと首を上下に振っていたが、振り返った絳攸にぎろりと睨まれて慌てて首をすくめる。
「――で、陽子殿に例の話はもうしたのか?」
「む? あ、いや、まだなのだ」
「君が来るのを待っていたんだよ」
そうだった、陽子が今ここにいるのは彼らに呼び出されたからだった。なにか改まって話すことでもあるのか。
「何の話だ?」
問えば、劉輝が表情を引き締めて正面に座る陽子を見据えた。
「単刀直入に言うのだ。陽子、これから暫くは身の回りのことに気を付けて欲しい」
「――へえ」
身の回り。それは端的に言うならば、命を狙われるかもしれないから気を付けろということだ。
「しがない留学生の命を奪ったところで得をすることがあるとでも言うのか?」
余所者が自分たちの朝廷をうろつくことを快く思わない者は少なくない。それは陽子とて重々承知している。しかし命まで狙われる筋合いはないはずだ。
「陽子が実は女性だという噂が少しずつ広まってきている」
「……つまり何だ? この国には外朝に女がいることが殺したいほど気に食わない奴がいる、ということか。私と――秀麗を?」
彼らの沈黙が肯定を表した。
不意に込み上げてきた乾いた笑いを抑えることができず、陽子は小さく口角を歪めた。
「下らない。よくそんな理由で人生を賭けようと思えるな。それとも完全に隠蔽できるとでも思っているのか」
しかし対する王とその側近たちの顔は硬い。
「笑い事ではないぞ、陽子。これにはそなたの命がかかってくるのだ」
「だが、まだそうとは決まっていないのだろう? だったら私よりも秀麗の方だけを気に掛けていた方が良い」
「もちろん秀麗に関しても対策は考えている。毒物の処理に関しては杜影月にも協力してもらうつもりなのだ」
「影月? へえ……彼には薬学の心得もあるんだな」
十三歳にして国試をするほどの学力を有し、なおかつ毒の知識にも通じている少年。一体どんな環境で育てばそうなるのか気になるところではある。
陽子は椅子の肘に手をついて立ち上がった。
「――まあ、ともかく私のことは気にしなくて大丈夫だ。そう簡単に死ぬような体でもないし」
「しかし、護衛ぐらいは」
反論の声を上げる劉輝を手で制し、さらに言葉を続ける。
「下手にそういうことをすると目立つ。それにあちらも他国の人間にまでは手を出さないかもしれない」
彼らの顔にはありありと不満の色が見えたが、陽子はそこで話を切り上げる。
「異変があればすぐに知らせる。今は、このままで大丈夫だ」
陽子は神仙だ。冬器でもない刃物で切りつけられたところで傷一つ付くわけがなく、まして毒などで死ぬはずもない。
それを彼らに言っても良かったが、目先の問題で頭を悩ませている人間を余計な情報で混乱させるのも忍びなかった。
陽子はひらりと手を振って執務室を後にする。背中に呼び掛ける声が小さく聞こえたが、無理に引き止められることはなかった。
[*前へ][次へ#]
[戻る]
[小説ナビ|小説大賞]
無料HPエムペ!