帝王院高等学校
まだ視ぬ場所へ翔べ!
泣きながら走った。
他には何にも考えていない。
自分より大きい北緯の見た目より軽い体を背負っている事に気付いたのは、ラウンジゲートの中へ逃げ込んでからだ。
「太陽君っ!」
桜の悲鳴に似た叫び声に足を止める。人気が少なくなったラウンジには教師や留学生ばかりで、騒ぎに気付いたのか足早に駆け寄ってきた。
「お前ら大丈夫か?!どうしたんだ?」
「はっ、はぁっはぁっ」
「川南じゃないか。しっかりしろ!」
脳震盪を起こしているらしい北緯が教師達に運ばれていくのを眺めながら、痛々しい表情の桜に手を伸ばした。
「ひ、太陽君…」
「は、はっ、はぁっ、はぁっ」
「川南先輩…紅蓮の君は、大丈夫だよねぇ?」
桜の腕の中に赤いコートがある。
それを呆然と見つめながら、どうしてこんな事になったのかを考えた。
健吾から殴られた時。
親衛隊に囲まれて連れ去られた時。
怖い事や痛い事が何回もあった。健吾から殴られたのはまだ別だ。唇の端を僅かに切っただけで、腫れももう引いた。
親衛隊に連れ去られたのは数に入らない。罰は与えられている。
「さ、くら」
「太陽君」
「ゴキ、って。イチ先輩の背中が、あ、あんな、音…」
「っ」
「どう、しよう。だ、だって俺が止めなきゃ、左席委員なのに、中央委員会より偉い、偉いんだよ?なのに、」
足が震えているのは走り続けた所為だろうか、それとも。
震えながら携帯を取り出した。余りに震える役立たずな右手を左手で支えながら、数少ないメモリを呼び出す。
耳に当てる事も出来ない弱虫な右手でハンズフリーボタンを押したが、
『お掛けになった電話は、電波の届かない場所に居られるか電源が入っていない為、掛かりません』
だから、通話終了ボタンを押す事もメールを打つ事も出来なかったのだ。
だから、目一杯目尻に溜め込んだ涙を零さない為に叫ぶしか出来なかったのだ。
「クロノスライン・オープン!」
その時、この指輪さえあれば何でも出来る様な気がした。
『コード:アクエリアスを確認、ご命令をどうぞ』
その時、その機械音声がまるで正義の味方の様に思えた。
「しゅ、俊!俊!俊!俊!俊!俊にっ、頼むから俊に早くっ!」
『コード:マスタークロノスに通信します』
「早くっ!イチ、イチ先輩がっ、」
『Not Found、マスターリング応答がありません』
「何、」
『IDサーチ開始します。…98%、リブラAREA301に確認、セキュリティライン・オープン。マスタールームをフローします』
恐らく指輪を外しているのだろう。
それっきり暫く沈黙した機械音声に焦れながら、周囲の人間が興味深げに眺めてくるのを構いもしない。
ただただ、祈る様に。
他人へ転嫁する事でこの凄まじい恐怖から逃れたいだけだ。弱虫な自分は。下らない男のプライドで泣きたくない自分は。
『………73%…80%………98%。エラー、確認出来ませんでした』
「何だって?」
『引き続きご利用になられる場合はご命令を。終了する場合は、』
「だから、俊!マスタークロノスを見付けろって!いや、カイ君でも良いからっ!ブラック=K=灰皇院、コードは知らない!」
『エラー、該当の生徒は確認出来ません』
「いい加減にしろよ!一大事だっつってんの!」
『引き続きご利用になられる場合はご命令を。終了する場合は、』
「…畜生、」
「駄目ぇっ、太陽君!」
指輪を引き抜いて投げ捨てようとした。
けれど今にも泣いてしまいそうな桜が飛び付く様に手を伸ばしてきて、
「もぅ大丈夫っ!先生に言ったから、川南先輩は医務室、警備の人が僕達の部屋まで行ってくれるって。だから、」
「何言ってんの、相手は中央委員会の副会長だよ?警備や教師なんかに何が出来るんだよ!」
「太陽く、」
「中央委員会に何が出来るんだよ!出来ないだろ?!だから俺達左席委員会が取り締まらなきゃ駄目なんじゃねーの?!」
八つ当たりだ。
弱虫の身勝手な言い訳だ。
桜は何も悪くないと判っているのに。
友達に慣れていない弱虫は、責任を余所へ押し付ける事でこんなにも自分を守ろうとしている。
佑壱の身を案じている振りをしているだけだ。
本当は、自分の所為で佑壱がああなったのだと思いたくないから。
這いつくばりながらそれでも庇ってくれた佑壱を、たった一人残して逃げてきた罪悪感から逃げたいだけだ。
「…俊」
握り締めた拳を開いて、指輪に目を落とす。そうやって俯いてしまえばもう、駄目だ。
零れ落ちる。(止め処無く)
滴り落ちる。(際限無く)
だから弱虫な自分を晒したくないから、また。
(逃げるのだろうか)
「待って、何処行くの太陽君っ!」
「桜は安全な此処に居て!俺、行かなきゃ」
違う。もう卒業したのだ。
昨日までの平凡で孤独で後ろ向きな人生から、今日。
『俺の親友が誓ってんだろ!』
そう、あの時から。
「泣いて何になるっつーんだ、ド阿呆!だからいつまでもチビって笑われるんだよ!」
気付いている。本当はとっくの昔に零れ落ちていた雫に。
知っている。本当はとっくの昔に滴り落ちていた弱虫の証を。
「俊の奴、単独でカッコ付けようったってそ〜は問屋が卸すかい。イチ先輩に失せろなんて言われて本当はちょっとイラっと来たんだ!」
走る走る走る走る走る、まるで鳥にでもなったかの様に。
走る走る走る走る走る走る何処までも、何よりも早く。
王が何だ神が何だ。
俯いて生きる憐れな生き物に告ぐ。
求める【天】を見上げるが良い、地を這う全てよ。
Waltz-回旋曲
Fryhigh, to the anywhere!
まだ視ぬ場所へ翔べ!
灼熱の【太陽】に呑み込まれる覚悟があるなら。
「駄目だって!耐える系っ」
感情の一切を怒りに変えた様な表情で今にも飛び出していかんばかりの男を羽交い締めにし、悲鳴に似た声を発てた。
「離せノーサ」
「我慢しろって!陛下が戻って来るまで、」
「お前、北緯が殺され掛けてもそう言えんのか」
「それは…っ」
「…してやる」
「皆、止めるの手伝って!」
狼狽える周囲に合図するが、間に合わなかった様だ。
「待っ、」
「その汚い手を離しやがれっ、
─────叶ッ!」
誰も止められないに違いない。
この男の本気など、見た事が無いのだから。
「錦織?!」
「…っ、その声は…山田君、ですか?」
アスファルトと腐葉土の境、並木道の傍らに倒れ込む人影を見付けるなり足を止め、桜を振り払う際まるでお守りの様に握ってきた赤いコートを肩に投げ掛けた。
「高野が一人だったのはこう言うコトか!大丈夫かい?!」
空いた手で要が起き上がるのを手伝い、LED街灯の灯りでは判断し難い状態を覗き込みながら確かめる。
襟足を押さえている所を見ると、恐らく手刀一発で不意討ちを食らっただけの様だ。脳震盪程度だったのか、軽く頭を振った要は労せず起き上がり眉間を押さえた。
「光王子の仕業だよね」
「迂濶でした、相手が悪かった様ですね…。ケンゴはどうしました?それより何故此処に?総長は、」
「高野は逃亡中、っ、イチ先輩がやられた!」
「ユウさんが?!」
「俺を庇っ、…っ、違う!俺が弱いから!足手纏いになった!」
叫んで頭を振り、今までの自分からは想像も付かない様な機敏さで立ち上がる。
泣き言をほざいている場合ではない。
「俊と連絡が取れないんだ。だから探してくる!錦織も桜と一緒に居ろ!ラウンジゲートに居るから!」
「ちょ、」
それ位の覚悟が無ければ、皆が恐れる要を呼び捨てにしたりしない。昨日までなら一生話す事などないとさえ思っていたクラスメイトが、まさかこんなにも大切な存在になるなんて誰が考えるだろう。
クラスメイトが暴行を受けた。ただそれだけで、こんなにも怒りが溢れてくる。
「待ちなさい!俺も行きます」
「何言ってんだ、怪我人だろ!」
「大した事ありません。それより、万一骨折していようが君より強いと思いますが」
右手で近場のベンチを殴り付けた要が『何か反論があるか』と無言の威嚇を注いできた。
「…」
「今夜が満月なら、こんな木材木っ端微塵です」
中央で真っ二つに割れたウッドベンチを一瞥し、痙き攣り笑いを滲ませてしまう。
「…うん。正論だね、錦織君」
「ふん、油断さえしなければ高坂日向など敵ではありません。寧ろ俺の敵は叶二葉、奴を消し去る為なら悪魔に体を売る」
鋭利な美貌をニコリともさせず、寧ろ無表情に近い表情で大破したベンチを蹴り飛ばした要が髪を掻き上げる。最早優雅を通り越して凶悪だ。
「に、錦織君、そんなに白百合がお嫌いで?然も命じゃなくて体?」
「ええ、大嫌いですとも。それにこの命はマジェスティの為に存在していますから」
「マジェスティ?」
「我が主の為に。」
「俊のコト、だよね?」
何故だか雰囲気が変わった様な気がする要が、微かに笑った様な気がした。
何故だか太陽の指ばかり見ている様な気がして、LED街灯を帯びた手元に目を落とす。
「…This is honey silver.」
「蜂蜜の銀、って…指輪?」
囁く声音に眉を寄せながら顔を上げれば、満面の笑みを浮かべた要が珍しく眉間に皺を寄せていない。
美人この上無い笑みに、然し体は正直だ。恐怖で凍り付いた。
「…満月の色だ」
「錦織…君?」
「は、ははは…」
「ににににに、」
「は、はーっはっはっはっはっ!」
「錦織君ンンン?!」
狂った様に笑い出した要に腰が引ける。闇を切り裂く笑い声がピタリと鳴りを潜め、
「Open your eyes!」
「何、」
「集え地を這う犬共が!今こそ弱い人間を虐げる刻が来た!くくく、あっはっはっはっはっはっ!」
「ヒィ、ヒィイイイ」
今にもマジ泣きしそうな太陽がジリジリ後退ったが、すぐに何かで背中を奪われた。
校舎まではまだ数十メートルある。並木道の真ん中に自動販売機などない。
「退け、─────邪魔だ。」
囁く様な声音が聞こえた様な気がした。けれど振り向いた時、そこには誰も居ない。
何処かで聞いた声だと思うのに。
まるで月光の様な白銀が視界を掠めた様な気がするのに。
「あ、れ?」
笑い続ける要は気付いていない様だ。ならば勘違いかと混乱寸前の頭を落ち着かせようとして、肩に乗せていたコートが落ちているのに気付く。
「何で落ちて、………あれ?」
白、いや、銀色。
シルバーと言うには些か煌めくプラチナの細い糸が、紅蓮のコートの装飾カフスに絡まっている。
二三本だが、こんなもの先程まで無かった筈だ。
「この世の全てを跪かせる刻だ」
「うわっ」
背後から肩を抱かれ不様に飛び跳ねながら、恐る恐る傍らの要を見上げる。
「あ、あの〜、錦織要さん、ですよねー?」
「あー?この絶世の男前の顔を見忘れたっつーのか、テメェ」
「すすすみません」
「どっからどう眺めようが、カナメサマだ。崇め遜うなら優しくしてやろう、喜べクズ」
「…クズは言い過ぎだよー」
軽く傷付いた太陽が涙目で要の腹を殴る。
全くダメージは無いだろうと思ったからだが、やはりダメージが無いらしい要の表情が一転、凄まじい眼光を宿したのが判った。
「何、図に乗ってんだテメェ」
「え?」
「…消えるか。お前、目障り」
そして今更、要がいつもとは全く違う事に気付くのだ。条件反射で逃げの態勢を取り、校舎目指して全力疾走する。
「待てやクズが!その首、圧し折ってやらぁ!!!」
「絶対っ、何か変!絶対あれ錦織君じゃないっ!あーっ、もう!
俊、しゅーんっ!
馬鹿っ眼鏡っオタクーっ!」
「はい、すいません」
上。
「は?」
まるで太陽を見上げるかの様に、ただ上を見上げた。
暗闇に浮かぶ月、ある筈の無いものが漂う様を陶酔するかの様に、
「…月に魅せられし愚か者が」
「しゅ、」
「今宵が朔月である事を、光栄に思うが良かろう」
「しゅーんっ!」
「熱烈コールに呼吸が止まります、アイラブユーダーリン」
目の前に舞い降りた銀色が、ベンチを破壊する男を容易く組み伏せた。
気障なウィンク一つ、何処から飛び降りてきたのか知りたくない男はサングラスを押し上げながら、
「さァ、僕の胸に飛び込んでおいでタイヨー!」
「馬鹿っ眼鏡っヤンキーっ!とりあえず説教だ!そこに直れ!」
「めそり」
「畜生っ、もう本当に、」
ああ、目が痛い。
「ミートゥー、大馬鹿ハニーめ!」
まるで太陽を見上げた時みたいに。
←いやん(*)(#)ばかん→
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