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夢の終わり


 列強が一角、香坂本部の医療区画。

 病院とは大なり小なり様々な側面で区別されるものの、根本的には同じ役割を担っている。即ち怪我や病気を治し、静養して回復を図る場所だ。基本的には主人である香坂軍の兵士しか診ない、一般人の急患でもあれば別だが、こんな山奥に来る前に街にはいくらでも病院がある。

 静かで清潔、かつ安全。数百年以上も前の野戦病院ならまだしも、現代医療を取り扱う場において、これらの要素は当然揃えられるべきだと認識されている。それは軍であろうと同じことだ。私設軍の医療部隊だからといって特別な訓練を受けているわけじゃないし、軍人しか罹らない病気なんてない。求められることは普通の病院とほとんど同じだ。

 強いて言うなら、さくさく治療して前線に戻せるよう心がけること。あとは、患者の八割九割が外傷だという特徴はある。ちなみに残りの一割は、対人任務で心をやられたビギナーたちの世話だった。

 もっと軍属らしい医療者といえば、任務に同行して治療を施す戦場治癒師は生存戦争を経てかなり人口が増えた。ファストフード感覚でお手軽に傷を治せれば、負傷者を安全地帯まで送り届ける手間が省け、前線の人数を維持できる。
 兵にしてみれば、怪我をしても数時間後には無理やり治され、また戦っては傷を負う――地獄のようなサイクルだったことだろう。

 そういうわけで、戦場治癒師の存在は一時期物議を醸していた。痛みによる心に傷がどうとか、倫理的にこうとか。それらを黙らせたのは、意外にも槍玉に挙げられていた当の治癒師たちだった。
 生存戦争の相手は魔物であり、投降や捕虜という概念はない。死なないためには勝つか逃げるか、そして逃げるためには走れる体が必要だ。仮に足をやられて、命からがら地面を這って物陰に隠れたとする。最前線で控える治癒師を即座に送り込めば、きっとその兵は『一時退却』という新たな選択肢を得られるはずだ。

 香坂は生存戦争の折、戦場治癒師を積極的に投入して被害を最小限に抑えていた。五十嵐に代替わりしてからの試みだったが、その成功を経て、医療部隊は香坂にとって誇るべき集団とみなされるようになった。

 そんな集団の拠点である香坂本部の医療区画は、もはや聖域と呼ぶべき場所である。人を救うという本質では街の病院も同じだが、生存戦争を経験した兵たちにとっては言葉の重みが違った。
 生きたまま食いちぎられる苦痛から、逃れるための力を与えてくれる存在。それは神に等しく、むしろ神に祈るより現実的に助けてくれる。恵まれない子どもに同情の言葉を投げかけるより、金を与えるほうが救いになるのと同じだ。

 長々とした経緯はあれ、要は功績を称えての呼称である。それくらいに尊い空間であるはずだった。


 けれど今、この瞬間はどうだろう。



「五十嵐さんも人が悪いね。人が大人しく帰るって言ったらこれさ。嫌がらせするために生まれてきたんかな」
「…………」



 何も知らない医療スタッフが居合わせてしまったら、鏡を覗いて自分の肩に長髪の女の腕が絡みついていたような顔をして、震える足に鞭打って逃げ出すだろう。みっともなく喚いてしまいそうになるのを堪えながら。情けないとは思わない。それが正しい反射だからだ。
 声を出してはならない。森で熊と遭遇したときのように、音を立てず慎重に後退りして、刺激しないよう煙のように姿を消すのが模範解答。


 高崎と多雪が対峙する、幅数メートルの湾曲した廊下は――命の危機さえ感じるほどの、異様な空気で満ちていた。

 例えるならタール。どす黒くてどろどろして、嫌な匂いを放っていて。素手で触れてはならない類の、視覚と嗅覚から人を不快にさせる黒褐色の液体が、そのまま気化して漂っているような錯覚を催す。
 吸い込むだけでは飽き足らず、網膜から、全身の皮膚の毛穴から体の中に入り込んでくる。人をにこやかに発狂へ導く、壊滅的なまでにたちの悪いキャビンアテンダントだ。

 ……実際には、どちらかが明確に怒りを表してるわけでもないし、なんならまだ言葉すら交わしていない。多雪が一方的に呼びかけ、高崎が視界に彼を収めただけだ。


 高崎は道を塞ぐように立っていた。斬るのも潰すのもお手の物だと存在感を示す剣は、右手にしっかり握られている。堂々たる立ち姿は国を守る騎士のようではあるが、多雪に向ける目は悪意に満ちている。害虫を見る目をしていた。
 彼がここまで感情を表出するのも珍しい。

 事実、高崎は言いようのない怒りを抱えていた。初めて、否、久しぶり・・・・の感覚だ。あの夜、初めて会ったときもほのかに感じていたが、ここまではっきりとは覚えなかった。一対一で顔を合わせたのがまずかったのだろうか。

 社会に仇なす公共の敵を抹殺するのは香坂の役目。治安を守り、市民の安全な生活を保証する。公権力も多少は有しており、そのぶん慎重に動かねばならない。任務でもないのに私情で人を傷つければただの犯罪者だ。一人いるだけで香坂そのものの信頼を失墜させる。いかなる正当性も通用しない。論外だ。理解している。
 昔、結鶴もよく言っていた。作るのは難しいが壊すのは簡単。だから自分はいつも、壊すほうを朝倉おとうとに譲ってやるのだと。

 五十嵐がここまで成長させた組織も、たった一度の愚行ですべて簡単に瓦解する。加えて高崎は大将だ。常に正しさの忠実なしもべとして、正義の道を突き進めと持ち上げられる。


 しかしどうでもいい。そういうのはどうだっていい。ただ殺したい。殺さなければならない、この男は――死ね。いや、殺す。
 ともかく感情の整理や面倒ごとは後にして、今すぐこの場でこいつを殺したい。オーバーキルは趣味ではないが、この男に限っては気の済むまで粉々に刻みたい。ミンチも真っ青、海外のB級スプラッタ映画が裸足で逃げ出す無残な死体にしてやりたい。
 滑り止めのテープを何重にも巻いた大剣の柄を、怒りの波に任せて握りしめる。百を超える握力に攻め立てられ、鋼はみしみしと悲鳴を上げた。細かな振動は刀身にも伝わり、巨大な鋼の塊が全身を震え上がらせる。

 なぜこれほど負の感情に苛まれるのか、高崎は疑問を自身に投げかける。確かにこの男への印象は最悪で、朝倉を誘拐しようとした主犯格という時点で対立するのは必然だ。馴れ馴れしく朝倉の名を呼び、自分は彼にとっての特別だと吹聴する行為もうっとうしい。
 だが、実害はまだ小さいほうだ。香坂によって未然に防がれたのもあるが、見た目に反して沸点の高い高崎が、こんなに殺意を抱くような出来事は起こっていない。

 しかも、と付け加えるなら。

 高崎も怒りを表出することはある。そうするほうが事がうまく運ぶと思ったときは、わずかな苛立ちを脚色して起こっているように見せかけていた。ところが今のはそれとも違う、全力で抑え込むべき激情だ。

 高崎は耐える。出どころ不明の、まるで他人に無理やり押し付けられたような気味の悪い感情を押しこめる。


 対照的に、多雪は呑気なものだった。



「さて、君と会うのは二度目なわけだけど……」
「……アァ、」



 獣の唸り声と共に高崎は首を傾け、不意に聞くとぎょっとするほどの豪快さで首の骨を鳴らす。多雪のにやけ顔を値踏みするように眺め、大剣の切っ先をゆっくりと向けた。
 


「そのクソみてェな面……よおォく覚えてるぜ」
「不名誉なこと。……で、どう? あんたが世良といられるのは今だけだって言ったよな? だから今のうちに満たされとけ、とも言った。その後どう」
「どうも何も、離れてやる予定がないんでな。のんびりしたモンだ」
「……ふむう、難儀な男。いや、意外と奥手?」



 多雪は「参ったなあ」と苦笑しながらぼそぼそ呟き、コートのポケットに両手を入れる。



「一応、さ。あんたのために言ってやったんだけど……思ったより鈍いのかな?」
世良・・は俺が任されてんだ。あいつが深夜に入る前も、入ってからもな。お前がどういうつもりかは知らねえが、取り入る隙なんざこれっぽっちもねえさ」



 世良、と。

 多雪のマウントを軽く手で払い除け、ごく自然にその名前を口に出す。フルネーム除けば、高崎が朝倉を名前で呼ぶのは初めてだった。別にどうという理由はなく、あくまで上司と部下という関係性にふさわしい呼び方をとっていただけだ。

 しかし不思議なのは、そのたった二文字を声に出しただけで、高崎の自制心を焼き切らんばかりに暴れていた業火が瞬く間に萎んでいったことだ。魔法の呪文か何かのように、高崎の心臓を撫で、渋滞する血液を緩やかに流し、熱した頭を冷やしてくれる。


――氷属性、か。


 高崎は小さく笑うと、すっかり冴えた頭で改めて多雪と対峙した。



「そういうこった。五十嵐がどういうつもりで引き合わせたのかは知らねえが」



 間違いなく俺への嫌がらせだけど。と、多雪はこっそり悪態をつく。



「お前が世良をどうこうしたいってんなら……まず俺。そん次に深夜の連中。園崎あたりと、市井も相手するかもな。あとは九十九に結鶴……こいつはどこほっつき歩いてんのか知らねえが。そんで最後に五十嵐だ」



 多雪にとっては聞き覚えがあったりなかったり。高崎はそんな相手をよそに、つらつらと名前を挙げていった。



「全員、テメェ一人で片してみろや。そしたら誰も邪魔しねえさ」



――多分な。


 いつかの任務で出会った、高崎を殻無山に差し向けた車椅子の女性を思い出し、高崎は最後にそう付け足した。彼女は自分たちと同じ類の人間な気がしていた。



「……君がそれでいいんなら、好きにしたらいいと思うけど」



 多雪は心底、本当に困った――ように見える――顔をして、ポケットから手を出した。高崎もそれを見て剣を下げる。あのタールのようだった空気が幾分か軽くなっていた。



「うーん、今から大変だと思うけどなあ」



 多雪は視線をずらし、高崎の背中の向こうにある扉を見た。その向こうには朝倉が眠り、香坂の面々は未だ目覚めぬ彼に憂いているはずだ。
 そうなった理由を知っている・・・・・・・・・・・・・多雪も、いつ目覚めるかまではわからない。けど、もうきっと連れ出す機会はないだろうなと感じていた。
 たとえ絶対に邪魔が入らない状況でも、覚醒している朝倉に触れようものなら死に物狂いで抵抗され、舌を噛み切って死なれる可能性が充分ある。


 多雪は扉から目を逸らし、今度は立ち塞がる高崎を見た。だいぶ荒れていたように見えたが、今は冷静さを取り戻している。あわよくば一撃……と思っていたが、ここまで我を取り戻されてしまっては無謀だ。

 丸腰に見せかけて、ちゃっかり武器を持っているのにも勘付かれていたようだし。



「俺は楽しければそれでいい。だから面白くなるようにね、面白くなりそうなら、君たちに助言だってしてやるのさ」
「その分敵にも情報流してんだろが」
「ご愛嬌だよ。単純な戦闘力だけならそっちがあんまり有利だからね。向こうにも切り札くらいあげなくちゃ」



 多雪が去ったあと、きっと高崎も五十嵐から聞かされることになる。宮水の失踪。研究員や社員までもが忽然と消えていること。ついでに、『五家城譲二』の本名も。


 そのあと、どうなるか。


 何も知らないこの男は……自分が『何者か』自覚していない無責任な男は、果たしてどう、動く?
 今まで除け者にされていたくせに、今更舞台に押し上げられて。自分の知らないところで、何もかもが最悪に向かって突き進んでいたのを見て。知って。



「まあ頑張りなよ。仕事ほっぽってきてるし、俺はそろそろ帰るとしよう」



 多雪はにやけるのを堪え、先に別れの挨拶だけ言っておく。これ以上口を開けば笑い声が漏れてしまいそうだった。

 楽しみで仕方ない。ドラマでも映画でもない正真正銘の誰かの人生。その顛末を見届ける立場の、なんと心が弾むことだろう。多雪は高崎に背を向けると、静かに破顔し、人の気配のないほうへと歩いていった。



「…………」



 その背中が角を曲がり、気配すら感じなくなってから、ようやく高崎は臨戦態勢を解いた。鋼の塊を握りしめていた手を緩め、頑丈な合皮の鞘に納める。

 言うだけ言ってあっさり帰っていた赤髪の男は、まるで全てを知っているかのような物言いだった。あれだけ邪魔をして、あまつさえ無抵抗な朝倉を連れ去ろうとしておきながら、まだ自分は傍観者だと思っているのか。


 朝倉は入隊が許される下限の年齢で香坂に入っている。西来も同じだ。中学校に入る代わりに香坂に入隊し、基礎教育と予備訓練を受け、着実に頭角を表していた。
 多雪が関係しているとしたらそれ以前だ。朝倉は通学経験がないと公言しているので、小学生のときではなく、単に子どもの頃というべきか。

 彼が預けられていた家、養父母の知り合いかそのあたりか。



「くだらねえ」



 吐き捨てるように呟いた。考えてもわからないことに時間をかけるのは無駄だとばかりに舌打ちも重ね、外套を払いながら踵を返す。

 本部の防衛として残ったのは正解だった。どうも奴をここへ導いたのは五十嵐の意図のようだが、それがなければ大人しく帰っていたかどうかは怪しい。しかし奴が確実に本部から離れるまでは、五十嵐の秘書がしっかり目を光らせているだろう。


 高崎は顔を上げ、傷ひとつない扉を見やる。毎晩見舞いに来てはいるが、昼間に来るのは久しぶりだった。多雪が去った今、当面は安全だとは思う。それに、一応任務の最中ではある。……だが、顔を見るくらいなら。

 そう思い、扉に手を伸ばす。


 かたん。


 かすかに、はっきりと――物音がした・・・・・。ベッドのキャスターがわずかに動いたのか、何かが柵にぶつかったのか、ともかく音だ。
 医療スタッフがいた? なら気配があるはずだ。そもそも五十嵐が多雪をここに誘導したなら、人払いは完璧だったはず。


 まさか、と思った。

 ドアノブに触れる前に止まった自身の手を見下ろす。なぜ止めた? そう・・とは限らないだろう。多雪に気を取られているあいだに、別の敵が侵入してきた可能性だってあるだろう。

 だが、高崎は直感する。……ありえないと。

 自身の気配感知能力への信頼もあるが、それとは違う、もっと別の、安堵感とでも言うのだろうか。奇妙な予感でも降って湧いたように、確信めいた何か。



「…………」



 高崎は、中途半端な形で開いた指をぐっと握り込む。
 息を吐きながらふっと開き、今度こそ、ドアノブを掴んで――



「……あ」



 ここ数日ですっかり見慣れた風景だった。白い壁と床と天井。消毒液の匂い。壁際のソファ。電子音。丁寧に丁寧に調整された温度と湿度。裏山を一望できる窓には、今はブラインドがかかっていた。



「ッ……て、お前っ……!」



 柄にもない声が出たと思う。殻無山のときと同じだ。



「もしかして、結構、久しぶりだったりしますか」



 初めて言葉を発したような、渇いて弱々しい声だ。衰弱していたのがよくわかる。それでも気丈に力なく笑うのは、紛れもなく、彼が戻ってきた証拠だった。


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