帝王院高等学校
スケジュールは大体いつも真っ白です!
「彼女はテレジアだ。テレジア、この二人は龍一郎と龍人と言う」
「また何処の馬の骨とも知らない子供を拾って来たんですか、陛下」

困った様な声音で溜息をついた女は、そばかすだらけの顔に苦笑いを滲ませた。

「昨日は冷静にお話しする事が出来ませんでしたが、良く眠れました?ご覧下さい、サンフランシスコの荒れ模様。神風が吹くと言う日本にも負けないほど、見事なスコールでしょう!」
「テレジア、日本のタイフーンはこんなものではなかった。運悪く生き残ってしまったが、航海中に二度ほど死を予感したものだ」
「あらあら、陛下がお兄様方にお会いするのは、まだ先と言う事でしょうね。運悪く生き残ってしまわれた陛下には残念なお知らせではありますが、この雨は昼には止んでしまいます。中央情報部の天気予報は99%の確率で的中するので、先程の朝食が昼食代わりと言う事で宜しいでしょうか?」

朝早く叩き起こされたかと思えば、食事の時間もそこそこに叩きつける雨の中、黒塗りの車がやって来た。日本では数が少ない最新型の車は、シートが革張りの上等クラスだ。上等ではあるが座りが悪いと、身を縮めながら乗車する事、ほんの小一時間。

「サンドイッチくらいは用意出来なかったのか?育ち盛りの子供が三人…いや、すまない、二人も居るんだ」
「残念ですが陛下、サンドイッチは食事ではありません。ティータイムのおやつです」

終始沈黙したまま、時折肩身が狭そうにもぞりと身動いだ男は、何故か大きな体を丸め、双子の背後に隠れようとしている。対面式の座席では、そんな事をするだけ無駄だ。ランチボックスに敷き詰めたサンドイッチと、良く判らない形のポットを抱えている女は、わざとらしいまでに笑顔だ。

「これは保温性に優れた、正に魔法の様な瓶なのです。此処をちょちょいと押すと、何と中に注いだ熱いお茶が、此処からジャバ〜っと出る!我がステルシリー製の大発明に、お子様達は言葉もない様ですね」
「おいレヴィ。何だこの女は、一人で訳の判らん事をベラベラと宣っておるが、ただの馬鹿か?」
「…レヴィの会社は証券会社じゃなかったのかのう?」
「テレジアは馬鹿ではない。だが、ステルシリーの職務内容が製品開発ではない事は、確かだ」
「まぁー!なんて子達なの、陛下を呼び捨てにするなんて!ピーチとパイナップルを沢山挟んだフルーツサンド、あげませんよ!」
「ぴーち…確かそれは、桃だな」
「ぱいなぽー?兄上、ぱいなぽーとは何だ?」
「ふふん。嗅いでご覧なさい、良い香りがするわよ」

甘いものに目がない双子の前に、勝ち誇った表情でランチボックスを差し出した女は、くんくんと鼻を蠢かせた双子の瞳が輝くのを見てとると、素早くランチボックスの蓋を閉める。

「あらあら、お子様達ぃ?涎が出てますよ」
「テレジア。大人げない真似はやめないか」
「いいえ、いけません陛下。畏れながら陛下は今後アメリカのみならず世界を支配する事が確約された、ステルシリートラストの皇帝でいらっしゃいます」
「そんな大袈裟な役を受け入れた覚えはないが?そもそも我がグレアムの爵位は王族には程遠い、男爵だ」
「いいえ、陛下は陛下なのです!畏れながら申し上げますが陛下、陛下はご自分を全く判っておられません!そんなていたらくですから、ヴィーゼンバーグの馬鹿娘を二つ返事で妻に迎えたりなさるのですよ!全く、ハーベスト様は可愛らしいのでその点だけは認めますが、それ以外には一つも許してはいませんので!私が許そうが許さないままだろうが、陛下は痛くも痒くもないでしょうが!」
「痛くも痒くもないが、少し声が大きいな。そう声を張り上げずとも聞こえている」
「畏れながら申し上げますが陛下!」
「何処が『I am afraid』だ、馬鹿女が…じゅるじゅる」
「兄上、涎が座席に落ちるぞ…じゅるじゅる」

暖簾に腕押し。
何を言おうがのらりくらりと躱す銀髪の美貌より、物言いに可愛いげはないが年相応のあどけなさが爆発している双子に、女は目を光らせた。センスのない丸レンズの眼鏡をくいっと押し上げ、双子の背後に顔を埋めて隠している男を横目に、ランチボックスを持ち上げる。

「Hey、リュチローとルート」
「龍一郎だ馬鹿女」
「ルートではない、龍人だのう」
「苺と生クリームのフルーツサンドと、品種改良に成功した珍しいバナナのフルーツサンドも入っているって、気づいたのかしら?」
「な、何だと…?」
「バナナとは、あの幻のバナナか…?!日本では天皇陛下様でなければ口にする事も出来ん、あの高級なバナナの事なのか…?!」
「陛下をちゃんと陛下とお呼びするなら、目的地までもう少し懸かる事だし、その間フルーツの蕩ける様な甘さを堪能しても良いんですよ?」
「ふん、俺がその様な甘言に惑わされると思っているのか…!陛下」
「惑わされとるではないか、龍一郎」
「そうよ!陛下は世界一!ステルシリー最強!それ即ち、唯一神の冥府揺るがす威光を須く知らしめんが為に!」
「「それ即ち、唯一神の冥府揺るがす威光を須く知らしめんが為に!」」

レヴィ=ノア=グレアムは、何一つ感情を滲ませない笑みを浮かべた。
子供のお守りには子供が最適だと考えての事だが、効果が抜群過ぎたのは想定外だ。狭い車内で讃えられるのは悪い気はしないが、余りにも騒がしい。

「ナイト、こちらへおいで」
「…断る!」
「何と言う事だ、人生で初めて振られた」
「あらあら、どうされたんですかクイーン=メア。まさか私を陛下の愛人だと勘違いして、暴れまわった挙げ句、発狂して海に飛び込もうとした昨日の出来事を忘れてしまわれたのですか?」
「っ、ち、違…!」
「勘弁してやってくれるか、テレジア。誰よりも覚えているからこそ、君と目を合わせられないのだろう」

昨日、帰国して間もなく船を降りたばかりの港で、恋人にひっぱたかれ、噛みつかれ、とどめに「五寸釘が足の裏に刺さって死ね!」と罵られたばかりの男は、大方の部下の心配を余所に、今朝は朝からご機嫌だ。

「陛下が誰かに平手打ちをされる瞬間を目撃するなんて、想像もしませんでした」
「兄様からも叩かれた事がなかったからな」
「陛下のお美しいお顔が腫れてしまったと言う事はない様ですが」
「頬よりも背中の方が重傷だ」

ほんの数ヶ月前までは愛想笑いこそするが、声を立てて笑う様な事はまずなかった。それが、今ではクスクスと声を立てて笑っている。天地が引っくり返る様な気持ちにはなった人間が、果たして何人居るだろうか。これから増える事を予想出来ても、正確な数までは判らない。
一人でアメリカ大陸を蹂躙し支配しただけあって、レヴィ=グレアムを恐れる人間は多いが、逆らう人間は皆無だ。そんな皇帝を叩き、噛みつき、挙げ句背中に爪を立てたと言う勇者は、膝に乗せられるほど幼い双子達からサンドイッチを分け与えられ、慰められている。

「そう落ち込むな、夜人。お前は馬鹿だが、誰にでも間違いはある」
「龍一郎…」
「英語は僕が教えてやるから、安心するがよい」
「龍人…!うっうっ、お前らが居てくれて良かったァ」

微笑ましい光景ではないか。

「あらまぁ。それでは痴話喧嘩の仲直りで、激しい夜を?」
「独身の君には到底聞かせられない話になるが、…聞きたいのか?」
「秘め事は秘めねばなりませんマジェスティ。それではクイーンが私を見て隠れてしまったのは、恥ずかしいからですのね?」
「日本人は奥ゆかしい民族の様だ」
「そうですか、それは宜しい事です。健気さが欠片もない何処かの公爵令嬢より、ずっと素晴らしい事ですわ。早速、中央情報部のアーカイバに記載しておきます」

腰が壊れてしまったかの様に、よぼよぼと歩いている日本人はげっそりしているが、その傍らで笑顔を振り撒いている男は、彼を知る誰もが二度見してしまうほどには彼らしくない。全くの別人ではないか。
茹だったタコの様な表情で震えている男は、今にも泣きそうな表情だが腰が抜けているらしく、変な格好で座り込んだまま起き上がらない。俯いたままぶつぶつと恨み言を呟いているのが聞こえたが、幼い双子は目を合わせて同時に肩を竦めている。

「兄上、ゼツリンとは何だ?聞き覚えがない単語だのう」
「貴様が覚える必要はない言葉だ。知能の発達には寧ろ毒になりかねん、速やかに忘れろ龍人」
「陛下、このベイビーちゃん達は英語を話していますよ?日本から連れてきたのでは?」
「ああ、日本から連れてきた。そもそもこの二人の話をミラージュから聞いて旅に出たんだがね、私は」
「そうでした。新しい奥様を連れて帰ってくるとは思っていませんでしたし、三ヶ月で戻ると仰られたのに、何故か半月も懸かりましたけれどね」
「スケジュールにハネムーンを記載していなかったからだろう」
「予定にはありませんでしたから」
「予定は未定だと言う事だ。中央情報部のアーカイバに記載しておくべきではないか?」
「畏まりました」

カチンと言う音が、若い娘から聞こえた気がした。
恐縮の余り今にも消えてしまいそうな遠野夜人は、英和辞書を一生懸命捲っては、目に涙を溜めている。

「お、俺は、やっぱりアメリカに来るんじゃなかった…!船で勉強して、ちょっと喋れるつもりになってたんだ…!全く判りません!」
「夜人、泣くな。師君はそれなりに頑張っておったよ、僕と兄上は一度読んだだけである程度覚えてしまったから、夜人が落ちこぼれの様に思われてしまっても無理はないがのう」
「ちょ、おま、龍人!お前は鬼か!俺を傷つけて楽しいのかっ、鬼餓鬼ァ!」
「遠野星夜は人格者だと聞いていたが、息子は落ちこぼれとはな」

目を丸めている異国人の視線が突き刺さる中、一際目を丸めた夜人を静かに見つめたまま、ふっと鼻で笑った子供は、吊り上がった双眸に嘲笑を滲ませると、吐き捨てたのだ。

「Stupid.(間抜け野郎)」
「は?!ス、スチュ…何だって?!」

それと同時に、車が停車した。
顔を覆って肩を震わせている龍人の傍ら、口元を押さえ顔を逸らしたそばかすの女も肩を震わせているが、言われた本人だけはパラパラと和英辞書を捲り、それでも判らないと恋人に泣きついたのである。

「何、今のどう言う意味でござるか?!拙者は英和辞書はまだ読めないでござるよ?!」
「ナイト、知らない方が君の為だ」
「は?!どう言う事だよっ、龍一郎が悪口を言ったって事だけは顔で判ったぞ!意味を教えろ、レヴィ!」
「仕方ない。日本語では『馬鹿』と言う意味だ」
「龍一郎ォオオオ!!!テメェ、一発殴る!!!」

19歳と4歳の、余りにも大人げないかけっこが始まる。
呆然としている異国の大人達は、英語と拙い日本語で何とか宥めようとしているが、新たな社長夫人候補は取っ捕まえた子供の尻を景気良く数発叩くと、一発じゃないと愚痴る子供に勝ち誇った高笑いを響かせたのだ。

「くっくっく、くぇーっくぇっくぇっ!大人の力を思い知ったか龍一郎!大人を馬鹿にすると痛い目見るって事を、これを期に学びなさい!」
「ふん。己の大人げなさを露呈しただけではないか、勝った気になるな。寧ろ貴様の惨敗だろうが、馬鹿夜人」
「テメェ、もう一発ケツ行くかァ!」
「誰が喰らうか!父にも叩かれた事がない尻を!馬鹿、馬ぁ鹿。遠野夜人は馬と鹿」
「龍一郎ォオオオ!!!」

暗い暗い、海岸線から続く長いトンネルを二人は駆けていく。その後を黒服の大人達が続いて、残された双子の片割れは瞬いた。

「あの兄上が、あんな大人げない真似をするとは…」
「三ヶ月近く海の上で共に暮らせば、似てくるのも無理はない」
「陛下、こっちの子が例の神童ですか?何度スカウトしても逃げられたミラージュの推薦とは言え、ちょっと子供過ぎますね〜。誘拐は犯罪ですよ?」
「失敬な。我らステルシリーは清廉潔白な企業だ、誘拐などしない」
「さて、どうでしょう。目を離すとすぐに無茶をなさいますから、陛下は」

随分年齢の離れた二人の様だが、テレジアは上司である男に歯に衣を着せていない。冬月龍人は二人の様子を窺いながら、先に行ってしまった兄を追うべきか迷った。

「新しい奥様が男の人だと言うだけでアシュレイ様はお熱を出してしまわれて、ハーベスト様がご心配されています」
「ああ、そうだ。屋敷に戻ったら、先にオリオンとシリウスをナインに会わせるつもりだ。スケジュールに家族の食事会を入れてくれ」
「畏まりました。二人のコードも登録しますか?」
「ああ。暫くは夜人と共に、組織内調査部へ」
「こちらの子はともかく、あっちも子もお迎えになられるなんて。双子とは聞きましたけど、あっちは使い物になるんですか?」
「残念だが、君は何か勘違いをしている様だ。テレジア、ミラージュが言った『龍流より質が悪い可愛げのない餓鬼』は、夜人に尻を叩かれていた龍一郎の方だ」
「ええ?!あっちがオリオン候補ですか?!」

驚いた表情の女が、何とも言えない表情で見つめてくる。

「それではそっちは、ハーベスト様のシンフォニアですか?年頃も同じですし、血液型が合えば生きた献体になりそうですけど」
「テレジア。シリウスは既に英語を理解している」
「…不用意な発言を致しました。申し訳ありません」

何故か背がぞくりと震えた覚えがある。
人間が家畜を見る様な目だ。捕食者に見つめられた、そんな気がした。

「夜人はこの子達を本当の弟の様に可愛がっている。下手な真似は、慎みなさい」
「畏まりました。…ではまずは、社員の日本語教育を徹底したいと思います。龍人君、手伝ってくれる?」

そばかすだらけの、けれど肌が白い女だった。
若く見えたが随分年上だと知ったのは、幾らか後の話だ。







「日本から来た双子とは、そなたらの事か」

それは正しく、神の子であったのだろう。
地中深くに隠された金髪の子供は、新たにやって来た来客を受け入れた。

「我が名はナイン=ハーヴェスト=グレアム。そなたらの名を聞いても良いだろうか」

月の名を捨てて。
星の銘を得た。
船が辿り着く前に届いた手紙を抱き締めて、眠れぬ夜を幾度も過ごしていたと言う神の子は、一足先に日本語を学んでいたそうだ。初めて会ったその時にはもう既に、流暢な日本語を喋っていた。

「お前は耳が良いなハーヴィ。一度聞いた言葉を、もう喋る事が出来るのか」
「ナインは龍一郎より賢いのではないか?」

金髪にダークサファイアの瞳を持つ、心優しい世間知らずが、二人きりだった兄弟の元に新たな兄として加わって、何年が経ったのか。








「そう。…私ではハーベスト様を助けられなかったのね」

包帯で目元を巻かれた女は、術後にか細い声で呟いた。
彼女の瞳が、二度と光を見る事はないだろう。

「お前が勤務中に事故に遭ったのは聞いているが、だからと言って失明する前に網膜を二つ共差し出すとは思わなかった。嫁入り前の身で、馬鹿をする」
「…ふふ。相変わらず酷い事を言う口だね、オリオン」
「お前の網膜は適合しなかった。無駄な手術だったと言う事だ」
「…そうだね」
「やめんか龍一郎。テレジアはあくまでナインの為に、」
「ハーヴィの為と言う理由が免罪符になるのであれば、神の子に無駄なメスを入れた罪が赦されると言うか、シリウス」

いつから、狂ってしまったのだろうか。
ただ、何の欲もない哀れな兄弟を救いたいと。そう願っただけ。

「兄弟喧嘩はおよし。全く、お前達は15歳にもなろうかと言うのに、メアにそっくりだ。今後の陛下のご苦労が目に見える様だよ」
「儂はコイツの様な血の涙もない鬼ではないぞ。今回の手術は確かに結果として何の利益もないが、ナインは師君に感謝している。恨んではおらん」
「有難う。その言葉だけで救われるよ」
「40歳を前にして、失明した独身女など社の荷物になりかねん」
「龍一郎!」
「良いさシリウス、その通り。今の私は、ステルスには不要な人間だ」

何年経ってもそばかすが消えなかった女は、初めて会った日から何一つ変わらない、無邪気な笑みを浮かべている。神の子へ両目を差し出す覚悟を決めたその日に、辞表と言う名の遺書を書き残したそうだ。

「ステルスには退職制度がない。コードが消える時は、文字通りその本人が死んだ時だけだ」
「いい加減にせんかオリオン!例えそれが社訓であれ、シスターテレジアは…!」
「みっともない真似はやめなさいと言ったろう、シリウス。お前は優しすぎる。フルーツサンドより、甘い子だね」

彼女は包帯を巻いたまま、見えない視界で手を彷徨わせた。
林檎と共にフルーツナイフを無表情で握らせた男は、白い手と共にナイフを握ったまま、彼女の目の前に膝を着く。

「テレジア」
「何だい、オリオン」
「俺がお前を貰ってやろうか」
「冗談にしては笑えないね」

龍一郎の手を振り払い、するすると林檎の皮を剥いた女は、

「退職願いを陛下にお渡しした時に、身の振り方は決めている。私はステルスに嫁いだ女だ。これからは異動した区画保全部で、精々尽くすよ」
「そうだったのか。良かったのう、シスター」
「…異動祝いに、何か欲しいものはあるか」

最後に一つ、失った犠牲には到底似合わない慎ましい願いを口にした。



「レコード盤を新調してくれると、嬉しいね」



















こぽこぽと、水の音がする。
頭を抱え、膝をついている男が震える手で握り締めた書類は間もなく握り潰され、歪んだ球体としてゴミ箱へと葬られた。

「…俺は、人としての心を捨て去ったのか」

悔いが滲む声音だ。
夥しい数の書物に囲まれた部屋の中央、夥しい数の書類が散らばるそこには、やはり夥しい数の機材が転がっている。大小様々なビーカー、試験管、薬品の匂い。消毒薬の瓶が割れている。

「夜人はAB型、然し夜刀はA型。美沙もそうだ。神の再来は不可能だと、初めから判っている…」

こぽこぽと、水の音がする。
母親の胎内から無理矢理取り出されたそれは、保存液で満たされた硝子の中、ただただそれを眺めたまま。

「最後の希望に縋って、この様か。…秀皇と俊江では、どう足掻こうとAB型は誕生しない。AB型でありながらA因子を持つ秀皇とO型の俊江では、…判っていて何故、俺は…」

啜り泣く声が聞こえてくる。微かに、密やかに。
こぽこぽと、絶えず続く水の音は子守唄の様だ。

「マスター、パルス信号を受信しました」

顔のない人形のそれは、囁いた。
二体並ぶ内の片方、常に黒い箱を抱えているそれは、何の前触れもなく。

「シンフォニアナンバー0の受精卵が発信源です」
「…何だ、と?」
「受信します。『おはよう、初めまして遠野龍一郎』」

男はおもむろに頭を抱えていた腕を解くと、驚愕で目を見開いたのだ。

「その、声は…」
「『我が名は帝王院神、産み落ちる前にそなたの手によって葬られた』」
「鳳凰の宮様…いや、俊秀公?!」
「『そのどれでもない。これが運命が定めた筋書きであるのなら、俺が生まれるにはまだ早いのだろう。それなら、時が満ちるまで待つだけだ』」

こぽこぽと、水の音が響いた。
顔のないアンドロイドが勝手に紡ぐ声だけが世界を支配し、水の発てるささやかな旋律を掻き消していく。次に、次に。

「『陽の半身が泣いている。愛する事で絶望を知った魂が、西の果て、黄昏の麓で泣いている。空を失い、雲間に隠された光が』」
「陽の半身…?空を失い、雲間に隠された………まさか、雲隠の事では…」
「『一人目のカルマを楔として、俺は新たな物語を紡ごうと思う。帝王院神ではなく、遠野俊として』」 

絶望の果てで、人は更なる恐怖を希望と錯覚したのだろうか。
殴り書きで『0』と書かれたプレートは、歪んで『6』に見えなくもない。目には見えない極小の受精卵が一つ、母胎から切り離されて封じ込められているのだ。そこに、たった一人きりで。

「『AB型とA型から、O型が産まれる確率は極めて低い。潔癖な頭で己の罪を幾ら悔やもうと、可能性があれば有り得るだろう。何故ならば俺は、AB型とO型から産まれたB型』」
「…俺は、何をすれば良い」
「『一人目はいずれ、抱いた灼熱の炎を以て、神に最も近い天使へと成長するだろう。そして軈て己の身に纏う炎に焼かれ、鎮魂歌を歌う』」
「俊秀公の様な事を言う…」
「『俺はいつか、俊秀の目を通して世界を眺めていた。黒以外の何物も存在しない世の果てで、黒に染まったアダムを解放した後も』」
「アダムを知っているのか?」
「『お前の罪を浄化しよう。遠野星夜の無償の優しさを心から崇拝した、冬月龍流の最期の願い』」

男の目には今、それが微生物ほどの受精卵には見えなかった。
絶望の底で今、一人の医者には。いや、医者としての尊厳を親としての尊厳と共に失った一人の男には、それだけが唯一の希望だったのかも知れない。

「『俺は全てのカルマを俺のものにしたい。全ての物語を奪い、輪廻を正しい形へと塗り替える』」
「…それは、正しい行いなのか?」
「『神も仏も俺を妨げる事は不可能だ。何故ならば俺は、神にすら触れられない、時そのもの』」
「………良いだろう。須く、望むままに」
「『ではアダムを救う為に、救う理由を作ろうか。イブが産んだ天使を黄昏から引き摺り出し、朝と夜の狭間へと』」
「その次は?」
「『喪失した楽園を再築し、灰色の世界に光を』」
「雲隠の次は、榛原だと…?」
「『軈て空っぽな蝉は、殻から抜け出し歌うだろう。俺の代わりに、俺の為に』」

パンドラの箱には希望などなかった。
闇の中に光などなかった。

けれどその時、その瞬間までは。



「『さァ、演奏会を始めようか。』」









それが唯一の希望ではないのか、と。









Stealthily musical no.0:密やかな楽会




指揮者は指揮棒を振り上げた。
その瞬間、観客のざわめきは鳴りを潜める。

後は演奏が終わるまで、世界を満たすのは音楽だけだ。



神は宣うた。
神の子に与えた楽器が奏でるその音は、子守唄でも鎮魂歌でもない。








葬送曲であると。










「此処にはアダムが居たんだ。ベッドに書いてるでしょ」

快活に笑う子供の声を聞きながら、太陽など一度として見た事もないだろう子供の、日焼けしたかの様に褐色の肌から真紅の血液を抜き取った。

「…血が濃いな、O型の血液は幾つも見てきたが、此処まで赤いのは初めて見た」
「ふーん」
「鉄分が多いか。いや、水分量が不足している方が適切か。濃度の濃い血は、その分、量が少ない。目眩はないか」
「めまいって、何?」
「ないなら、良い」

赤い、赤い、蝉の脱け殻。
飴色のそれよりずっと濃い空蝉は、地の奥底、空よりも地獄の方が近い様な暗い世界に閉じ込められて、このまま此処で風化する宿命を負っている。

「細胞分裂が早い。傷の治りが早いのは、雲隠に多かった」
「?」
「だが、悪い事ではない。医学的に見ればお前はいつ死んでも可笑しくはない体だが、雲隠は代々、本能でバイオリズムを調整していた。人格を二つに分ける事で、己の内に眠る狂気と冷静さを調律したものだ」
「判んない」
「アダムを助けろと言ったな。本当に、それで良いのか」
「良いよ。だって僕、エンジェルだもん」
「…そうか。礼を言う」
「何で?」
「兄を、殺人者にせず済んだからだ」
「ふーん。プリン食べよっと」

物語は定められたレールを抜け出さない。
8月の始め、一歳四ヶ月の子供は盲目の老女に、甲斐甲斐しく洋菓子のカップを握らせてやる。

「シスター、黒いのたっぷり掛けたよ。こっちの方がね、美味しいんだって」
「ふふ。ほら言ったろう、エンジェル。プリンには、クリームよりカラメルの方が合うんだよ」
「卵があれば作れるんだって。卵って鳥が生むやつ。此処にも鳥がいたら良かったのに」

飛べない鳥は、地下の底。
燃える様な髪を揺らし、ダークサファイアの瞳に笑みを浮かべて、快活に歌っている。カナリアの如く。

「ああ、アメイジンググレイスだね。もう覚えてしまったのかい、賢い子だ」
「船乗りの歌。その湖は、海に繋がってるんでしょう?」
「…そうだよ。大平洋にゆったりと、陽が沈むんだ」
「ふーん」

二度と太陽を拝めない女と、一度も太陽を拝んだ事のない子供が、旋律に包まれている。レコードはくるくると廻り続け、いつか。

「テレジア。残念だが、お前の癌は…」
「もう良いさ。この歳まで生きてきたんだ、私の事は忘れておくれオリオン」

いつか。

「お前は俺の所為で…」
「良いから早く、夜空の下へお帰りよ。黒の皇国に囚われる前に、ね…」
「俺が、陛下と夜人の遺体を持ち出した事を知っていて」
「…オリオン。私がもう少し若かったら、あの時のお前に応えられたのかね」

この音が消えたその時に、



「もう二度と会う事はないよ。…自分の場所へお帰り、龍一郎」

観客は、何を思うのか。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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