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息の音


 殻無で穴を開けられてからむこう、朝倉は時間が止まったような奇妙な状態だった。呼吸はしているのにエネルギーが消費されない。おそらく代謝もされていない。けれど検査値は専門書の基準値を丸写ししたような数字をぺらぺらと吐き、こちらの心配や予測はことごとく無視された。

 園崎は「異常がないことが異常である」と評価し、つまり彼らが介入する余地はごく限られていることを認めている。そのわずかな余地の一つがカテーテル類の留置なのだが、それさえすべて「とりあえず」の範疇だった。

 しかし、ただモニタリングだけして放置というのも気がひける――メランコリーたちのそんな訴えのもと、ほとんど息するだけの人形だった朝倉には、定期的な整容と衣服の交換、それに他動運動が施されていた。遺体を相手にするような緊張感のさなか、なにかの儀式のようにしめやかに。

 一番初めに朝倉の体に触れるとき、満を辞して名乗りを上げたベテラン看護師の動作はぎこちなかった。けれどもそれは丁寧に慎重に介抱していた証左である。入室のノックに応える声はないとわかっていても、彼らはあくまでひとりの人間として朝倉の世話をしていたらしい。

 おかげで朝倉が目覚めたとき、身なりはきれいだった。



「んん……」



 朝倉は小さく咳き込んで高崎から視線を外し、毛布に隠れた自身の膝のあたりを見つめた。いつもはセットされている髪が今は無造作に放たれているから、うつむいた顔にさらりと前髪が落ちる。

 普段と違う香りのする一房を耳にかけながら、朝倉は物憂げに睫毛を伏せていた。生まれ持った顔立ちと雰囲気も手伝って、まるで映画のワンシーンのように映えている。叶わぬ恋を知り、ひとり静かに胸を焦がす青年の姿だ。朝倉にそんなロマンチックな思考があるかは別として、見るものにはそう感じさせる。

 ただ、なにかを思い出すようにぼんやりしているのは確かだった。これまでの事情を鑑みると少しずれた反応である。冷静すぎるのだ。あって然るべき戸惑いはどこへやら、彼は薄い唇の隙間からかすかな息を吐くと、再び高崎へ顔を向けた。



「今日、何日です……殻無から戻って、どれくらい経ちましたか」



 たどたどしくはあるが、昏睡から目覚めたばかりにしてははっきりした調子で、朝倉は扉の前から動かない高崎にそう尋ねた。

 声は少し出にくいようだが、顔色もそれほど悪くない。あっけらかんと状況の把握に努める朝倉だったが、あれだけ周りを困惑させておいて「起きました、お世話になりましてありがとうございます」では問屋が卸さない。医療部隊メランコリー憂鬱屋メランコリーらしく気を揉んでいたことを、なんなら朝倉が目覚めたことを知らず今もまだやきもきしていることを、あとでもいいが自覚するべきだ。

 高崎は朝倉の問いに答えてやろうとしたが、まずは目を覚ましたことを医療部隊に伝えるのが先決だ。朝倉の質問は一秒あれば答えられるが、それすら惜しい。高崎は次の言葉を考え、考え、そして結局は定まらないまま口を開いた。



「お前、体は……違う、園崎を……いや、また寝られたらたまったもんじゃねえ。クソ、携帯……」



 言葉をつまらせながら、高崎はポケットに大きな手をねじ込む。誰か医療スタッフを呼びたいが、朝倉が目覚めたならそばについてやらねば。

 そこで園崎に直接電話するという手段を取ろうとしたわけだが、残念ながらベストではなかった。

 普段の高崎ならすぐに最適解を叩き出し、即、行動に移しただろう。園崎の連絡先を探し始めた指を制止したのは、朝倉の小さな呼びかけだった。電子音だけの静かな部屋によく響いた。



「大将」



 透明な指がすっとナースコールを指す。壁からまっすぐコードで繋がれ、枕元にだらりと垂れ下がった細長い機械が高崎を見ていた。



「……ああ、それ、な。そうだな。それだ……」



 高崎はポケットから出しかけた携帯をばつが悪そうに引っ込めると、ベッドに近づき、朝倉の頭ごしにナースコールのボタンをぐっと押し込んだ。

 かちり。

 最強ともてはやされる上司の動揺に好奇を抱きつつ、朝倉は一連の動きを横目に追っていた。感情と表出の間に何枚もの鉄板と絶縁体を仕込んでいる高崎が、こうもわかりやすく戸惑っているのが珍しくて、つい。もしそれが自分のせいならちょっとした優越感だ。

 けれど少し申し訳なさもある。どれだけ眠っていたかわからないが、入ってきたときの高崎の様子からして一晩やそこらではすまないだろうから。


 どうしましたか、と若い男の声がして、二人は同時に顔を上げた。朝倉の頭上の壁、突出した中央配管のインプットの並びに、よく見るとスピーカーらしき細かな穴が開いていて、そこからだった。
 この病室のことは伝わっているのか、声から緊張した表情がありありと浮かぶ。しかし隠そうとする気丈さがあった。第三者の存在をうけて冷静さを取り返した高崎は、コールを握ったまま、



「深夜の高崎だ。園崎か芹沢はいるか。いなけりゃとりあえず誰でもいい、よこしてくれ」
『園崎は診察中です。芹沢は……ええと、芹沢も……どうかされましたか』
「朝倉が起きた」
『すぐに呼び戻します。なにかあればすぐコールしていいので、とにかく目を離さないようにしてください』



 第一声の頼りなさは一転、思いのほか話のわかるメランコリーだった。高崎が返事をする前に通話は切れ、意識は再び静かな部屋に帰る。体中の力が抜けた感覚に襲われ、高崎はコールをベッドの端に投げ出した。柵にぶつかってからんと音を立て、朝倉の耳の横に転がる。



「…………」
「…………」



 沈黙をおき、高崎は今になってようやく、病室に似つかわしくない大剣を壁に立てかけた。本来は武器の持ち込みは制限されているのだが、今回は五十嵐の計らいもあり、特例として認められていたのだ。
 まるで時間稼ぎのようにまったりと戻ってきた高崎は、先ほどの立ち位置で一度静止するも、今度は朝倉の横たわるベッドの端に静かに腰かけた。いつもどかりと大胆に座るくせに、今日はいやに慎重だ。あからさまに気を使われると、かえって落ち着かない。

 ましてや、あの高崎が。朝倉は手の届く位置にある広い背中をちらと見た。懐かしい気がするのは、それだけ長く目にしていなかったからだろうか。今日このときまで、朝倉は夢の一つも見ていない。体感では、ただ眠って起きただけの気分だった。

 またしても、そしてしつこくもやってくる会話のない時間。時計さえない空間には、朝倉の心拍を刻む電子音だけが鳴っていた。病室にこの音はつきもので、森に木があるのと同じ、風景のようなものだ。「静かな病室」なるもののなかで、唯一、存在を許されている。なんとなく聞いていると、正しく時を刻んでいるように思えなくもないが――実際は、秒針より少し走りぎみに流れていた。

 気の利いた話題のひとつやふたつ挙げてみてもいいのだが、理性はそんな場合じゃないとかぶりを振っている。朝倉も高崎も、互いに聞きたいことは山ほどあるのだ。
 共通するのは「あのときなにがどうなって、こんなことになったのか」という漠然とした、けれどすべての真相を網羅できる魔法の問いかけ。もっと具体的にというなら、朝倉があんな有様・・・・・になった経緯を。

 片や昏睡から目覚めた部下を前にして、片や盤石の精神を持つ男の動揺を目の当たりにした罪悪感と気まずらさから、口の聞き方を忘れたふたり。先に切り口を見つけた……というかこじつけたのは朝倉のほうだった。



「大将」
「……なんだ」



 ぶっきらぼうな返事だ。朝倉は、いつものことだと気にせず続ける。



「さっきの、答えてください。殻無の任務からどれくらい経ちましたか」



 高崎は背を向けたまま、今度は少しいらだち混じりに声のボリュームを上げた。



「モノ聞きてえのはこっちのほうだ。お前、あんときのこと覚えてねえのか」
「あのときって、……殻無山ですか」
「それ以外になにがあるってんだ、クソ。一人で突っ走りやがって、このクソガキ……俺が見つけたとき、お前……」
「……覚えてないです」
「…………」
「狼がいたんです。あ、っと……結界のこと聞いてますか」
「…………」
「それに絡んでるやつだと、思います。市井さんもそう言ってたような。……そいつが逃げようとしたので、追いかけて……山を登ったのは覚えてます。開けたところに出て、そのあとは……」



 言葉の途中、朝倉はこめかみを指で押さえた。皮と骨を隔てた奥にある脳のひだを刺激するように。



「このあたりが、痛いというか、熱かったのはよく覚えてるんです、けど……」



 木に縫い付けられた朝倉の体は宙に浮いており、自分の胸に巨大な杭を突き刺すという残酷な行為も付随して、とてもひとりでなせるものではない。

 真っ先に疑うべきはもちろんあの狼だが、問題は、朝倉ほどの深夜兵がという点だ。狼一匹に油断する男では決してない。朝倉が覚えていないなら狼を捕らえるしかないが、指名手配犯の捜索とはわけが違う。交通機関も使わない、買い物もしない、そもそも街に現れないだろう。いや、そもそも口がきけるのか? 話によると、人語を解する素振りはあったようだが。



「……わかった。今はいい。寝てろ」



 扉のほうを向いて座ったまま、高崎は腕だけを捻って朝倉の肩を押し倒した。病衣を纏った体が再びベッドに沈む。いざ目覚めて話が聞けると思えば、当人は記憶がないという――それに呆れたのではなく、彼なりの気遣いなのだと、朝倉は不思議と確信できた。

……布団へ突き倒す手が、優しかったからだろうか。


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