帝王院高等学校
神の十字架は魂を眠らせる。
始まったか、と。
あの凄まじい威圧感を隠さない声を聞きながら、抱えていた荷物をテーブルに下ろした。

「まだ、起きる気配はねぇな」

六時を回ったばかりの時計を横目に、ブラインドの向こうが暗みきっているのに息を吐く。
九時までには動きがあるだろうと考えた。神の『加護』を受けているこの部屋の天井に、ずっと十字架の映像が映し出されている。わざわざ照明を点ける必要が無いくらい、それは明るいプラチナクロスだ。

だから事実部屋の照明は付いていない。それでも肉眼でベッドを眺める事は出来る。
フライ特有の油っぽい匂い、ブランドもののコロン、それは薄暗いからこそ確実に嗅覚を刺激するのだろう。

「隼人」

青白いその表情は、天井から降り注ぐ月光の様な十字架が与えたものだ。蛍光灯を灯せば、きっとすぐに血の色を取り戻すに違いない。
緩み切ったシャツのボタンを外し、シルバーネックレスのドッグタグに刻まれているカルマの文字を見つめて。また、溜め息を零したのだ。


「本当に欲しいモンだけは、手に入らねーんだよな、いっつも」

隣の芝生は青く見える。
帝王学ばかり躾られて、親の世間体を満たす為だけに放り込まれた山奥の学園で、何にでも無関心そうな鼻持ちならない男と出会った。
妾腹の子供の癖に、聡明な義兄の影に怯える事無く背中を伸ばしていた赤い生き物。


『勝った気になるなよ、帝君だからって』
『下んねー』
『何だと!』
『お前が二番だろーが俺が一番だろーが、興味ねぇつってんだよ』

初等部にSクラスは存在しない。但しやはり学年一位の帝君システムは根付いていて、初めて同じクラスになったのは四年生の時だ。
全く授業に出ない男を、学級委員だった自分は寮の入り口で待ち構えて説教した。勉強する気のない相手に負けている事実を、認めたくなかったからだ。
教師から注がれる信頼に酔っていたからだ。嵯峨崎は困りものだ、そう呟く担任に優越感を覚えた。

委員長の君から、歩み寄ってあげてくれないか?

その信頼に満ちた台詞で、どれだけ有頂天になっていたのか。思い知らされたのだ。


『俺はテメーとは違う。優等生振ったイイコちゃん、精々大人に尻尾振ってろ』
『貴様…!』
『俺はお前なんかに用はねぇ、失せろ』

あの冷めた眼差しを忘れた日は無い。
あの日から何をやっても上手くいかなくなった。何をやっても帝君ではない子供を親が誉める事はなく、偶然知った父親の隠し子が金沢に居るのだと知った時の腹立たしさ。同じ血を継いだ兄弟なのに、あっちはのうのうと自堕落な生活を営んでいるのだと。

悔しさに歯噛みしながら勇んで行った分校は、本校の制服を纏う子供に校長さえ遜った。
その時はやはりまだ、有頂天だったのだ。学年二位とは素晴らしい、と。誉め讃える教師や羨望の眼差しを注いでくる子供達、


そして初めて目にした弟は。
薄汚れた服装と俯いたままの表情、丸めた背中。そのどれを取っても、自分の優越感を満たすに相応しい風体だったから。


『…ふん、認知もされていない庶民風情には、お似合いだな』

それからも嫌な事がある都度、惨めな優越感に浸るべく分校へ足を向けた。
義弟には女優の母親しか居ないらしい。育ての親である祖父母は亡くなった。実家は借金だらけの男に貢ぐ母親が、すぐに手放したらしい。僅かばかりの端金で。

それでも庶民には莫大な金額だ。遺族年金と、父親から送金されている養育費だけで生活している義弟は、やはりいつ見ても惨めな風体だった。



『あの女、うちも山も売っちゃったんだって…』

いつも俯いていたその表情を、始めて見たのは随分後だ。それも中等部に進学する直前。

『絶対、取り返すからね。もっと立派なお墓、作ってあげるからね』

薄汚れたランドセルを抱き締めた細い腕を覚えている。
きつく睨み据えた眼差しを、鋭利な横顔を。



『…俺の家族は、じいちゃんとばぁちゃんだけだよ』



忘れた日は、無い。



「自分の馬鹿さ加減に呆れてくるがな、ったく」

あの日、まだ幼かった隼人は本校に呼び戻した中1の時には、最早別人の様な成長期を迎えていた。
180センチに近い長身、周囲が騒ぐ美貌に難なく帝君を勝ち取った優秀な頭脳。どれを取っても優越感に浸らせるに相応しかったのだ。

「ザマーミロ、嵯峨崎佑壱。ってな、…半年ぽっちの優越感だったぜ畜生」

隼人の鼻を摘み、むぅむぅ唸る隼人が口呼吸に切り換えるのを眺めながら、ブランケットに頭を預ける。海老フライに添えられたサワークリームの香りが鼻を掠め、

「アイツはいっつも、俺から何かを奪って行きやがる。帝君も隼人も、あのクソ生意気な面で」

一度だけ。
舎弟らを引き連れて、カルマのアジトであるカフェに殴り込んだ。若かったのだ。いや、去年の話だが。

クソ生意気な佑壱さえ、叩き潰せれば良かった。四天王の中で最も強い『ウエスト』の自分ならば、負ける事は無いのだと。
想像した通り、開始一時間でこちらの有利は確定していた。ただでさえ少数精鋭のカルマは、幹部五人を残し壊滅的で。

悔しげな佑壱の殺気に満ちた眼差しにゾクゾクしたのを覚えている。
懸命に向かってきた要・健吾を囲んでしまえば、裕也や隼人も身動き出来ない。拳を握り締めた佑壱が抵抗を止め、好きにしろ、と睨み付けて来ても。

『巫山戯けんじゃねぇぞテメー、ンな奴に負けたらただじゃおかねぇかんな!』
『煩ぇ、隼人。誰が負けたんだコラァ、つまらん餓鬼の喧嘩に飽きただけだ』
『ざけんなっ、テメーなんかただの負け犬だ!テメーがやんねーなら俺がやってやる!』
『裕也、そこの馬鹿を捕まえとけ』

庇い合う二人をどんなに羨ましく眺めていたのか、気付いていただろうか。だから、その時は本気で、だから本気で犯罪者になるかも知れなかったのだ。

『弱い奴にカルマを名乗る資格はねぇんだよ!離せユーヤ、テメーもブッ殺すぞ!』

殺してやるつもりだった。この状況でも敗北を認めない佑壱を、



『煩ぇ、家族を守るのは親の務めだろーが』


血の繋がりも無い癖に【家族】を宣う佑壱を、



『その通りだ』

消してしまいたかったのに。


『俺が少し本屋で立ち読みしている間に、随分ドラマチックな状況になってやがんなァ』

サングラスを押し上げながら、首の骨を鳴らすあの男さえ現われなければ。

『総長ぉ(ノд<。)゜。』
『立ち読みするくらいなら、買ってあげますって言ってるでしょう、いつも』
『つか、その内この店、漫画喫茶になりそうだぜ』
『ボスー、またジャンプ買って来たのお?2番目に読ませてねえ』

今の今まで絶望に沈んでいた要達の表情に安堵が滲み、裕也を殴り掛かった隼人から力が抜けて、呆れた笑みを浮かべた佑壱が肩を竦める光景を眺めながら、

『不甲斐ない母親は、反省を込めて特大オムライス製作に励みます。お帰りなさい、総長』
『ただいま、イチ』
『じゃ、ちょっと掃除しますんで、総長は漫画でも読んでて下さい』
『そうだなァ、たまにはお父さんが掃除機を掛けてあげよう。今夜は新月だ』

あの絶望的に強い男の笑みを見ていた。



『俺の家族を傷付けた【悪】を、大掃除だ』

何度も何度も何度も夢に見る。

『月へ祈り己が過ちを悔いるがイイ』

一目見た時から勝てる気がしない、あの生きる怪物の夢を。





『俺の前に、跪け。』



はっ、と我に還って頭を振った。
ベッドサイドに座り込んだまま、隼人の手を握り締めている状況。無意識にチェスト上の時計を見やり、一時間近く経っている事に嘆息した。

「寝ちまってたのか。…腹減ったな」

油っぽい匂いもサワークリームの匂いも姿を消し、冷めた料理だけが並んでいる。
天井の神々しい十字架だけは眠る間際と同じ光を放ったままで、あの光が存在する限り、この部屋の中だけは神の空間だと思い知らされた。

「マザーセキュリティ、だっけ。隼人のカードも俺のリングも、この中じゃ役立たずって訳だ」

例えば、幼い頃の自分の足掻きも。
例えば、幼い頃の隼人の足掻きも。
例えば、佑壱の自己防衛の様な無関心さも。
あの男の前では、陳腐な人間の感情でしかない。神の名を持つ全てに恵まれたあの男の前では、夢の中の怪物ですら適わないだろう。

「アンタが一番に決まってんだろ、陛下。…ンな真似しなくても、アイツじゃアンタには勝てない」

眠ったままの隼人は健やかな表情で、きっと楽しい夢でも見ているに違いないと思えた。
誰の前でも笑わない生き物が、あの男の前でだけ笑うのを見た時から、ずっと。仕事のモデルにもそれが反映されているのを知ってから、ずっと。

「…嵯峨崎の奴より、カイザーの方がずっとムカつくぜ。出て来ようが隠れたままだろうが、どうせアイツは陛下には勝てやしねー」

だったら、現われなければ良い。
現われなければ羨望を思い出す事も、弟を人質に吊し上げる事も、人間の最も醜い感情である殺意を向ける必要もないのだ。



「しゅん」
「…あ?」

ポツリ、と。
呟かれた台詞に顔を上げ、幼い寝顔を晒す隼人の表情を覗き込む。
どうやら寝言らしいと目を細めて、カルマの誰にも該当しないスペルに首を傾げた。

「恋人、か?」

隼人の恋愛経歴は我が弟ながら見事だと言うしかない。毎日毎日違う人間の名前が挙がり、二回以上関係がある人間は今のところマネージャーらしき女性ただ一人だ。
興信所の情報が間違いなければ、バイセクシャルらしい隼人の本命が女には限られない筈だが。しゅん、と言う短いスペルでは男の可能性が著しく高いではないか。


「…マジかよ、俺はまぁ、女より男相手のが楽だからゲイ寄りだけどな。このままアキを手に入れたとして、子孫繁栄は望めない」

出会ったばかりの運命の相手、と言うには些か平凡な男の顔を思い出してニヤけながら、ふるふると頭を振った。
金髪に紛れた紫のメッシュが視界に割り込み、その向こうの隼人を盗み見ながら態とらしい咳払い一つ、

「兄ちゃんは、隼人の可愛い子供が見たい」

それはもう、ブラコンを通り越してムスコンに近い父親の台詞だが、今の西指宿麻飛は何処までも真剣だ。

「いや、恋愛は自由だ。自由だけど、やっぱり結婚式で隼人の晴れ姿を見たい。お世話になりました、なんて可愛い事を言って欲しい」

ぎゅっと隼人の手を握り締め、隼人が起きていたら発狂しそうな台詞をつらつらと、



『兄ちゃん、僕…お婿に行くよ』
『隼人…う、立派になったな!あんまり美人なお嫁さんじゃないけど、隼人は誰よりも美形だから大丈夫だ!兄ちゃんは嬉しいよ!』
『今までお世話になりました。これからは兄ちゃんみたいな父親になれる様に、僕、いっぱい頑張るからねえ』
『は、は、隼人ぉおおお!!!』
『太陽さん、兄ちゃんを宜しくお願いします』
『ふ、口内炎の君と呼んでくれ。他人行儀だな、隼人君』

そして手と手を取り合う弟と恋人。
一見貴公子王子様チックな自治会長の妄想は、我らが主人公遠野俊に匹敵していた。


「休日にはアキと隼人が一緒に手作りお菓子とか作って、仕事から帰る俺を待ってんだ。お風呂にしますかご飯にしますか、それとも…ブラック・ジャック?」

自治会長の趣味はギャンブルだ。
とにかく、カルマで最も底知れない隼人がグースカピーと健やかな寝息を発てていて良かった。起きていたら確実に戦争が勃発していただろう。


「隼人が起きるまで飯はお預けだな。シャワーでも浴びるか」

シャツを脱ぎ捨てながらバスルームに向かった彼が、天井の十字架が消えた瞬間を見る事は無かった。
その瞬間、隼人のスラックスに収まったままの携帯が点滅した事にも、暗闇の中で緩やかに開いた瞳にも、



「…あ、れ?そっか、今日は新月だっけ」

だから、その瞳が真っ暗な天井を認め再び閉じられた事にも。

「何か、変な匂いがするなあ、この布団」

寝返りを打った体が枕を抱き締めながら呟いた台詞にも、再び天井に現れた十字架にも。



「お父さんの匂いじゃない…」


誰も気付かぬままだ。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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