帝王院高等学校
ラララ変なチミはありおりはべりいまそかり♪
「テメェ、その面ァ見忘れてねェぞ!」
「あ?」
「は?」

凄まじい絶叫が、わんわんとハウリングしている。
暗い暗い巨大な空洞の中、真っ直ぐ落ちてきた白い何かを一瞬写し出した網膜は、ドボンと言う音を発てて巻き上がった飛沫をポカンと見上げ、避ける事もしない。

「あー…、何か落ちてきやがった」
「んの、馬鹿犬!」
「にゃ?!」

波打ち際に座ったままだった嵯峨崎佑壱が、無抵抗で波ほどの飛沫を浴びそうな様子を認め、舌打ちする間も惜しんだ日向は、手を伸ばした。
濡れて背に張りついている赤毛を鷲掴み、ほぼ無意識で引き寄せる。抱き寄せる様な形になった為、日向の背中が迸る飛沫の波を受け止めた。

微かに息が詰まったが、そんな事よりも、左手で握り締めてしまった長い髪が抜けていないかが心配だ。力の加減など出来なかったから、下手をすれば頭皮を痛めている可能性もある。
ずぶ濡れの全身からひたひたと水滴が落ちる褐色の肌は、若さ故にぱつんぱつんと水を弾いた。髪は幾らか抜けてしまっているが、掻き分けた生え際に怪我はない様だ。

「「…」」

瞬き一つせず見つめてくるダークサファイアを暫く眺めて、日向は眉間に皺を刻む。
何だこの、見慣れたアングルは。見慣れてはいるが、凄まじい違和感がある。この角度で他人を眺める時、大抵は折れそうな体躯の人間ばかりだからだ。折れそうは言い過ぎだとしても、明らかに日向よりはか細い。彼らは一様に、従順に服従する。日向が触れる全てを受け入れて、決して抵抗しない。

「高坂サン、えっち」

例えば、今の佑壱の様に。

「何で黙ってんだよ、気持ち悪ぃな。早よ退け」
「何、してんだテメェ…」
「いや、そりゃ確実に俺の台詞だろうがハゲ。何つー所で盛ってやがる、テメーは何処まで屋外フェチだ露出狂野郎。俺は此処じゃ興奮しねぇ」
「直ちに黙れエキセントリック能天気、咬み殺すぞ」
「あんなもん頭から浴びても死にゃしねぇっつーの、ターコ。何がしてぇんだテメーは」
「………煩ぇ。それ以上水浴びして風邪でも引いたら馬鹿が益々馬鹿になんだろうが、つーか菌に蝕まれろ糞犬が。年中脳内インフルエンザか」
「何で罵倒されてんのか全く判んねぇが、お前、まさか照れてんのか?」

日向がそっぽ向いて離れた瞬間、日向の髪から零れた水滴が佑壱の唇に落下をしたのを見た。酷くいやらしいものを見た様な気になったが、揶揄う様な佑壱の台詞に全身の血液が沸騰し掛けた為、それ所ではない。

「…あ?何で俺様がテメェなんかに照れなきゃなんねぇんだ糞カス阿呆馬鹿早漏が」
「うっわ、餓鬼っぽい奴」
「んだと?!」
「オメーよぉ、実は目ぇ悪かったりすんのか?」

いやに落ち着いている佑壱が、よっと一声、起き上がって胡座を掻いた。
ちらりと波紋を描いている水面を一瞥したのが判ったが、構わずに真っ直ぐ、日向を見つめてくる。探る様な眼差しが、ひりついた。

「んな事、誰に…」
「マジで悪いのか」
「…別に、困る程じゃねぇ」
「ふーん。眼鏡とか掛けねぇのかよ」
「テメェに関係ねぇだろうが」
「そりゃそうだ」

日向の視力が落ちたのは、イギリスで暮らしている時に昼夜問わず書斎へ籠り、勉強ばかりしていたからだ。
特に7歳から帰国するまでの小学生時代、最初の数年で視力が落ちていった。とは言え、余程遠くのものではない限り、見えなくて困ると言う事はない。二葉に比べれば、誰にも気づかれない程度だろう。

「何か疲れた」
「テメェのお陰でな」
「はぁ?俺はモードチェンジの可能性を引き出そうとしてやったまでよ。部活棟までレールを走らせてなかった方が悪い」
「当たり屋かテメェは。年がら年中あっちこっち改装しても改築が追いつかねぇティアーズキャノンだけでも、予算の半分吹っ飛んでんだぞ」
「え、そうなの?良く知ってんなぁ、流石は副会長。もういっそオメーが会長やれば?」
「…今すぐ殴りたい」
「叶そっくりなメンヘラ女は」
「…知るか。テメェじゃねぇが、この程度で死にゃしねぇだろう」

だから日向は、自室で一人の時以外では、眼鏡を掛ける事はなかった。日常でコンタクトレンズなどもしない。しょっちゅう命を狙われている身で、コンタクトレンズがずれたから逃げ遅れたでは、笑い話だ。

「幾ら叶だろうが女だろ?女なんざピンからキリまで弱ぇ、中身は嘘と見栄と博愛と差別の区別がついてねぇ能なしばっかだがな」
「この時勢に男尊女卑たぁ、怖いもの知らずじゃねぇか。女が全部同じじゃねぇだろうに」
「同じだよ。女にゃ子宮がある」
「男は頭で考え、女は子宮で考えるっつー、下世話な風説か」

以上の理由で、日向の視力が近くを見る時に限って0.7である事を知っているのは、日向と視力検査を担当してくれた医師だけだ。それぞれの身体測定履歴はそれぞれのカードで閲覧出来るが、他の人間が見るにはカードを借りるか、それこそハッキングでもしなければ不可能である。

「子宮がねぇ男にゃ、到底理解出来ねぇわな。股間で物事を考えてそうな、何処かのヤリチン淫乱には理解出来るんだろうが」
「喧嘩売ってんのか。買わねぇぞ」

中央委員会副会長である日向のゴールドカードには幾重にもセキュリティが敷かれている為、日向以外の閲覧は二葉ですら不可能だと言えるだろう。例外的に、理事会役員と中央委員会会長はこれに含まれないが。

「ジェネラルフライアのコードは、ルークが円卓を構築した時からあった。組織内調査部の実情は、最近までの左席とほぼ同等だった筈だ。少なくとも、俺が知る限りはな」
「右元帥が知らねぇ事を知る訳あるか、カス犬」
「推測くらいはあんだろうが」
「…」
「は。嫌だねぇ、取れる満点をわざと手離して三番にしがみついてる天才さんは」
「…テメェ、何が言いてぇんだ?あ?」
「俺よか、テメーのがよっぽど物知りだっつってんだ。知らん振りがお得意な事で」
「笑わせんな。三万枚舌とまで言われた男の台詞とは思えねぇな、言いたい事だけ簡潔に述べろ。そして黙れ」
「わざと逃がしたんじゃねぇのか」
「殴られたいらしいな」

あの帝王院神威が日向の視力に興味があるとは、到底思えない。
そもそもあの、人としては最低だがある意味化物としては最強だと思われる男の事だ。他人のスリーサイズ、肺活量、下手をすれば視力や聴力ですら、見ただけで判っていても可笑しくはないと思えてしまう。
反吐が出るほど人としては苦手だが、会長としては尊敬しない事もない男だった。生来のサディストさを無意識で垂らし流している悪びれなさだけは、やはり反吐が出るほど嫌いだが。

「嘘はついてなさそうに、見えなくもねぇな」
「…吐いてねぇっつーの。テメェを騙して何の得があるっつーんだ馬鹿が」
「俺の豊満なボディーを蹂躙」
「ごほっ。馬鹿か糞が!だ、誰がテメェの…もにょもにょ」
「あ?冗談だろうが、何キレてんだよ、キャパの狭い男だぜ。訳判らん事をもにょもにょ言ってんじゃねぇ」
「誰の所為だと…」

じっと見据えてきた佑壱の視線にやや圧倒されたものの、目が合ったからには逸らさない。正しくは逸らせない、だ。

「何か変な夢を見たんだ」

酷く見つめてくるなと尻込みした瞬間、佑壱の口が発した台詞に戸惑った。

「初めは、知らん奴ばっか出てくる変な夢だった。そんで俺が出てくるんだ。誰が見たって一発で夢だって判るのに、お前と総長に何度も殺されそうになる」
「…はぁ?何で俺様と俊が」
「知るか、ルークはムカつくし何か最終的には俺に助けられるし、訳判んねぇ夢だったんだよ。お前は見た事ねぇのか、変な夢」

時間潰しの会話にしても、脈絡が感じられないからだ。これが右脳主義者のスタンダードなら、日向には打つ手がない。苦手科目がないだけで、日向は自分が理系だと理解している。
夢の話がまさか此処まで広がるとは、考えもしなかった。真面目な会話など数えるほどしかした事がない佑壱と、下らない雑談などどれほどした覚えがあるだろうか。

「いっぺん夢を受け入れると、忘れてた筈の他の夢まで連鎖的に思い出す。夢の中で夢の中なのに、笑えるほど頭を使った訳だ。糖分が足りねぇ」
「訳の判んねぇ事をほざくな。砂糖にでも頭から突っ込んでろ馬鹿犬」
「例えばよ、オメー、朝起きて目の前に仲が悪い奴がいたらどうする?」
「はぁ?」
「自分の部屋に、何故か半裸で居たらビビるだろ?」
「そりゃ、セキュリティが欠如してるとしか思えねぇな」
「だろ。俺もビビった」
「で?その例え話はテメェの話だろう?それからどうなったんだ」
「お?俺の夢の話に興味があんのか?え?興味持っちゃってたりすんのか?ん?」
「訳の判らん絡み方をすんな。酔っ払った親戚のジジイかテメェは」
「親戚のジジイと飲んだりすんのか」
「そら、まぁ」
「ふーん。トイレから貞子みてぇに出てきた癖に…」
「あ?」

もにょもにょ呟いて、ぷいっと顔を逸らした佑壱は何故か不機嫌だ。豊かすぎる喜怒哀楽の表現に戸惑い、いつもの軽口も叩けなくなる。

「黒の皇国は崩壊した」
「ステルシリーの隠語だろう、それ」
「元老院が隠し続けてきた『黄昏の園』が消えたその日に」
「黄昏の園?」
「開発が進まない西区の最西端、サンフランシスコの海岸下600メートル付近にあった、ボロい教会の事だ」

ああ。
それは、佑壱が産まれたと言う、エデンの事だろうか。神威から聞いたばかりの話と照らし合わせても、恐らく間違いない。ごくりと嚥下しそうな生唾を耐えたまま、日向は沈黙を守った。

「アダムを喪失した日、黄昏の園に残ったのはイブだけだった。当時、部長が引退して元老院に引き込んだばっかだった対外実働部は、円卓の2位だった所為で、1位の特別機動部と睨み合いが続いた」
「部署格差か。前円卓の1位はネルヴァだから、地位は今と変わらず特別機動部の方が上だろうに」
「前部長がネルヴァより年上の、レヴィ時代から円卓に入ってた爺さんだったから、それまでは対外実働部の方が若干上だったんだ。キング政権じゃ、ネルヴァとオリオンに並ぶ権力者だったらしい。つっても、俺がこっちに来た頃に死んじまったがな」
「レオナルド=アシュレイ、か?」
「あ、やっぱ知ってんのかよ。コードはライオネル=レイ」

アシュレイはグレアムが消えたイギリスで、数年間沈黙していた家だ。
爵位自体は伯爵家でグレアムより地位が高かったが、遥か昔、グレアムがまだフランス領で生活していた時に、当主が命を救われた事から、侍従関係が始まったと言われている。
フランスを追われたグレアムをイギリスへ招いた切っ掛けも、恐らくアシュレイ伯爵家が関与していると思われた。アシュレイはヴィーゼンバーグとは血縁関係はないが、4代前の当主が当時の王宮の末の娘と結婚した事で、王宮に発言権があった様だ。

「対空管制部の末端、ランクCに辛うじて引っ掛かった様な一介のパイロットが、区画保全部のランクBに異例の出世をした。部署の地位で言えば降格だが、ほんの数年でランクBに入るのは異例だ。ライオネル=レイは、そいつに目を掛けた」
「理由は、日本人だからか?」
「さぁな。『レイ』だったからじゃねぇか?随分おっとりした爺さんだったらしいから、何も考えてなかったのかも知れねぇ」

アシュレイはヴィーゼンバーグに負けず劣らず曲者ばかり、何も考えていないと言う事はまずないだろう。レヴィ=グレアムがアメリカで起業する頃、真っ先に資本金を提供したのはアシュレイだ。
幼かったレヴィ=グレアムが成長するまでの何年間か、アシュレイはイギリスで息を潜めていた。王宮やヴィーゼンバーグに対する殺意を抱いたまま、沈黙は金とばかりに。

「最西端にあるからトワイライトエデン、名付けたのはナイト=メアだと言われてる。男同士じゃ子供は作れねぇが、レヴィ=ノアはナイトを最後の妻に迎えて以降、他の結婚生活よりも長く続いてる。あの教会で式を挙げてから死ぬまで、十年以上」
「…そうか」
「ライオネル=レイが犯罪者にアビス=レイのコードをつけて、特別機動部の副部長に任命したのは、恐らく監視だ。ライオネルは今のアシュレイ当主の叔父に当たる男で、ルークの世話役のジジイの母親と姉弟だ。でも奴は死んだ。シリウスはルークが即位する前の数年消息を絶ってて、オリオンは名前だけがいつまでも残ってた」
「で?」
「今の元老院はルークにビビってる」
「…何だ、今度は」
「円卓も元老院も同じ中央区の人間だ。基本的には男爵に頭を垂れる」
「基本的にはかよ。帝王院が例外か」
「ステルシリーは三代目で、文字通り『NOVA』になるってな。十年前から、年寄り共が騒ぎ出した。…出てった俺を、ルークの円卓に無理矢理捩じ込ませる程には、権力集中を嫌ったんだよ」
「発言権の事か?帝王院を恐れて、ドイツもコイツも尻尾巻きやがったってか」
「叶と俺を両立させて争わせるのは、元老院にとってもメリットがあったっつー事だ。当人同士はお構いなしに、勝手に出来た派閥が睨み合ってやがる。だから俺は、ネクサス以外を信じねぇ」

そのコードは知っている。
度々、日向の部屋を監視にやって来ていた、あの男だ。日本人の様な顔立ちに、少しヨーロッパの気配を漂わせていた。佑壱と然程体格の変わらない、対外実働部のサブマスターだ。

「トワイライトエデンを、本当の意味で『失楽園』にしたのは、ルーク=フェイン=ノア=グレアムだ。奴はイブを解放した。元老院の目論見に気づいてねぇ筈がないのに、俺を1位枢機卿に迎える事を受け入れた。…だからだ、元老院はルークの考えが判らねぇ事を恐れてる」
「ふん。勝手にベラベラ喋りやがって、弱味を握られるとは思わねぇのか馬鹿犬」
「今のこの状況以上に、何を握られるって?」
「…違いねぇ」

不覚にもつい笑ってしまったが、体が微かに震えたのは、笑いからではなく寒さからだった。何度も濡れて、その度にそのまま着ている服は下着まで余す所なく水分を含んでおり、乾いていく度に気化熱で体温を奪っていく。

「なぁ。最近、叶がゲシュタルト崩壊してる気がしねぇ?」
「…しねぇ。二葉は昔からああだ。ゲシュタルト以前に性格が破綻してやがる」
「いっぺんだけ、同じ様な事があったんだ」
「あ?」

日向ですら寒いのだから、佑壱はそれ以上の筈だ。彼の長い髪は、未だにたっぷりと水を吸っているだろう。
チカチカと、ルーターの光が嫌な点滅を見せた。今にも切れそうな、微かな光量だ。

「叶の癖に、包帯でぐるぐる巻きにされてんだよ。内戦中の国境でバイオテロ引き起こす様な悪魔みてぇな餓鬼が、見ず知らずの日本人を庇っただと。嘘臭くて笑えんだろ?」
「…知るか」
「叶はあのお綺麗な体を傷だらけにして、ルークは頭皮から首筋まで酷い火傷で、皮膚を取っ替えた。奴があそこまで無表情になっちまったのは、きっとあの時の移植が理由だ」
「だから何だ」
「俺はぶっちゃけテメーが嫌いだ。全人類の雄の中でトップ1に入る」
「ただのナンバーワンじゃねぇか」
「オンリーワンだぞ?喜べ」
「くたばれ」
「へー、ふーん、ほー」
「…何だ、その気持ち悪い面は」
「お前さぁ」
「あ?」
「昔、叶とさぁ」

もじもじと、何処か挙動不審な態度で呟いては俯くを繰り返す佑壱は、余りにも珍しい表情だ。困っているのか怒っているのか、下手すればくしゃみを我慢している様にも見える。犬で例えるならブルドッグ、お世辞でも可愛くはない。
全く可愛くないのに、いつまで眺めていても飽きそうな気がしないのだから、我ながら悲しくなる話だろう。何と報われない感情なのか。今すぐに捨てられるものなら、中等部時代に何十回も捨てている。

「空中庭園で…」
「二葉?庭園?」
「いやぁ、だから、その、あれだよ…」
「あ?歯切れが悪いな、何だよ」
「だから、その、ありおりはべりいまそかり!」
「あ?ラ変?」
「違ぇ。ワ、ワインが、その…」
「ワイン?…頭沸いてんのかテメェ、この状況で酒だと?飲んで寝てぇのはこっちだ、糞が!」
「そ、そんな何度も糞糞言わんでも…」
「あ?!」
「…さーせんでした!何でもねぇ、シねハゲ!」

結局、頬を膨らませて立ち上がった佑壱は、俊を揺すって起こそうとしている。言い掛けていた話は何だったのか、いつもなら気に掛かるが、今は全く気にならない。
佑壱と目を合わせるのは、凄まじい体力が必要なのだ。いつもなら途中で口論に発展し、最終的には取っ組み合いの喧嘩を経て、誰かに止められてそのまま別れるのが日課だ。顔を合わせる度に、佑壱が「げ」と言う表情をするから頭に来るのだが、そのお陰で、睨み合っている時ばかりは可愛いだの天使だのと言う思考回路は眠ってくれる。その時ばかりはひたすらにムカつくだけだ。

「あ、こりゃ駄目だ。総長が本気で寝たら、腹が減るまで起きねぇ」
「寝かせとけ。どうせ、出来る事なんざ特にねぇ」
「苛々すんなよ。溜まってんのか?」
「デリカシー条例違反で逮捕してやろうか」
「総長をオカズにされるくらいなら俺が抜いてやっから、遠慮すんな梅毒猫」
「酌量の余地はねぇ。死刑を求刑してやる、苦しまず死ね」
「出来る事ならあるだろ、さっき落ちてきた奴」
「…あ?」

何故か濡れたシャツとスラックスを豪快に脱ぎ始めた佑壱が、慌てて目を逸らした日向の視界の外で下着一枚になっている。じゃばっと衣服の水を絞り落とした佑壱は、ごそごそと半乾きのシャツやスラックスを俊に巻きつけ、やり遂げた表情だ。

「流石は俺の総長。寝顔もカッケーなぁ、畜生」
「俺様の目の前で次期会長が左席会長にセクハラしたら、着任前に罷免手続き取るぞ」
「はぁ?テメーと一緒にするな、梅毒猫」
「さっきはスルーしてやったが、誰が梅毒だ紅天狗茸。冗談は髪の色だけにしろマリオ」
「ルイージを苛めてくれたクッパがほざいてら」
「誰がルイージで誰がクッパだ配管工、作業着用意してやろうか帝君さんよ」
「裕也がルイージでテメーがクッパに決まってんだろうが、総長は桃姫。桃好きだからな、お姫様にはドレスを着せねぇと」
「濡れたシャツで包んでドレスもへったくれもあっか。ちっ、馬鹿でも風邪引くんだっつーの馬鹿犬」

諦めた日向はシャツを脱ぎ、濡れたままパンイチの背中に投げつける。ビタンと良い音がしたが、ゴリラの様な犬にはダメージはないらしい。
ぴったり張りついた日向のシャツを掴み、ジョジョっと絞って、何を考えたのか胸元に巻いている。何故胸元なのかと、突っ込もうとした日向は深い息を吐いた。精神力が尽きたらしい。それに伴って、なけなしの体力も尽きそうだ。

「ぶえっくしゅ!…ずずっ。畜生、誰かが俺の噂してやがるなこりゃ、っ、ぶえっくしゅ、ぶえっくしゅ!ずぴっ。何だったけなぁ、1褒められ、2憎まれ、3回は………やっぱ風邪か?」
「3は惚れられてじゃねぇのか。もっぺん出せば、4風邪引くだ。どっちにしろ迷信、」
「はは。だよなぁ」

鼻を啜っている佑壱は、ぶるぶると震えながらしゅばっと体育座りをした。
尻が寒いのか、膝を抱えて日向のシャツをポンチョ代わりに折り畳んだ足を隠そうとしている。
然しそんな健気な姿に目を奪われる事はなかった。下らない迷信だと鼻で笑ってやるつもりだった日向は、笑うに笑えない状況へ追い詰められている。

何故3回なのだ。それではバレてしまうではないか。
例えば、くしゃみをした男の目の前に居た誰かが、くしゃみをした男に疚しい感情を抱いていない事もないと言うアレやコレが、バレてしまうではないか。それではアレがアレしてアレではないか。アレとは何だ。判らない。そんな事は判らない。判ってはいけない。知らない方が良い事が、この世には溢れている。

帝王院学園中央委員会副会長は真顔で頭を回転させると、やはり真顔のまま再起動した。ポーカーフェイスは神威だけの特技ではない。日向も得意だ。ああ、得意だ。いつか余りにもデカいキャバ嬢がキャピキャピ風呂場に入ってきて、何故かソープ嬢の様な接待を勝手に始めた時でさえ、自分は無表情だったではないか。

そりゃそうだ。
想定外の事態に襲われれば、大半の人間がそうなる。驚愕が表情筋を凍りつかせるのだ。ポーカーフェイスではない、ブロークンフェイスだ。

「んぶ、っくしゅ!…うー、4回出やがった、Shit!」
「ちっ。ないよかマシだろうが、それ着とけ」

日向も佑壱も、シャツの下には何も着ていない。
春夏秋冬問わず同じ制服の帝王院学園では、私服登校が認められているにも関わらず、歴代中央委員会役員が制服を着用してきた事もあり、一般の生徒も基本的には制服登校が多い。
体育科と工業科はジャージと作業着が基本になる訳だが、中央委員会を筆頭に各自治会役員は、スペアの制服が執務室に用意されている。会議などへの出席が多い為の権利だが、いつでも着替えられる為に肌着代わりのシャツなどは着ない風潮があるのだ。寒がりの二葉はヒートテックを年中着込んでいるが、神威も日向も制服を脱げば下着一枚だけである。

「オメーのシャツはLLだろうが」
「あ?」
「ボタン止まんねぇかも、俺巨乳だから」
「…お前にはデリカシーがねぇのか、僅かでも」
「デカチンがほざきやがる。冗談はテメーの反りだけにしとけ」
「泣かすぞテメェ」
「ぶえっくしゅ!」

今の佑壱がボクサーパンツ一枚で膝を抱えている姿を見ても、ブレザーを地下探索の折りに汚して捨ててきた日向は、シャツとスラックスしか纏っていなかった。シャツを譲った今、上半身裸なのだ。他に与えられる布がない。
派手なくしゃみを男らしく連発しては、濡れそぼる犬の様にぶるぶると震えている褐色の肌を見やり、日向は息を吐いた。くしゃみをする度に唾を飛ばされては、一々怒鳴る気もしない。

「俊に着せてるテメェのシャツと取り替えれば良いだろうが」
「総長にテメー臭がこびりついた服なんか着せられっか!ンな事をしてみろ、ルークが俺らを殺しに来るぞ…?!」
「…縁起でもねぇ。有り得そうな悍しいもしも話をすんな」
「あの腐れルークを射止めてしまう総長、マジ神」
「その腐れルークを泣かした唯一の男だ、本気で神かもな」

ぴたりと動きを止めた佑壱が、怪訝げな顔で振り返った。
誰が泣いただと?と言わんばかりの表情が、佑壱が理解出来てない事を教えてくる。目撃した日向ですら、余りの驚きに揶揄う事も出来なかったのだから、無理もない。未だに幻覚だったのではないかと、自分を疑っている。

「ルークが………凪いだ?」
「穏やかな海か」
「ルークが脱いだ?」
「露出狂じゃねぇか」
「ルークが…ぶえっくしゅん!………六回目だと?ぶしゅっ!七回目って何だ、まさか伝説?!」
「んな訳あるか馬鹿犬、本格的に風邪喰らってんじゃねぇ。来い」

俊に巻きつけている佑壱のスラックスをせめて履いて、日向のシャツを着ておけば、裸よりはマシだろう。言った所で、従順な犬が飼い主を見捨てられる訳がない。
仕方なく腰を浮かし、日向は膝立ちで佑壱に近寄った。半裸の男が二人で寄り添っている光景は、端から見れば滑稽だろう。

「何か俺、お前の優しさに包まれて泣きそう」
「勘違いだ、包まれてねぇ」
「嘘でも包んでやるとか言えや、そこは」
「俺様の腕は耐過重制限がある。自分の体重までだ」
「お前、何kgだよ」
「73」
「1kgしか変わんねぇじゃねぇか!羽毛の様に軽々抱いてやるわ、来い!」
「行くか馬鹿が、触んな」
「照れてるぅ」
「餓鬼か糞餓鬼」
「あ?餓鬼って言った方が餓鬼なんだよ、餓鬼猫。お前なんか明日猫娘になれ」
「ならん。性別から違うじゃねぇか、阿呆か」

肩を寄せあったまま、日向は凪いだ暗い水面を見ていた。そのつもりだが、今にも消えそうなルーターから零れる光は、手が届く範囲の宙をぼんやり照らしているだけで、傍らの佑壱の横顔も微かに浮かび上がらせてるだけ。
互いの呼吸が微かに聞こえるが、酷く静寂が耳に痛い。

「つーか、さっき落ちてきたのは何だったんだ?いつまで待っても上がって来ねぇな、死んでんのか?」
「ちっ。んな事、俺様が知るか。気になるなら見てこい」
「テメー、一応中央委員会副会長だろうが。俺らも助けてくれたんだろうがよ、助けてやれよ」

巫山戯るなと怒鳴るのは簡単だろうが、気力がなかった。お前だから助けたのだとは言わず、日向は息を吐く。
一瞬しか見ていないが、白衣を纏っていた様な気がしたからだ。助けに来た教師だろうかと思わなくもなかったが、養護教諭が警備員より先にレスキュー紛いの行動に出るのは、余りにも可笑しい。

「どう考えても可笑しいだろうが、放っとけ。生きてりゃ出てくるだろう」
「校内の奴じゃなかったのは間違いねぇ。恐らく人間じゃねぇ」
「あ?何を言ってやがる」
「落ちてきた野郎には、匂いがなかった」

鋭さを増したダークサファイアが、静かな黒い水面を見ている。
点滅を繰り返していたルーターが光を失った瞬間だけ、視界が全て闇に包まれた。


「おーい」

然し、天井から呑気な声音が聞こえるのと同時に、目映い光に照らされて、日向と佑壱は同時に目元を手で覆う。ふよふよと、上から降りてくる余りの神々しさに、ガシッと日向に抱きついた佑壱は混乱のまま、叫んだのだ。

「な、何だ何だ?!本物の神が降臨しやがったのか?!」
「おい、痛ぇ、しがみつくな…!」
「おーい、あ、いたー。何だい何だい、裸で抱き合ってる男が見えますなー」
「おやおや、困りましたねぇ。不純同性交遊は取り締まりますよ?」
「えー、俺も捕まっちゃうのかー」
「ハニー、二人で懲罰棟のスイートルームに泊まりましょう。バスルームも完備していますよ」

ああ。
神は神でも、あれは邪神の方ではあるまいか。

←いやん(*)(#)ばかん→
[戻る]


第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
無料HPエムペ!