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彩雲の緋
白色

色彩に溢れた外朝を、一際目に眩しい白色の衣が駆け抜ける時期となった。
 
進士服の白は無位無冠を表す白。そして何色にも染まる可能性を表す白だ。上位二十名以外の及第者は吏部試を受けた後すぐに官位を受けることになるが、二十位以上の者はこれから二月の間をこの白を纏って過ごす。
 
どこで誰に見られているかも、何を評価されているかも分からない環境。

そんな中で――怠惰な者は巧みに手を回すことで己の重責を減らし、また一途な者は人目を気にする暇もなくがむしゃらに仕事をこなすのだった。


* * *


「よしっ、これでこの山は終了! ちょっと届けてくるわね影月くん。他に刑部と工部に届けるものはない?」

「あ、じゃあこれとそっちのをお願いします」

「これね。じゃあ行って来るわ!」
 
秀麗は山積みの書簡を抱えて勢いよく席を立つ。影月は筆を止めて秀麗を見上げた。

「秀麗さん──気を付けて、行って来てくださいね」
 
心配が滲み出たその声。秀麗は小さく微笑んで、平気よ、と短く返した。



府庫を出て、人の少ない廊を小走りに渡っていると、一瞬、足下がふらついた。
 
──まだ研修期間は十日も経っていないのに。尋常ではない量の書簡仕事を片付けるために睡眠時間が削られる一方で、その疲労は着実に蓄積しているのがわかる。
 
とにかく時間が惜しい。早くこれを届けて府庫に戻らないと。けれど外朝で一番立場の低い進士の身では、誰かが通りかかるたびに道を避け礼を取らなければならない。

「おお、臭い。こんな所におっては雌臭さが衣に移るわ」

「この恥知らずが。一体何をして上に取り入ったのだか」
 
ちらりと一別するだけで通り過ぎてくれる人ならば嬉しい。わざとこちらに聞こえるように汚言を捨てて行かれても、それだけならまだいい。

中には角で待ちかまえて足を掛けてきたり、肘で書簡を崩そうとしてくる人だっている。そうやって書簡を取り落とす自分を見て楽しそうな顔をするのだ。
 
こんな人たちに頭を下げなければならないなんて。
悔しい、悔しい、悔しい。
 
でも、これは自分が選んだ道なのだ。自分で望んで、この場所にやって来たのだから。

だから、頼まれたって後悔なんかしてやらないんだ。

「──聞いたか? あの留学生、実は女なんだってな」
 
「ああ、俺も聞いた。まあ言われてみれば確かに男にしては細い体してるな」
 
知らない官吏が二人近付いて来たので道を譲るためまた脇に寄る。彼らは自分たちの話に夢中で秀麗に気付いていないようだった。 

「女のくせに男のような身なりをして、おまけにあの言葉遣い。虚勢を張ってるんだか知らないが目障りなことこの上ない」

「まったくだ。今まで男の振りをして外朝をうろつかれていたのだと思うと吐き気がする──」
 
次第に遠ざかる話し声。秀麗は無意識に詰めていた息を吐き出した。

さっきの話への不快感がまるで泥のように体に纏わりついている。堪らなく気分が悪くて、それを振り切るようにして足を前に進めた。

「――落としたぞ」
 
不意に肩越しに聞こえた声に、小さく体が跳ねる。
 
振り返ると、まず視界に入ったのは鮮やかな赤だった。――先程の官吏たちに噂されていた、その本人。

「これ。違うか?」

「あ――ありがとう……ございます」
 
どうやら一番上の一枚を風にさらわれていたのに気付かなかったらしい。抱えた山の一番上にその書簡を乗せてもらいながら、秀麗は躊躇いがちに彼女を見上げる。
 
――彼女は、今の話を聞いていたのだろうか。この朝廷で自分と同じように、彼女もまたこの男社会の中で不合理な目に遭っているのだろうか。
 
覗いた深い翠の瞳からは、何の感情も読み取ることができなかった。

秀麗の視線に気付いた陽子は秀麗と視線を合わせてゆるく微笑む。

「二ヶ月。大変だろうけど頑張れ、進士殿」
 
労わるように掛けられたその言葉にも影のようなものは少しも感じられなくて。

そのまま去っていく細い背中に、秀麗は改めて賓客に対する礼を取った。


* * *


人気のない廊を選んで通りながら、陽子は秀麗の気遣わしげな瞳を思い出していた。
 
先程向こうを通りがかった二人の官吏。陽子の位置からではよくは聞き取れなかったが、それでも自分の噂をしているのだということは分かった。だったら話の中身は想像するより明らかだ。

頭を垂れて彼らが過ぎるのをじっと待っていた秀麗にはその内容がしっかり耳に届いていたのだろう。暫くして顔を上げ歩き出した秀麗の足取りには明らかに苛立ちが滲んでいた。
 
――人のことで心を痛めている余裕なんてないだろうに。
 
秀麗と影月の二人は初日から散々な嫌がらせを受けていると聞いている。封書で嘘の集合時刻を知らせることから始まり、挙げればキリがないほどの。

破落戸まがいの武官たちから守るため劉輝が二人の専属護官と称して傍についていることも当の本人から聞いた。

……大体的に警護をつける訳にはいかないのは分かるが、しかしもっと他にやりようはなかったのだろうか。

そこまで信頼できる臣が他にいないのか、それとも惚れた女の子だから自分の手で守りたいのか。まあどちらにせよ陽子が口を出すようなことではないだろうが。



――さて、取り敢えず出歩いてはいるもののこれからどこへ行こうか。
 
府庫にいても良いのだが、今の時期あの場所は仕事に勤しむ進士やら彼らに仕事を押し付けにやって来る官吏どもやらでなかなかに騒がしい。

押し付けられる筆頭が秀麗たちであることは言わずもがなであるが、見たところ他の進士たちもそれなりの目に合っているようだ。新人いびりというやつはどこの世界でも共通なのか。
 
このまま宛もなくふらふら歩くのも悪くないのだが、ここ最近は周囲の視線がかなり鬱陶しい。できればどこかに腰を落ち着けたかった。

御史台で清雅と話すか、それとも仙洞省へ行こうか。綻び≠ノ関する記述はあらかた読んでしまったが、この国の呪について教えを請うてみるのも良いだろう。何かの参考にぐらいはなるはずだ。
 
それにしても、こんなに暇を持て余すのは一体何十年振りか。衣食住に困らず、かつ政もしなくて良い生活がこんなにも退屈だったなんて。
 
……帰りたい。
 
そうやって想いを馳せる先は、昔は虚海の向こうの生まれ故郷だった。でも――今は。


* * *


夜。外朝と内朝の境、客室と呼ぶにはあまりに簡素な居室に間借りしている少女の元に、今日も彼は訪れていた。

「陽子、今日は何か変わったことはなかったか?」

「何もなかったよ」

「渡した毒消しはちゃんと飲んでいるのか?」

「ああ。日に三度、言われた通りに」

「怪我とかは――」

「全く。ご覧の通りだ」

「むう、なら良いのだが……」

素っ気ない返答を受けて口を尖らせる劉輝に、陽子は苦笑に似た吐息を漏らした。
 
この禁色を纏った客人は進士たちの研修期間が始まってからというもの、毎日のように陽子の様子を見に来る。その度に同じような応答が繰り返され、今日でもう何度目か。

「本当に何もないのか?」

「嘘をついてどうする」

「心配させたくないから何も言わないとか……」

「そんなことをしたって解決が遠のくだけだろう」
 
もっともな言葉に劉輝は小さく唸る。

陽子が何かを隠しているようには見えない。しかし今まで全く何もないというのも信じ難いことだった。

「――秀麗たちへの被害が、予想より少ないのだ。その分陽子の方に矛先が向いていると思ったのだが」
 
そうは言ってもな、と陽子は首を傾げる。

「陰口だとかそういうのは何かあった内には入らないだろう。後は……たまに殺気めいた視線を感じるぐらいで、本当に何も」
 
実際、以前紅黎深から受けていた嫌がらせの数々の方がずっと執拗だった。今秀麗たちが受けているのはそれよりも更に露骨なものだろうけれど、陽子に対しては全く手を出してこない。

「私が留学生だから手出ししないんじゃないのか。他国との関係を悪化させたくはないのだろう」

陽子が綻び≠フ向こうの世界から来たと知る者は僅かだ。この国での陽子の立場は留学を目的とした国賓、それも朝廷三師である霄太師の友人の娘である。

それが彩雲国に滞在している間に害されるようなことがあれば国同士の戦にだってなりかねない――と、普通ならそう考えるのではないだろうか。
 
しかし劉輝は否定するように眉根を寄せ、腕を組んで言った。

「……あの者がそんなことまで頭の回る人物だとはとても思えぬのだ」
 
あの者、と劉輝が断定したことに陽子は軽く目を瞬かせる。

「なんだ、主犯の目星はもうついているのか」

だったら後はそいつを引っ捕えれば事は解決するのだろう。すぐにそれが出来ないと言うのなら、理由は一つしかない。

「尻尾が掴めないのか」

「うむ……そういう才能だけはあるらしくてな」
 
劉輝はうんざりしたように溜息を吐く。

「もうじきすれば何か襤褸を出しそうではあるのだが」

「そっか」

またひとつ溜息を落とした劉輝は玻璃の窓の向こうに浮かぶ月に目をやってから、徐ろに椅子を立った。

「長居してしまったな……そろそろ戻るのだ。明日また来る」
 
当たり前のように言う劉輝に陽子は呆れたように笑った。

「心配性だな。そんなに毎日来なくても、何かあればこちらから言うのに」

「何かあってからでは遅いではないか」

「それはそうかもしれないけど……まあいいか。また明日」

「うむ、明日も来るのだ」

――また明日。自分で言ったその言葉が、胸の底で重く響いた。明日もこの場所で、この国できっと会うことを約束する言葉が。

明日も自分はここにいる。明後日も、その次の日も。自分は変わらずにこの場所にいるのだろう。


時が来るまで。
 

深い響きの声をした藍色の少年の、あの言葉を思い出す。

時が、来るまで。
それは、あとどれぐらい。

「焦らないって、決めたのにな……」

密やかに漏らした声は殆ど吐息のようなもの。

――このどうにもならないもどかしさを抱えたまま、あとどれだけの時を耐えれば良いのだろう。




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