帝王院高等学校
ふわっふわに溶けちゃいなよ!
「あー…」

例えば、つい先程まではしゃいでいた自分が、ふとした瞬間に沈黙してしまうと、途端に溜息が出てしまう。理由は退屈だからとか疲れたからだとか、隣に人が居てもついつい、我慢が出来ないものだ。
だからと言って気を使えと言っている訳ではない。人はハイテンションを持続する事が不可能だと証明したいだけだ。バイオリズム、上がっては下がるから平均値を割り出せる。上り詰めても下がり切っても、駄目なのだ。

「もっかい目薬借りよっかなー」
「染みるやーつ?」
「染みるやーつ。染みないと効いた気がしないんだもん」
「痛くないと挿入された気がしないなんて…ハァハァ」
「あはは、何だって?」
「さーせん」

良く伸びる親友の頬を両手でつまみ、ぐーっと引っ張る。
バイオレットのサングラスの下、大して高くない鼻のまだ下で、薄めの唇が一文字に横伸びている様を暫く眺めた。

「ふひはふぇんふぇひは」
「すいませんでした?」
「ふァい」
「俊のほっぺって結構伸びるね。ちぎりたい」
「はふん」

ガタガタと震えている体を見つめ息を吐き、覇気のない笑みを零す。

「タイヨーちゃん」
「なーに」
「人を駄目にするものって、何だと思うなりん?」

空には蜂蜜色の月。
星は疎らで、目を凝らさなければ一番星さえ見えはしない、淀んだ大気の下で。

「うーん。今夜、俺を駄目にするのは紛れもなくカルマの『前』総長だけどさー」
「あらん?罪のない平凡なオタクに濡れ衣を着せる魂胆ですねィ?」
「罪のない平凡な俺の眼球にコンタクトを入れた癖に」
「い…入れたなんて、そんなふしだらな事…っ。ハァハァ」
「ちょいとお前さん、いっぺん逝ってみる?」
「眼鏡の底から反省しております」

テラスには二人きり。
とうに冷めた料理が皿の上で、微かな夜風に晒されている。賑やかな喧騒は別世界、明るい明るい、ガラスの向こう側の事。

「世界がね」
「ん?」
「鮮やかだって表現する人がいるじゃん。たまに」
「ん」
「だけど、俺が見てる世界はいつも灰色なんだ」
「ふぇ」
「あ、やっぱちょいと違うかな?何て言ったらいいんだろ、鮮やかじゃないって言うか。古びた写真みたいに、他の人より見えてる景色の彩度が低いんだと思うんだ」
「コントラスト低めな感じざます?」
「そうそう、コーントーストが残念な感じ」
「じゅるり」

空気を読んでくれているのか、ガラスの向こう側の賑わいがテラスに伝染する事はなかった。時々グラスが空いたのを満たしてくれる大人が一人だけ。

「…で、しつこいかも知んないけどさー」
「ほぇ」
「ほんとに怒ってないの?」
「僕が」
「俊が」
「何に?」
「庶務」
「カイちゃん?」
「そうだよ。言ったろ、お前さんは怒っていいんだ。後から『好きだ』って言われたって言ってたけど、どう考えたって、やっぱそれは強姦じゃん」
「んーん。『愛してる』だったにょ」
「どっちでも同じさ」
「そんなもん?」
「そんなもん」
「ふぇ。BLと現実はやっぱり違うにょ」

いつもより食べ過ぎた気がするのはやはり、夜空を外で見上げているからだろうかと、山田太陽は息を吐いた。基本的に、学園に居ても実家に帰省していても、こんな時分に外を出歩く事などまずない。
何なら寝ずに朝まで起きてはいるが、コントローラーを握り、緑茶のペットボトルを傍らにスタンバイさせて、ドライアイで目が血走るまでテレビを凝視している。当然、ゲームだ。テレビゲームなのかポータブルゲームなのか、新作ソフトが出る度に変わってくるが、ゲーム以外の理由で零時を回って起きている理由はなかった。テスト前の自主学習ですら、日を跨ぐ前に終わらせる様な男だ。

「そりゃそうさ。だって俺らは生きてる」
「そーね」
「自分で考えて自分で行動してる」
「そーかしら?」
「今回のこれは、仕組まれてるけど」

夜の8時以降に出掛ける予定があった事など、殆どない。
ラウンジゲートの大浴場に入ったのだって、今月に入ってからだ。高等部に上がったら行ってみようと思っていた、などと言う事も決してない。初めて出来た、曰く『親友』に誘われるまでは、ただの一度として。

訳の判らない、けれど手間が懸かっている事は判る露出度の高いコスチュームと、産まれて初めてつけたコンタクトレンズに、産まれて初めてつけた銀髪のウィッグ。取り外しが出来るメッシュはエクステと言うらしいが、すぐに忘れてしまいそうだ。太陽には余りにも、縁がなさすぎる。

「恋愛って言うじゃん?」
「ん?」
「だから、恋だの愛だの、どっちも一緒って事だと俺は思うんだ。世界中でその人だけが特別だと思うコト」
「なるへそ〜。タイヨーちゃん、眼鏡からウロボロスが出たにょ」
「蛇かよ!知らなかったよー、お前さんの眼鏡にはモンスター召喚の魔方陣が刻まれてるんだねー」
「てへへ」

まったりした夜だった。
零時を回って尚、ガラスの向こう側の賑わいは納まらない。
閑静な商店街にはテナントばかりで、幾らか住居つき店舗が残っているものの、暮らしているのは軒並みお年寄りばかりだと言う。

「悩んでる時ってさー」
「ふむ」
「どうでもいい事で笑っちゃう時、ない?」
「ある」
「全然面白くないのに」
「心の中はちっとも笑ってない癖に」
「人気ってだけでさして面白くもない芸人のつまんないコントに、ADが合図を出した時に沸く合いの手ばりのガヤ笑いね」
「例えが渋い」

数年前まで水商売の店舗が多かったらしいが、その所為で無法地帯と化していたこの商店街の治安が良くなった最たる理由は、都内で知らぬ者はないほど有名なカルマの拠点があるからだ。
若者が出歩き易い週末の深夜は、当然ながらトラブルが多発する。毎週末カルマの集会があると知っていれば、悪さをする者が商店街に出没する事はない。ただでさえ、8区で最も有名なカルマを筆頭に、9区のエルドラド、3区のレジスト、神出鬼没のABSOLUTELYはその筋では有名だ。

「そんな時はきっと脳味噌がさー、溶けちゃいたいと思ってんだよ。直面してる問題から現実逃避してるだけなんだ。ほんの一瞬でも」
「なるへそ」
「でもね、楽しさにかまけて逃げると、ふとした時に思い出してガクっと来るわけ。楽しかった分、殊更さ」
「ん」
「先伸ばしにしちゃ駄目だよ。カイ庶務の為にって思うかも知んないけど、逆に放置の方が相手にとっても自分にとっても、辛いと思う」
「はい」
「お前さんはカイ庶務が好きなんだよね?」
「ん」
「…はー。何か娘を嫁に出す気分」

エルドラドと対立していた6区の最大派閥、ハイブリットエンドの総長は、太陽ですら知っている。帝王院学園剣道部の元主将、現在三年生だが、去年学園外で乱闘騒ぎを起こし謹慎処分になり、その時に剣道部を退部したらしい。
それまで高坂日向に続く偉そうな態度の俺様男だったが、髪を丸坊主にし、出家したのかとまで噂されていたものだ。ころっと人が変わってしまい、今では仏の様な男になってしまっている。まるで別人だ。

「あのさ、工業科の屋台で焼きそば食べたじゃん?」
「あァ、タイヨーが白百合様といちゃいちゃちゅっちゅしてた、アレですか」
「いちゃいちゃもちゅっちゅもしてない」
「だがしてた」
「お前さんの眼鏡は節穴かい」
「誰の眼鏡が尻穴ですか!エッチ!」
「お前さんの眼鏡ちょいと貸してよ、モンスター呼ぶから。ディアボロスとか呼んじゃうから」
「流石はゲーム廃人、お眼鏡が高いにょ。オタク故に存じ上げておりますともキラキラ厨二ネーム!ディアボロスとはギリシャの悪魔ですねィ?くっくっ」
「キラキラとか中二とか、不用意に若者言葉を使って俺に疎外感を与えるのはおよし」

良く伸びる頬の真ん中についている唇をつまめば、これまた良く伸びる。
吊り上がった目尻と小さめの黒目に、この薄い唇が遠野俊と言う人間を悪いイメージに繋げているのだと思ったが、顔立ちそのものは悪くないと太陽は思っていた。少なくとも、俊の素顔を知り尽くしているカルマのメンバーは、誰一人例外なく俊を男前だと信じている様だ。身内の贔屓目を除いても、シーザーとまで呼ばれる理由は、やはり強さだけではないだろう。

「疎外感…!主人公は孤独な存在なんです!ええ!連載開始時は必ず孤立するものなのです!訳ありながら、それを感じさせない地味さと平凡故の控え目さと最早作者の暴走としか思えない完璧なシンデレラロードで血だらけになりながらも、やはりお決まりとしか思えないハッピーエンドに辿り着く宿命を負った主人公は、イケメン過ぎる俺様生徒会長に俺様攻められる羽目に!」
「俺様生徒会長かー。神帝は神様会長だし、王呀のバ会長は頭も下半身もだらしないバ会長だし、左席会長はあらゆる意味で不快長だし」
「きゃ!腐会長だなんて、誉めても何も出ないわょ?マスター、隣の方にコーラZERO1杯お願いしますん!」

但し、皆が憧れるカルマのシーザーの正体は、この様だ。
不良には一切興味がなかった、寧ろ不良など社会の害悪だと思ってきた太陽ですら実は憧れていたシーザーが、まさかこんな心底腐り果てた腐男子だとは思わなかった。秋葉原も世界も震え上がりそうだ。

「タダで飲み食いさせて貰ってるのに、忙しい榊さんを使うんじゃない。自分のお代わりくらい自分で貰ってくるから」
「タイヨーのそう言う所…アイラビューン」
「ありがとー。で、焼きそば食べたって所まで話を巻き戻すよ。あの時さ、グランドゲートの掃除をしてた坊主頭の人が居たの気づいてた?」
「クリリンの事かァ!」

ぐびっと炭酸を一息で飲み干した男は、ゲップと共に叫ぶ。
時間を考えなさいと突っ込み一つ、ウィッグとコンタクトの慣れない違和感に肩が凝っていた太陽は、ポキッと鳴った己の首の骨に心の中で飛び上がった。

「流石は自称オタク、アニメで攻めてくんねー」
「僕こう見えて原作派なんざます」
「お前さん何歳だよ」
「15歳独身です!」
「はいはい、知ってる。あの人、ハイブリットエンドの総長なんだ。知ってる?」
「ヒィ!お洒落坊主の不良さんだなんて、浮気は駄目ょタイヨーちゃん!二葉先生と言うお洒落眼鏡がありながら、めっ!ハァハァハァハァハァハァ」
「その親指は何で立ってるんだい?」
「えっ?!勃起ってる?!」
「何か判んないけど、今の立ってると俺の立ってるは違う気がするねー」

迸る涎にフキンを投げつけ、太陽は歪んだ笑みを浮かべた。

「ハイブリットエンドの頭は、去年まで剣道部の主将だったんだ。部長。大会じゃ入賞の常連で、NHKの取材が組まれたコトもあるんだよ。だから天狗になっちゃった訳だけど」
「はァ。…僕は知ってるにょ。BL世界の総長はイケメンしかなれないけれど、現実の総長には僕みたいな例外が居るにょ。これは紛れもなく事実なり。眼鏡を逸らしても事実は変わらないにょ。でも敢えて聞こう、…仏様はイケメンですか?!」
「んー、イケメンと言えば、イケメンかなー」
「ガッデム!二葉先生が…!二葉先生がせめて腹黒副会長であったら、腹黒副会長×平凡受けの道が開かれていたものを…!何故に会計なのか…っ!」
「だってあの人、理系だもん。選択科目に地理か古文を取った時、ちょいちょい満点じゃなくてさ、今一歩帝君に届かないんだよ」
「ごくっ。タイヨーが二葉先生の点数を知ってる、だと…?やはり愛故に…」
「皆知ってるって。御三家のネタはすぐ噂になるからねー。神の君に至っては、昇校以来一貫して満点さ。とんでもない男だよ神帝は。ほんと、俺としてはABSOLUTELYのカエサルと同等の扱いを受けてたシーザーがお前さんだなんて、信じらんないよ…」
「えへへ」
「ごめん、今のはちっとも誉めてない」
「ぐすん。イイにょ、俺様会長に求愛されるタイヨーを見たいと思う心は未だに消えないけどっ、今夜やっとタイヨーがヤンキーデビューを飾るのだから!そして真の訳あり主人公の道を、征きなさい…!」

感極まったのか、サングラスをしゅばっと外し、フキンで目を拭いている俊は酔っているのかも知れない。呆れ顔の要と隼人が、テラスと店の境に立ってこちらの様子を窺っている。
集会の時間だと言いたそうな表情だが、俊が号令を掛けるまで待っているのだろう。健気な事だ。俊以外の言う事など、一切聞きそうにない二人だが。

「そろそろ時間だってさ、『ハイブリットエンドの総長を仔猫扱いした』総長さんや」
「水臭いにょ。僕とチミとの仲でしょ、見下す様な目で『この豚めェ!』と罵ってくれても良くってよ?」
「あはは、そこで待ち構えてる神崎君と錦織君に殺されそうだねー、それ」
「ふぇ?タイヨーが殺される?」
「すっごい睨まれてる。視線でブスブス刺されてる」
「…隼人、要。タイヨーを倒したかったら、俺を倒して征くがイイ。来い!」

ぶんぶん頭を振っている隼人と要は、とんだ濡れ衣だとばかりに太陽を睨んでくる。素早く立ち上がった男は、何故かシャツをガバッと脱いだが、太陽から臍をつつかれてクネっと悶え、無言で脱いだシャツをいそいそと着直した。
何故脱いだのかは全く判らないが、本気で戦うつもりだったのかも知れない。

「オタクを舐めると火傷すっど!勿論、俺がなァ!ほわちゃー!」
「ごめんねー、神崎君、錦織君。俊が俺を好き過ぎて、何か勘違いしてるみたい」
「あは。…マジ三秒で殺したい」
「同感ですね。俺は一秒で仕留めたいと思いました」
「ダーリン、怖い不良さんがあんなコト言って俺を脅してくるよ。守っておくれ」
「タイヨーちゃん…!チミの為なら死ねる…!」

ビシッと太陽に敬礼をした極悪面は、ビシッとサングラスを掛けるなり隼人と要の前で構えた。ボクシングでも始めそうな構えに、青褪めた要と腰が引けた隼人が口を開くより早く、赤毛を翻した全身レザー男がなけなしの眉を跳ねたのだ。

「総長、時間が押してます。そろそろ号令を」
「俊、ケツカッチンだって」
「ほぇ?ケツ…ケツがかっちん?!固いおケツ?!それはシリリンの事かァ!」

しゅばっと佑壱の尻を揉みしだいた変態は、二秒で肩を落とした。

「…固ければイイってもんじゃないにょ。固すぎる尻は貴方に絶望を招く恐れがあります!イチ、罰としてマシュマロを年の数だけ食べなさい。チミに幸あれ」
「はい?マシュマロ作れっつー事っスか?コーンスターチあったっけな」
「俊、イチ先輩は俺様攻め候補なんだから、お尻は別に固くてもいいんじゃない?柔らかいお尻は受けのものじゃないの?」
「甘いにょタイヨー!固すぎるお尻じゃ、受けの上にのし掛かって逃がさない様に体の上に座って押さえ込んだ時、か細い受けのお腹を痛めてしまうかも知れないもの!お腹は大事!受けのお腹は、妊娠する事がある…!」
「なるほどー、先の先を読んでる…って、何で男が妊娠する事があるんやね〜ん」
「BLには頻繁に、奇跡が起こるにょ…!」
「親指を立てるんじゃない。はいはい、涎を拭いて、髪整えて、パリッとしなさいパリッと。お前さんは一応、総長なんだろ?」
「やめてっ、アタシはただの腐男子になるにょ!止めないでっ、意思が揺るいじゃうなり!」
「何の意思」
「タイヨーを訳あり主人公にするべく不良デビューさせて親衛隊長になる計画と、もういっそイチと戦って副総長の座を何が何でももぎ取り、タイヨー総長を近くから見つめてハァハァする計画とで、ぶら下がっちゃうから!天秤がガタガタしちゃってるから!もう、もうっ、イチーっ!テメェ、俺とやんのかコラァ!俺は副総長になんのかコラァ!」
「いやいや、総長は総長っス。総長のまんまです。何で副総長になるんスか、やんねぇしねぇっス」

散々な理由でオタクに胸ぐらを掴まれた佑壱は、真顔でぶんぶん首を振る。
どうにかしろと恐ろしい深紅の双眸に睨まれた太陽は、でれりと表情をとろけさせると、


「あはは、脳味噌が溶けないかなー…」

乾いた呟きを、一つ。























「ユーヤ、見ろこれ!」

部屋に閉じ籠って何をしているのかと思えば、床板を踏み抜かんばかりの足音を発てながら階段を飛び降りてきた子供が、黒いシャツとネイビグレーのハーフパンツと言う出で立ちで、くるりとターンを決めた。

「どーだ!似合うっしょ」
「おやまぁ、帝王院学園から届いた荷物がないと思ったら、早速試着ゴッコかい」
「おぉ、流石はじーちゃんの孫だ。良く似合ってるぞ健吾。裕也も着替えて来なさい、写真を撮ってやろう」

土曜日と日曜日は、近所の公民館での学習塾で生徒を受け持っている高野の祖父は、基本的に平日は朝から家にいる。朝刊を朝一番に呼んで、食事をする以外は、釣竿を磨いたり時代小説を読んだり、リビングのテレビの前から離れない。
正月を越して2月の末に、健吾と裕也は珍しくよそ行きの格好をした祖父母に連れられて、遠出をした。
海沿いはそれほど雪の被害がなかったが、内陸ではあちらこちらに雪が残っていたものだ。帝王院学園と提携校扱いになっている私立の中学校で、その日は新年度入学生の地方説明会が行われた。

その時に採寸した制服が、3月に入り漸く届いたのはつい先程の事だ。
インターフォンが鳴り、丁度トイレから出てきた健吾が応対していたのは声で判ったが、3月に入っても例年より寒波が続いており、此処の所、裕也は祖父と同じくリビングの炬燵から殆ど出ていない。

「じーちゃんのカメラってあれだろ?ジージー回してカシャカシャする、ちゃちいインスタントカメラだろ?折角なんだからデジカメで撮ってよ」
「むむっ。何でもかんでも機械に頼るのは良くないぞ健吾、ワープロだのデバガメだのなくとも、ちゃんと現像した写真が一番だ。プリントラーで印刷するより、ずっとな!はっはっはっ」
「ワープロじゃねーべ、パソコンだべ?デバガメでもねぇし、プリントラーって何だよじーちゃん、逆に新しいっしょ」

近所の小学生よりしっかりしている健吾は、宅配業者から受け取った荷物をこっそり二階の子供部屋に運び、我先に新しい制服の袖を通した様だ。
孫の晴れ姿にいそいそと炬燵から離れた祖父に促され、裕也は渋々慣れ親しんだ炬燵から足を引き抜いた。ほかほかの体が寒さに当たる瞬間の心地好さは好きだが、長く炬燵から離れているとすぐに冷えてしまう。さっさと着替えようと、健吾が駆け下りてきたリビングの片隅にある階段を上り、しんと冷え静まった短い廊下を渋々歩く。

高野省吾が初めて大舞台に立ち、市民栄誉賞が授与された年に、この家は立て替えられたらしい。
築年は十年を越えているが、それでも近隣のどの家と比べても新しく、外から見るより広く感じる。年々歳を取っていく両親の為に、省吾は一階を生活スペースとして設計させた様だった。
リビングに二階への階段があるのも、吹き抜けとして二階の中央をくり貫いているからだ。だから二階は回廊の様な作りになっており、階段を上って左右に伸びた廊下のどちら側を選んでも、辿り着くのは一階の祖父母の寝室の真上に当たる、子供部屋である。とは言え、二階は物置代わりの様なものだったらしく、一階の造りに比べては幾らか雑だ。床下断熱も効果が薄く、廊下の手すりから一階のリビングが丸見えなので風通しが良すぎる所為か、酷く寒々しい。

「何やってんだ」
「う」

二階はトイレと物置を子供部屋に改装した部屋しかない。
トイレを通り過ぎて、健吾が開け広げたままだったらしいドアから子供部屋を覗き込めば、健吾が脱ぎ散らかした服とダンボールが二つある。封が開いていない方のダンボールは裕也宛の荷物だろう。

「何やってんだって聞いてんだよ」
「う、ぁ」

一階に居なかったから、二階にいるのは判っていた。
健吾にべったり張りついている目の前の子供は、健吾とは話しているが、裕也には一言も口を開かない。いつもの事だ。
口下手なのは知っているが、半年以上一緒に過ごしてきて未だに意思疏通が叶わないのだから、今後も望みは薄いだろう。裕也は純粋に質問をしただけのつもりだったが、泣きそうな表情で脱兎の如く逃げていった敬吾は、ぱたぱたと廊下に足音と涙を振り撒いていった。

「ビビらしてんじゃねぇよ、苛めっ子」

敬吾が走り去った方向とは逆側から、呆れた様な声音が聞こえてくる。
見慣れない出で立ちの健吾は肩を竦めながら、戸口で立ったままだった裕也の尻を蹴った。

「早く入れや、廊下狭ぇんだからよ」
「アイツ、お前の荷物見てたぜ」
「あん?ああ、帝王院学園に興味があんだろ。俺が帝王院に行くっつったら、ごねたもんなぁ。アイツは地元の小学校通ってっからさ、俺もお前も同じだと思ってたんだよ」

健吾が帝王院学園への入学意思を祖父母に伝えた時、祖母は最後まで反対した。気を使っているのか、健吾の両親は暇を見つけては帰国したが、その度に深夜、夫婦喧嘩を繰り広げている。
改装した高野家は部屋数が少ない為、夫婦が帰国した時は二階の子供部屋に宿泊させて、裕也と敬吾はリビングに布団を敷いて寝る事になった。両親に挟まれたくないのか、健吾もその時はリビングで寝ると必ず宣う為、実際、夫婦は二階で二人きりだ。
だから皆が寝静まった夜に喧嘩をするのだろうが、如何せん、吹き抜けのリビングには良く聞こえてくる。勿論、二人の喧嘩になど全く興味がない裕也は健やかに眠り続けられるが、無関係な敬吾は声もなく震え、健吾は寝た振りを続けた。我慢の限界に達した祖父が怒鳴るまで、ずっとだ。

「俺が此処にいる限り、ババアと親父は喧嘩すんじゃん。敬吾は泣くし、じーちゃんは怒鳴ってばっかで、血管が切れちまう」
「最近、血圧高いっつってたもんな」
「じーちゃんとばーちゃんさ、職場結婚じゃん?どっちも40歳近かったっつーから、同じ歳だし、子供は親父だけしか出来なかったけどさ、餓鬼三人を育てるのって無理あり過ぎんだろ?」
「まーな」
「ばーちゃんが最近、じーちゃんに言うんだ。私達まだまだ死ねませんね、ってさ。そうやって口に出すって事は、色々覚悟してんだよ、多分さ」

見てみろ。
誰よりも子供っぽい行動を見せる癖に、健吾は誰よりも大人びている。未だに毎週通院して診察を受けている癖に、他人の心配ばかりだ。裕也はそれが、とても滑稽なものに思えてならない。

「ほらよ、万歳しねぇと着られねーだろーが。サスペンダーの着け方知ってっか?」
「知らね」
「ったく、オメーは俺がいねぇと何も出来ねぇな。着けてやっからズボン履いて後ろ向け」

帝王院学園への入学意思を裕也が父親に伝えたのは、制服の採寸が終わってからだ。省吾から裕也の生い立ちを聞いていたらしい高野祖父母は、心から裕也を我が子の様に可愛がってくれて、成人するまで暮らしてくれて良いと言ってくれる程だった。
勿論、その台詞に甘えられるのは裕也だけだ。裕也の父親は度々省吾経由で祖父母への謝礼を言伝てており、一度だけ、ほんの数時間だったが挨拶にも来た事がある。

ステルシリーの事を説明しても理解出来ないだろう祖父母には、ドイツ貴族の家である事は話した様だ。それだけで忙しい職業だろうと納得した祖父母は、恐縮している藤倉に対して胸ぐらをトンっと叩き、大船に乗ったつもりで任せろと宣言したのである。何なら養子にと言う提案も出たが、流石に裕也の父親は笑って濁した。

「オメーさ」
「あ?」
「今更って感じだけど、マジで帝王院に行くつもりかよ」
「マジで今更過ぎんだろ」
「や、そうだけど。俺が行くっつっただけで、お前まで付き合う理由はねぇだろうがよ」
「入学願書出して試験受けて面接受けて、採寸した制服と入学案内が届いて、今更それかよ」
「射手座は黙ってると死んじまうんだってよ。ググったら載ってた、蝿みてぇっしょ」
「ああ、それオレも調べたわ。親父に産まれた時間聞いたら、6時前くらいだったってよ。夕方の」
「はぁ?何それ」
「時差があんだろ。日本のが先に日を跨ぐ」
「ちょっと待てよ、だったらオメー、12月22日産まれじゃなくて?」
「日本じゃ、12月23日になってすぐ産まれたっつー事だ」

着替えた裕也がすたすたと出ていくのを追い掛けながら、健吾はスマホを充電器から引き抜いた。12月の星座を検索してみれば、射手座は22日までではないか。

「つー事は、あんにゃろ、ドイツじゃ射手座で、日本じゃ山羊座…?」

見るともなく、検索結果におまけの様についてきた性格診断を読めば、射手座とはまるで評価が違う。瞬いた健吾は暫く天井を見上げ、頭を掻いた。

「賢くて意地悪で義務感があって、どんな状況でも動じず、時に悪魔じみた性格って…、マジかよ。何だこの抜群の説得力、俺ってばとんだ小悪魔を引っ掻けちまったんか?」
「………けんちゃ」
「ん?あ、居たんか敬吾。何?」
「ばーちゃ、の、おやつ、あるヨ」
「うひゃ。やった、今日のおやつは何だって?」
「う、えと、干物、えてかレい」
「また骨ばっかの薄いカレイかー。スーパーで一番安かったのかもな?」
「ん…」

キラキラした眼差しで、健吾を見つめてくる目が擽ったい。
真新しい制服に興味がありそうだと感じ、スマホをホケットへ突っ込んだ健吾は脱ぎ散らかしたパーカーとハーフパンツを拾った。

「下で着替えっから、制服着てみっか?オメー小さいから、入るんじゃね?」
「う、ぁ、…イイノ?」
「良いに決まってんだろ、着るくらい。だからあんま拗ねんなって。東京に行ったって、休みの時には帰ってくっから」
「ほん、と?」
「本当」

戸口から体を半分覗かせた男の、じとっとしたエメラルドが片方だけ見つめてくるのを認め、健吾は肩を震わせる。

「ばーちゃんの手作り干物が冷めちまうだろーが、とっとと来い。オレが喰うぜ」
「今行こうとしてた所だっつーの。ビビらせんなし」
「は。ざまぁ」

裕也に怯えた敬吾を背中に張りつけたまま、健吾は狭い廊下をトボトボと歩いた。
前には裕也、後ろには敬吾、まるで連行されていく犯人の様だ。廊下が狭いだけだが、逃げ道がない。
仕方ないので吹き抜けから飛び降りると、丁度真下でカメラのフィルムを巻き取っていた祖父がスッ転んだ。

「け、健吾ーっ!じーちゃんを殺す気か、お前はぁ!」
「げっ」

祖父の拳骨より痛いものを、健吾は知らない。
失敗したクラクションの様な声で笑った裕也を睨んだ所で、タンコブの腫れは引かないだろうと思われる。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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