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【光ったのは涙か太陽か】   




誰かのすすり泣く声が聞こえた気がして、ゾロは返り血を拭う腕を止めて振り向いた。
眼前に広がるのは、視界を遮るものの方が少ない荒涼とした砂丘と、その上に点在して転がるかつては人であったものの残骸。
咽返って立ち込める錆びた臭いを洗うように巻き起こった一陣の風が、鋭くヒュンと哭きながら砂塵を交えて吹き抜け、朽ちかけた風車をぎこちなく軋ませる。
車輪が回る、その痛みを堪える子どもが小さくあげる悲鳴のような音色に、これか…、とゾロは眼を細めて風車を見上げた。


枯れ草一つない血生臭い砂地に佇む風車は、まるで殺伐として静寂な一つの墓標だ。
どれだけ血を垂れ流しても水のようにその身に全て吸い込んで、何に分け与えるでも生み出すでもなく淘汰し、蒸発させて無に返す。
そんな、生き物を生まない、育まないこの砂丘という場所にただ独り佇んで、本来の役割など殆ど果たされることもなく、望みもせぬのに自らが塵となって朽ち果てるその時まで黙して終焉ばかりを見守り続けねばならぬ生涯は、たとえ相手が感情を持たぬモノに過ぎぬと分かっていても、いや、だからこそなのか、酷く惨いものを見た心地になる。
ゾロは腐れかけた土台の、ささくれ立った表面に触れようと腕を伸ばして、ふとその頬を凍りつかせた。
眼に映った、己の掌。
指先まで染め上げるように赤黒くこびり付いた血が、関節を動かすたびに乾いてポロポロと零れ落ちていく。
手指だけではない、この全身を染め上げる血糊は全て己のものではなく、先ほど自らが斬り捨てた山を成す残骸の返り血だ。


――――触れない。この掌では何も。


自覚した途端、伸ばしていた腕が、棒切れにでも成り下がったように、身体の脇にだらりと下がった。
足元から暗くうねりながら這い登ってくるのは、思わず額を押さえて蹲りたくなるほどの壮絶な虚脱感だ。
深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
熱く膿んだ溜息のように重く排出されたそれに、肺が歪に振え、臍が小さく痙攣した。
寄港してすぐ、2,3時間ほど散歩をして来いと船を追い出されて仕方なく島を徘徊していた己の首を狙い、徒党を組んで奇襲をかけてきた輩どもを塵に変えたことに、ゾロは微塵の後悔もしていない。
野望を抱いて旅に出たその時から、殺らねば殺られる、そういう瞬間は常に存在した。
極みを目指す道の上では、理屈や理想論は無意味だ。修羅の道に、正義も悪もない。
あらゆる意味で強く巧みな者だけが生き残る。
シンプルで残酷で容赦のない、それが己の立つ世界だ。
ゾロにとって唾棄すべきは目指す場所へと君臨するあの男と再び合間見えぬまま、むざむざと散る己の姿だ。
昇りつめる、進化する、そのための激闘の最中に死するならば、己の器はそれまでのものだったのだと飲み下せるが、それ以外の場所での死など有り得ない。
許せるわけがない。……ああ、それでも。
惨いだなんてそんな綺麗ごと、よくも思えたものだ。
嗤おうとして、それすら果たせずにゾロは暗く翳った視線を地へと落とした。
屍を増やして、物言わぬ風車に要らぬ終焉を見せ付けたのは、他ならぬこの自分。
汚すだけ、奪うだけの己には、何をも憐れむ資格など初めから微塵も存在しないというのに。




陽を遮って高く頭上を旋回した鳥が、鋭く一声啼く。
再び巻き起こった風に車輪が軋んだ悲鳴を上げる合間、ゾロは砂を食む革靴の、急くでも潜めるでもなく超然と近づいてくる足音を微かに拾った。
間合いに踏み込む一歩手前で止ったそれは、何を言うでも仕掛けてくるでもなく無造作に足を投げ出してその場に腰を下ろすと、悠然とマッチを擦って一服やり始める。
きつく鼻腔に香った紫煙に、ゾロは顔を上げ、血色に濁ったその眼を凝らして風車とその向こうに広がる砂塵の彼方を見つめて、胸の中の空白に堕ちた言葉をポツリと口にした。

「……何千何億の屍の上に生まれてきた赤ん坊は、幸せになれると思うか」

問うでも答えを求めるでもなく、どこまでも静かな響きで零れたそれを澄ませた耳で聞きとめた男は、ちびた煙草を口端で噛み締めたまま、吐息だけでフッと笑って言った。

「なれるだろうさ。生れ落ちてから死ぬまで、一寸たりとも己の生き様に後悔しなけりゃな」


―――たとえばそう、あんたみたいに。


いつの間に立ち上がっていたのか、揶揄うように甘やかすように耳朶に直接注がれた男の声音に、吐息に、凪いだように鎮まっていた鼓動がドクンと大きく高鳴った。
剥き出しの腕や薄いシャツ一枚の背中が、背を抱くように立つ男の温もりを過敏に拾ってゾクリと粟立つ。
寄り添うばかりでまだ触れられてもいないのに、項から爪先まで瞬時に駆け巡った痺れに身体が蕩けて、ゾロは抗いがたく男を振り向いた。
そこかしこに転がる残骸など眼にも入らぬというように、血塗れた自分だけを臆することも不快気にするでもなくまっすぐに見据えてくる、アイスブルーの瞳。
清冽なその光に晒すには、今の己は余りにも相応しくない格好だと思うのに、その眼は逸らすことなど許さぬというように苛烈な強さでゾロの視線と心を自らへと繋ぎとめ、逃さぬというように白い手指までも伸ばしてくる。
節張った冷たい掌に頬を包まれる、そのカサつきながらも柔らかな感触に、ゾロは瞳を揺らして唇を噛み締めた。
たとえ何をどれだけ奪っても、その反対に、己の持ちうるもの全てを略奪されたとしても。
どれだけ自寸が血泥に塗れて死にかけの獣みたいに殺気を放っていようとも、こうして容易く触れてきては自分を『人』へと返してくれる、この掌を愛しく思う気持ちだけはきっと奪えない。
この掌だけは、失くせない。
縫いとめられた眼の奥が、膿んだように熱くなる。
それに気付いた男が瞳から力を抜き、穏やかに微笑って言った。

「何て顔してんのカワイコちゃん……もしかして誘ってる?でもここじゃあ駄目だ、砂で傷ついちまうといけねぇからな。可哀想だが、船まで我慢な?」
「…知るか。何の話だよ」
「ああ、拗ねんなって、俺も心苦しいの必死に堪えてんだ」
「拗ねてねぇっ」
「はいはい」

仕方ねぇなぁ、と。
そんな呟きが続けて聴こえてきそうな笑みに口元を緩めながら、男が頬から掌を離す。
あ…、と思わず名残惜しく表情を曇らせた自分に、男は柔らかくくしゃりと目尻を下げて微笑んで、再び腕を伸ばしてきた。
腰と後ろ頭を引き寄せられ、胸元深く頭を抱き締められる。
少し屈まねばならぬこの体勢は窮屈で息苦しいのに、それでも何故だろう、馴染んだ熱と匂いに包まれたその瞬間、怒涛のように沸き起こった膝から崩折れるかと思うほどの安堵に、ゾロは意識せぬままにホゥッと深く息を吐き出した。
あたたかい。振り払えない。
いつまでもこのままで居たいと刹那の想いを抱くほどに、ここは酷く心地がいい。
男の懐の匂いを鼻腔いっぱいに吸い込んで、ゾロはワイシャツの胸へ額を預けた。

「………早く、船に帰ろうな。皆、あんたの帰りをやきもきしながら待ってるよ」

懐く自分を慰撫するように髪を撫で、額へ、こめかみへ、頬へと唇を寄せながら、男が優しく囁いてくる。
寂寥も枯渇も殺伐も満たして潤して消していく、まるで慈雨のようなその口付けに。
ゾロは小さく頷いて、再び熱を覚えだした瞼を男の胸へと擦り付けた。







END




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あきゅろす。
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