帝王院高等学校
出番がないなら作ればイイじゃな〜い?
「ああッ!な、何て事だ、ミスター駿河が婚約だって書いてある…?!」

艶やかなイングリッシュガーデンの片隅、庭師が寝泊まりしているロッジの中に身を潜めた男は、震える手で読んでいた新聞を握り潰した。

「酷い…酷いよ、ミスター駿河…!僕は君を密かに腹心の友だと認めていたと言うのに、どうして僕には婚約発表会への招待状が来ないんだ?!」
「そりゃ、会った事もない相手から当家へ招待状が届いたら、執事長の手に回る事なく破棄されますよ。ま、お茶でも飲んで気を鎮めて下さい、公爵様」
「鎮めていられるものか!僕は昔からジェームス=ボンドに憧れて、SISに入りたかったんだ…!それを我慢してまで爵位を継いだのにっ」
「我慢て…。そんな危険な仕事よか、公爵の方が良いじゃないですか」
「何を言うんだ、君だって好きで庭師になった訳じゃないだろうエドワード?君が元CIAの工作員だって知ってるのは、お母さんと僕だけだしね」
「…勘弁して下さいよぉ、サー=プリンス・アレクセイ」

素早く窓辺から外を見渡した庭師は、被っていたボロボロの日除け帽子を力なく脱ぐと、深々と溜息を吐く。

「酷い裏切りだ、あの有名なニンジャを統括する帝王院の当主が、たった二十歳で婚約なんて…」
「そう驚くほどじゃないでしょ」
「判ったぞ!これは、これは政略結婚だ!そうに決まってるッ!何々、相手は東雲財閥の関係企業で働く、サラリーマンの一人娘………んん?」
「へぇ、日本最大規模の若き支配者としては珍しく、恋愛結婚ですか」

一方、わざわざ下手な変装までして執務室から逃げ出してきた男と言えば、きらびやかな金髪を真っ黒なカツラで隠し、同じく口元には黒ヒゲを貼り付け、どの掃除夫の制服を失敬してきたのか、裾が足りていないオーバーオールを着ていた。幾つもの修羅場を潜ってきた元CIAすら目を疑う程に、普段の凛々しい姿から掛け離れているのだ。

「…そんな、恋愛結婚なんて………良いなぁ。流石はミスター駿河だ、僕と歳もそう変わらないのに、しっかり自分の決めた道を歩いているんだなぁ…」
「アレクセイ様こそ、マダムマムがお決めになった相手と結婚するかも知れませんよ?」
「アレクって呼んでくれないなら返事しない」
「僕の首が飛びます」
「僕だって悪者を倒したり、痛めつけたり、たまにマフィアから追い詰められて冷や汗流したり、機密文書を盗みにきた忍者と許されざる友情を深めて共に逃げたりしたかった!こんな…!こんな、週休12時間制だよ?!職務室と王宮を往復してるだけで一日が終わる生活、もう耐えられないんだよ…っ」
「まだ半年にもならないじゃないですか」

偽ヒゲを撫でながらわざとらしい泣き真似をする若き公爵に、鋭い目付きの庭師は呆れた様に肩を落とした。

「エディ、僕はミスター駿河に会ってみたい」
「…は?」
「王宮内の噂じゃ、帝王院財閥の先代があのグレアムに繋ぎを取ろうとしていたらしいんだ」
「な…!グレアムって、あの?!」
「しっ。元CIAがそんな顔をするくらいだ、凄い家柄なんだろうね?イギリスから追い出されるまでは男爵だったそうだけど、どうして追放されたのか、誰も話したがらない。エディは知ってる?」
「…」
「知ってる様だねぇ。ふふ、これだから僕が馬鹿にされる訳だ。皆が僕をなんて呼んでるか、君は知ってるかね?母さんの操り人形だ。妾の子の癖に、アリアドネは物置、僕は母さんの部屋の隣。兄は歓迎されて妹は邪険に扱われる、その理由は僕が、」
「殿下」
「マダムの愛人同然だから、…ってね。全く、馬鹿みたいだと思わないか、エディ?」

庭師は汚れた帽子を押さえたまま、立ち上がり掛けた背を下ろす。
楽しげに笑う十代の公爵は、変装しても隠しきれていない美貌に冷めた笑みを浮かべ、広げていた新聞を折り畳んだのだ。

「人嫌いの母さんは、僕を大切にして下さるけれど、触った事なんて一度もないよ。…僕のミドルネームは父がつけたもので、母さんがつけたんじゃない。何にも知らない他人は、好き勝手に言ってくれるけれどねぇ」
「人の噂なんてそんなもんです。信憑性なんざ欠片もない」
「だから僕は直接確かめたいんだ。僕と歳の変わらない帝王院駿河が、急死した先代の跡を継いだ今、何を考えているのか」
「………はぁ。で、どう言った理由を捏造するおつもりですか?」
「十代最後の記念留学なんてどうかな?」
「嬉しそうですねー…。それ、もしかして僕も同行しないといけないなんて…」
「僕がこの家で信用してるのはアリーとエディだけだから、勿論さ」
「勘弁して下さいよ坊っちゃん〜。何処の公爵が庭師を警備につけるんですかぁ…」
「あははははは、此処にいるじゃないか僕が!これで大学が楽しくなってきた、貴族だらけの堅苦しい学校なんて、早いとこ辞めるか卒業するかって思ってたけどねぇ」

もう何を言っても無駄だろうと、庭師は頭を抱える。
あの堅物な義母の傍らでは紳士の振りをしている現公爵は、誰もが恐れる女帝に対して唯一、幼い頃から口答えする様な子供だったのだ。



「母さん、僕ちょっと留学してきます。探さないで下さい」
「…アレクセイ、それは何の冗談です?」
「いやだなぁ、僕が冗談を言った事がありますか?うふふ、僕の邪魔をしたら爵位返上して、陛下の前で裸躍りしますから」
「なっ」
「おやおや、母上はどうもお困りのご様子。それでは愚息が紳士らしからぬ愚かな真似をしないよう、くれぐれも寛大なご採決を…」

金髪碧眼の、当時19歳だった公爵はそうして、全貴族が恐れる女帝を前に微笑んだのである。天使の様な見た目で、彼は何処までもそう、自分に忠実な男だったのだ。

「ああ、そうそう。ついでに母さん、アメリカ大統領に会えるか交渉して下さいませんか?」
「何を企んでいるのです、お前は…」
「いやね、誰も僕にバロンが空席である意味を教えてくれないんですよ。『金十字に追われた灰男爵』、彼らは北のグリーンランドに逃げ延びたそうですねぇ」
「…!」
「大叔母様が再婚する前、貴族の家に嫁いだ事は知ってます。さて、それは何処の家だったのかに関しては、誰も喋ろうとしない。この僕にすら」
「アレクセイ…」
「セシル=ヴィーゼンバーグ、貴方に問います。僕はこの家の、何ですか?」

庭師は一言も喋らず、同じ様に黙した執事長と共に女帝の部屋の片隅で、悪魔の会話を聞いた。

「貴方はこの家の主ですよ…、サー」
「あははははは、ですよねぇ!僕が決めた事を、誰に反対される心配もないんでした。そうですね、母さん?」
「………お好きになさいませ、閣下」

眉間を押さえ、絞り出す様な声で呟いた前公爵に同情したのは、何も庭師だけではなかったに違いない。






















ここで特に重要ではないけど出番がなくてひっそり枕を濡らしている遠野アナウンサーにより、緊急速報をのんびりお送り致します。非常にどうでも良い内容なので、さらっと読み飛ばされても特に問題ありません。


ピンポンパン腐ォーン♪


「ちわにちわ、抜群の空気感に主人公の定義を考え直しては膝を抱えている遠野俊(15歳独身)です!座右の銘は『萌え』、前世から腐っていたと噂されておりますが、今の人生にも迷っている有様でして、過去とか未来とか言ってる場合じゃねェ、事件は今起きてるんだと言いたい!
 そうっ、事件はその辺の会議室で起きている!課長に呼び止められた新人サラリーマンとかっ、初めての職員会議で精神的に参った新米教師をそっと慰めるイケメン先輩教師とかっ、はたまた会議室に必ずと言ってイイほど存在する長テーブルと椅子とか!
 この場合、テーブルと椅子はどっちが攻めなのか大変気になりますねィ!大きいテーブルに攻められる安っぽいパイプ椅子!はたまた大きいテーブルを激しく攻めるパイプ椅子!どちらにしてもギッシギシ荒れ狂う事でしょう!ハァハァハァハァハァハァ、はっ。

 大変失礼致しました。一部音声が乱れました事を、眼鏡の底からお詫び申し上げま。

 さてさて、いつの間にか主人公である僕をさらっとシカトして物語が進んでいますが、皆様は如何がお過ごしでしょうやら!僕は僕であっちでハァハァ、こっちでハァハァしております!ええ、先程もうっかりニュースの途中で持病のハァハァが出てしまい、本当にホモってイイですね!いつも全力で呼吸困難でございますとも!皆さんは如何がお過ごしですか?僕の様に毎日が戦いで死に掛けてたりしてますか?
 あ、でも僕の場合、大半がっつーか全てがただハァハァしているだけなので、お構いなく!なんて僕の近況なぞ誰も知りたくないでしょうし、逆に聞かれてもハァハァしてるだけとしか答えられませんので、その辺はさらっとスルーして下さると眼鏡の底から光栄です!さらっとシカト、大事!

 さてさて、8区辺りで野良猫がにゃおんと鳴いている爽やかな春の朝でございますが、一年Sクラスは非常に切迫してるんです!
 何しろ地下に埋まってボコボコになった所を、地盤沈下と言うとどめを刺されてフルボッコ!然しそこはそれ!現場はBL小説三丁目なので、奇跡的ミラクルに死者はいません!多分!

 でももしかしたら誰かが命を落とすかも知れませんねェ…くくく、くぇーっくぇっくぇっ!そう、主に僕とかが命を落とすかもっ!これがたまに見掛ける主人公死亡フラグなり!打たれ弱いオタクを更に痛めつけて、最後には命まで奪うとは!血も涙もありません!でもBLに血や涙など最早不要なのでございます!



 そう、必要なのは精子



 …こほん。
 一部音声が乱れました事を、眼鏡の底からハゲるほどお詫び申し上げます」



全体的に音声が乱れました事を、心からお詫び申し上げます。
この放送は、の提供でお送りしました。
此処からは、食卓の笑顔を応援するワラショクフーズと、帝王院学園の提供でお送りしたりしなかったりします。





















「まぁ、かいらしいこと。お人形さんみたいやねぇ」

会う人、その誰もが同じ事を言う。
飽きもせず、まるでその言葉しか知らないかの如く、同じ事を言うのだ。

「見とおみ、亡うなった桔梗さんにそっくりどすえ。でも貴葉には似んで宜しかったんと違います?大声で話すわ、走りはるわ、穢らわしい公爵の血ぃや」
「…益体もない事言うんやめとき、子供の前で。龍の宮の耳に入ったら事や」
「よしとくれやすそないな戯言、聞かされたうちが赤こう赤こうなってまうやないの。十口に血の情なんやあらしませんえ?使えんおくどさんは取り替える、それを家訓に生き延びて来られたん違います?」

誰も彼もが人形人形と繰り返す度に、本当にそう思い込んだのだろうか。何の情もない人形だと。ただただ笑顔の子供だと、見下す様に。

「はてさて、お人形さんは駄々子?賢いええ子?それとも、火の着かんおくどさん?」
「やめぇ言うてるやろ。育ちが知れるわ…」
「ふん、ええ格好しぃやこと。アンタも本音は思うてるんやろ?おつむの中まで見えへんのは残念さんどすな。『あちらさん』はどうか知りませんけど、叶に阿呆は要らんえ?お人形さんは賢い子ぉやさかい、おばさんの言うてる事、判ってくれますやろ?ほほほ…」

叶二葉と言う名前を、一体何人が覚えているのだろうと考えた。
名前など所詮、個別の肉に与えられた差別だ。見た目が同じでも名前が違えば同じものではないと、人はそう思いたいだけ。
大人とは、大きいだけの人間と書く。中身は子供と大差ない。それが、たった三年少々の人生で学んだ事だ。

「…変な喋り方しはる。どっちが益体ないん、あんじょう繕っても大阪訛りにしか聞けへんわ」
「つまんねぇ事をほざく阿呆っつーのは、何処にでも居るもんだ」

聞いていた癖に助けてくれる訳でもなく、彼らが立ち去るまで姿を現さなかった男は呟いた。どうでも良いとばかりに。

「ご機嫌よう、月の宮様」
「ご機嫌なんざ良い訳あるか。辛気臭ぇ餓鬼が、男の癖にヘラヘラすんな。気色悪い」
「…は。弟に女物の着物着せて喜ぶ変態の癖に、どっちが気色悪いんだか判らしませんなぁ」
「言われて悔しけりゃ言い返して泣かすくらいしろ」
「悔しくないから笑ってんだろうが、阿呆が。ババア泣かして喜ぶのはテメェくらいだ、女男」
「はぁ、一体誰に似たら、ンな汚ぇ言葉遣いしやがるんだ」
「さぁ?テメェしか居ねぇんじゃねぇか、文仁」

16歳離れた二番目の兄と言えば、長男以外はどうでも良いとばかりに、妻にも生まれたばかりの娘達にも辛辣な態度だ。顔を合わせる度に嫁から平手打ちをされている様だが、十八番は『嫌ならとっとと出ていけ、喜んで離婚してやる』である。

「双子が初めて喋った台詞が『死ね文仁』だったんだって?兄さんの茶道教室にゃ、口が軽いババアしか来ねぇのか?」
「マジで冬ちゃん以外の人間は十割方カスだ。死に絶えれば良いのに…」
「ああ、一緒に死んでくれるんですか?お優しいですねぇ」
「女如きが冬ちゃんの嫁になろうなんざ厚かましい。ブスは片っ端から死刑だ」
「その内、ほんまに殺されますえ?」

とうとう最近では挨拶代わりに『死ね文仁』と宣う兄嫁の声は、敷地中に響き渡る朝の名物だ。

「文仁。宵の宮の癖に、何で明の宮に住まわせられてんだと思う?って、さっきのババアが言ってた。今日の茶菓子は豆大福だったろ?歯に小豆の皮つけてるババアほど愉快なもんはない」
「知りたきゃ直接冬臣兄さんに聞け、糞餓鬼」
「人が住まない家は痛むのが早いんだって?」
「変な知恵ばっかつけてやがる。可愛いげのねぇ愚弟だ」
「それお互い様や言うんと違います?」
「近い内に嫌でも追い出してやる。それまで指咥えて待ってろ」

毎日毎日、そうも気に食わない弟の元へやって来る理由は単純明快、此処に仏間があるからだ。
歩けるようになるまでは母屋に、歩けるようになってからはこの離れで、お手伝い数名と共に過ごす事を強いられている二葉にとって、この建物と柵で仕切られている庭先だけが世界の全てだ。

あの柵を越えると何処からともなく誰かがやって来て、危ないので中に入りなさいと口を揃える。誰も彼もが同じ事を言うのだ。お手伝い以外の嫌らしい笑みを浮かべた大人は『お人形さん』『お母さんにそっくりね』『だから生かして貰えるのよ』、と。
衣食住の大半を共に過ごしている筈のお手伝いは、必要最低限しか喋らない。話し掛ければ反応はしてくれる、それだけだ。用もないのに話し掛けるのは可笑しいだろう?誰が考えても合理的ではない。だから話し掛けない。結果、会話は必要最低限で済まされるばかり。

毎日毎日、仏壇の花と三杯の茶を取り替えている、にこりともしない長髪の男だけが、人間の言葉を話している様な気さえするほどに。
あの男だけが『弟』と呼ぶ。女物の着物を着せられて、お人形さんと呼ばれている、哀れな子供を。


「そうか。あては追い出されるんか」

誰も居なくなった縁側で、艶やかな着物を纏ったまま、大人に言われて伸ばした髪を結い上げている簪と漆の櫛を刺したまま、庭先で鳴き始めた鈴虫の音を聞いている。
今日は誕生日だった。明日から秋だ。

「もうすぐ5時。先生が来はる時間や、…早う用意せな」

線香が燃え尽き、白い煙が消えた。
白檀の香りで包まれた仏間を一瞥し、三杯の茶が並ぶ写真立てを順に眺めてみる。

「お父さん、お母さん、お姉さん。あてが産まれた所為で死なせて、ごめんなさい」

いつもは飽きもせず、涙が出たものを。
いつからか慣れたのだろうか。この日はただの一粒も出なかった。寧ろ、笑ってしまった様な覚えすらあった。

「…どうせ出てくなら、早い方がええどすなぁ。先生が来るまで、方法考えとこ」

誰にも邪魔されず柵の向こうに出た時。何を考えるのだろうか、自分は。



燦々と照りつける太陽の元に放り出されて。
(それでもまだ生きていたその時、は)
















男とは、なんと愚かな生き物なのか。
私は早くにそう悟りました。男とは獣にも劣る、大層惨めな生き物であるのです。

私は女王の為に産まれました。
私の母もまた、女王の為に生きました。私の祖母は幼い女王陛下の教育係を務めた程の人物で、我が家は女王の為に産まれ、女王の為に死ぬべき宿命を背負っているのです。



そこに男が割り込む隙などあってはならない。







「マム。お加減は大事ありませんか?」

考え事をしていたつもりで、その実、少し眠っていたのかも知れない。
気圧の変化に慣れる事はないと思っていたが、近くから聞こえてきた声に目を開けば、国を出てから半日以上続いていた頭痛は、綺麗さっぱり消えていた。

「…お茶を淹れて」
「はい、ただいま」
「おはようございますマム、日本領海に入りました。間もなく着陸致します」
「マム。日本駐屯の密偵よりご報告が」

紅茶を淹れ始めたメイド長に続いて、女性ばかりのメイド達が入れ替わり立ち替わり、目障りにならないよう話し掛けてくる。いついかなる時も慌ててはならない、それは英国婦人の美徳だ。誇り高き女王陛下の如く、女とは気高くあらねばならない。

「お目覚めですか、セシル様」

二度と会うつもりはなかった男の声に、やはり夢ではなかったかと目尻を押さえた。内心の苛立ちを飲み込み、頭痛に耐え抜いて今更、怒鳴るのは億劫だ。

「やはり体調が優れない様だ。いつもまでも美しく貴方もまた、歳を取ったと言う事ですかな」
「…日本へ行くならつれていけと押し掛けておいて、恩知らずな。荷物なら荷物らしく、黙っていなさい」
「妻に話し掛けて何が悪い?話し掛けるのも嫌なら、離婚してしまえば良い。体裁を気にしてそれが出来ない君は、幾つになっても哀れだセシル」
「黙れと言ったのが判らないのですか!」

耐えきれず声を荒らげた瞬間、メイド達が肩を震わせるのを見た。
なんと品のない行いをしてしまったのか。この年齢になって、もう感情に支配される様な事などないと思っていたのに、この様だ。

「彼女達は君の怒った顔を見た事がないんだね。可哀想に、怯えている」
「…黙りなさい。外へ放り出されたいのですか」
「息子の墓参りへ行くのと、娘の元気な姿を見るのに、許可が必要なのか」
「貴方には新しいパートナーが居るのでしょう?だからわざわざ、」
「『わざわざ死んだ事にしてやったのに』、か?…惚れて結婚した妻に指一本触らせて貰えなかった惨めな男の気持ちなど、君には判らないのだろうね」
「黙りなさい」
「そんなに男が嫌いか。私はレヴィ=グレアムではないのに」
「黙りなさい!誰か、この男をつまみ出して頂戴!」

振り払われたカップが割れる音、メイドに囲まれた男は皺だらけの顔へ、困った様な笑みを滲ませる。

「君ももう若くはないのだから、無理はしない事だ。折角の長い寿命だ、人生を楽しもう」

去っていく男の言葉に深く息を吐き出した女は、皺だらけの手を強く握り締めた。



















「4000円です」

タクシーが停車した瞬間、運転手が振り向くのと同時にクレジットカードを差し出した。幾らなのか翻訳する暇も惜しい。今は一刻も早く降り立ち、鏡を味方に身嗜みを整えたいのだ。

「もう喋っても良いぞ、Osiri」
『目的地に到着しました。お疲れ様でした』
「ナビから切り替えなさい。…然し古めかしい建物だな、それに想像より小さい。これが帝王院学園なのか」
『現在地は私立帝王院学園のグランドゲート前、前方の建物は校門です』
「…は?校門?この煉瓦造りの建物は校門なのか?」
『学園HPを検索しました。グランドゲートは現在、80名の警備員が駐在しています。真っ直ぐ進み、左手のインターフォンを押すと中へ入れるかも知れません』
「曖昧な事を言うな。知れませんじゃ困る、知れませんじゃ」
『リチャード=テイラー、物事を試す前に否定されては研究者の存在意義が消滅してしまいます。これだから理系の男は頭がカチンカチンでいけません、そんな所も良いと言う頭の弛い女性はレアです。日本海域に於けるメタンハイドレートの如く』
「判った判った、真っ直ぐ行った左手だな!押せば良いんだろう、押せば!一体誰がお前の言語データベースを構築したんだっ、口が回り過ぎる奴は人間も機械も嫌いだ…!」
『理系の男は口で負けるとえてして逆ギレするものです』

何とボキャブラリーの豊富なアンドロイドなのか。
自分の携帯電話じゃなかったら投げ捨てていたが、自分の日本語力がないに等しい事を思い知らされた今、かしましい携帯電話だろうと、自動翻訳機能は必要不可欠である。
などと、世界で最も優秀な大学で教鞭を奮う男は、ただでさえ運動不足を痛感しながら、大量の花束と紙袋を抱えた上、キャリーケースまでゴロゴロと引きながら、なだらかな階段状になっている煉瓦の石畳をひた歩いた。

目の前に見えるのに、歩いても歩いても近づいてこない。
タクシーを降りてから、両脇は石垣の様に積まれた煉瓦の壁で塞がれており、階段状に並んだ煉瓦の石畳は一本道だ。
突き当たりに同じく煉瓦造りの建物が見えるが、数分歩いて漸く、巨大な門の様な扉を有したかなり大きな建物だと知った。遠くから見るのと近くで見るのは、雲泥の差だ。

「左手のインターフォン…ああ、これだな」
『こちら帝王院学園セキュリティーです。ただいま係の者を向かわせておりますので、暫くお待ち下さい』

何処かに監視カメラでもあるのか、インターフォンを押すとすぐにスピーカーから聞こえてきたのは、日本語ではなく英語だった。流石は日本有数の私立校だと感心しつつ、重さはないが異常に嵩張る花束を抱え直す。
間もなく、巨大な門の脇にある普通サイズの扉から一人の男が姿を現し、品良く頭を下げた。適切な教育を受けた人間である事は、誰の目にも明らかだ。

「ようこそお越し下さいました。本日は新歓祭へのご来園でしょうか?」
「はい、そうです。身分証明が必要ですか?」
「こちらで窺いますので、どうぞ中へ。宜しければお荷物をお預かり致します」
「助かります、有難う」

有難うの部分を日本語で言えば、バトラー姿の男もまた「どう致しまして」と微笑んだ。成程、本場イギリスの執事の如く気品がある。
促されるまま、建物の中で記帳と身分照会を済ませると、小型のカートに荷物を纏めてくれたバトラーが入ってきた時とは別の出口から、学園内へと案内してくれた。

「こちらから帝王院学園です」
「こ、これは広いな…」

表の石畳の道を通っていた時には想像もしていなかった、余りにも広大な敷地が目の前に広がっている。
遥か彼方に見える緑はタクシーの中で暫く眺めた山々のものだろうが、恐らく山一つは軽く潰したのではないかと思えるほどの敷地は、プールの如く巨大な噴水があしらわれた広場から向こうに、色とりどりの花や緑が見えた。イベント用に作られたのか、その向こう側は煉瓦の長い道のりが続いている。

「左手に見えます森林広場がヴァルゴ庭園、右手手前の白い建物がリブラ寮群です。まずはリブラへお立ち寄り下さい、案内の者がおりますので」

最後まで丁寧な態度だったバトラーに礼を言い、カラカラとカートを押しながら男は歩き始めた。近くに見えるがかなりの距離だと言う事は、わざわざ計算するまでもなく判る事だ。

『目的地までは直線で』
「やめなさいOsiri、既に暗算で理解している」

学者に歩けと言うのは、おたまじゃくしに跳ねろと言う様なものだと考えたが、考えただけだ。喋れば元々ないに等しい体力が減るだろう。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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