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冷えて乾いた空気


 逃げ隠れするなら、適当な後釜を据えて一人で蒸発すればいい。組織のトップが有望な若者に道を譲って隠居なんてよくある話だ。宮水ほどの企業であれば多少騒がれるだろうが、半数以上の社員を連れて忽然と消えるよりはるかに探られにくい。

 大勢を伴ってこそこそ移動した理由は……宮水の研究を考えれば予想はつく。

 研究を続けるのに必要なのは、計画発足から関わっている古株の研究者と資本、それに何よりも材料。前二つは材料があってこそ価値を持つ。タイヤとガソリンのない車は、どれほどの高級車でもスクラップ同然だ。
 しかも彼らの研究は極めて特異的な未開の分野で、手探りで進むほかに道はない。他の多くの研究では先人たちが築き上げた道標があり、論文や著書から大いにヒントを得ることができる。それを一から……ゼロから切り開こうとすると、他方もない労力を要する。あらゆるパターンを突き詰めて法則を確立させるために、細かく条件を設定しだせばキリがない。

 そして宮水の研究において材料とはすなわち人体、それも生きた人間だ。入手が規制され、購入や管理に資格が必要な劇薬とは次元が違う。そもそもこの国はあまりに豊かで、人体の供給が少なすぎる。流通経路は糸のように細々としたものばかりで、この瞬間切れてもおかしくない。
 金を求める人間は確実に一定数存在するが、身体ではなく命を売り払うのだから、身売りするのともまた訳が違う。『守るもの』が自分自身を含めてなくなってからようやく参画できる、自害の手段の一つとして捉えるくらいでないと。

 けれどやはりというか、「魔物になりたい方を募集します」とは裏仕事の仲介場でもそうそう切り出せない。悪目立ちしすぎる。汚れ仕事のたまり場は列強もあえて泳がせている節があり、いざというときに利用したり、アンダーグラウンドに根を張る巨悪の尻尾を掴むのに兵を潜り込ませている。リターンを上回るリスクが伴う賭けなんて、気を向ける時間さえ無駄だ。もちろん国軍も目を光らせてはいるらしいが――今となっては揉み消されるのが落ちどころだと確信できる。

 正味の話、宮水が外部向けのセミナーや新薬の説明会を謳えば、ネームバリューに惹かれて勝手に人は集まる。ところが、それでは『材料』を獲得し保存するには至らないのだ。外からの客は長期の拘束が効かない。下手に理由をつけて長く滞在させようとすると、不審がられる可能性は高いだろう。宮水としては魔物化さえさせてしまえばいいのだが、果たしてその処理にどれだけの時間がかかるのか。もたついている間に勘のいい輩が逃走を企てるかもしれないし、そこからマスコミに情報が流れて探りが入ると、宮水といえども簡単に火消しはできない。

 行方知らずになっても誰も気にしないような哀れで孤独な人間を選び出し、真実を隠して宮水に雇い入れるのが安全牌。それが難しい以上、身内を犠牲にするのが最も早く安全で簡単だったのだ。


 人間は方法次第で魔物になる――事実がそう示しているのだから受け入れざるを得ないだけで、否定できるなら否定したい。人間ほど発達した脳がいかにして退化し、五体の使い方を忘れ、本能のままに動く獣に成り果ててゆくのか。その具体的な過程はまだ謎に包まれている。本條の村、そして殻無の研究所で起こったことを踏まえると、魔物化の処理を行ったあと、異形の姿になるには何らかのトリガーがあるのは間違いないのだが。

 それは恐らく死なのだが――どうあれ、条件さえ満たせば人を魔物に変えることができる。消えた社員たちの無事は期待しないほうがいいだろう。しかし、すでに潜伏先を用意していたことには少し驚かされる。遅かれ早かれ列強に目をつけられることは想定していたにせよ、さすがの周到さだ。



「さぁてどうする? 悠長に構えてる暇はないぜ。あいつの計画は着実に進んでる」



 ソファを鳴らし、わくわくと声を弾ませて多雪は言った。



「それとな、俺も今日はこんなだけど、世良のことは諦めちゃいない」
「…………」
家族・・・だからね」
「吠えるのは自由だけども」
「うん? うん」



 ここへ来て、五十嵐はふと表情を変えた。

 生き生きと独占欲を謳いあげていた多雪は、相手の声色が変わったのを感じて視線を向ける。しかしそこにあったのは多雪が期待したような苦渋の顔ではなく、仕様のない子どもを見て肩を竦めるときにするような苦笑だった。口元を隠す指の先から、口角がかすかに上がっているのが見える。



「事実を述べると、君は世良・・の兄ではないな。血が繋がっているのは結鶴だし、今は日頃から面倒を見ている高崎のほうがよっぽど兄らしい」
「兄があんな目で弟を……」



 見るかよ。

 五十嵐の言動を煽りと捉えた多雪はすぐさま反論しかけたが、続きを声にする前に自らの言葉を途中で制した。



「……お?」



 唇の間に数ミリの隙間を設けたまま、言おうとしていた台詞を脳裏で復唱する。



「あ? ……あー……あ?」



 兄があんな目で弟を見るわけがない――黒目は何かを探すように上を向いてさまよった。それがぐるりと360度を舐め、また上で止まる。
 冬の乾燥した空気でやや乾いた口の端に舌を這わせ、やがて口から零れたのは、



「……あちゃ、ブーメランか」



 言葉とは裏腹の満足げな嘆息だった。うんうんとしきりに頷きながら腕を組み、やがて顔を上げると、ちっとも困っていない様子で眉を下げる。首を傾けた拍子に顔に降り注いだ髪を払い除けながら、喉の奥を震わせるように笑った。



「弟に過度の愛情を向けるのは変態的だ。でもそういえば、考えてみれば俺もそうだった」
「残念だけど全く違うね。わかっていて言うのは君の悪い癖だ」



 愛だとほざきながら厭らしい肉欲を向ける多雪と、本心はわからないが真っ向から向き合う高崎。これらを同一視するなんて馬鹿馬鹿しいと、五十嵐はすかさず否定した。無視して受け流す場面だったのかもしれないが、あの二人の関係を多雪に語られるのは気分が悪い。
 


「あの両親から、どうして君みたいなのが生まれたんだろうね」
「顔は似てるでしょ」
「どうだか」



 一際強い冬の風が窓を叩き、硝子が寒さに震えた。木枠と触れ合うびりびりとした振動が伝わってくる。そんな窓を背にした五十嵐は、組んだ指をそのままに机から肘を離し、膝の上にそっと乗せる。体を背もたれに預けると、多雪を小馬鹿にするように顎を突き出して鼻で笑った。喧嘩を売る若者のような。いつもどっしり構える彼らしからぬ仕草だ。

 親の話をすると多雪の気に障る。だから五十嵐はこういう言い回しをした。こいつは芝居の上手い男だが、昔からこれだけはよく効く。
 多雪は朗らかにジョークを返し、明るく笑うばかりだった――こめかみに、ミミズのように這う太い血管をうねらせて。それを右手の人差し指と中指で撫で回し無理やり治めながら、親に似た顔貌を変えようとでもいうのか、目尻を上げたり下げたり色々試している。


 五十嵐は彼の母親を知っているが、正直なところ、確かに面影はあった。多雪とは違い、普段は気品漂う清楚な女性。しかし切れ長の目はやや鋭く、深夜兵とさえ渡り合えるであろう強さゆえに喧嘩っ早いところもある。気に入らない人間は、育ちの良さを感じさせる丁寧な語調でしこたま貶す。

 そういうところを多雪が継いでいるのだ。性格は遺伝子が一枚噛んでいるという説もある。二人のどちらも知る他人である五十嵐が客観的に見ると、彼女には申し訳ないが、両者は紛れもなく親子だった。



「まあ似たくもないんだけど。じゃあ今度は俺の番。……ババアが一枚噛んでるのはもう知ってる。そこで聞くが、あいつは香坂にいるのか、どうか」



 一方的な情報提供の見返りに多雪が求めたのは、ごくシンプルな問いかけだった。探るような視線を向けられた五十嵐は瞬きをひとつしただけで、身じろぎひとつせずに返答をする。



「イエスだ」



 香坂に介入した時点で、聡明な彼女がこの状況を――息子が口封じにくることを想定していないはずがない。
 本條村の一件で中日向宛の手紙をホテルのフロントに預けたとき、彼女は迂闊にもホテルマンと直接話している。記憶に残りやすいよう、車椅子という大きな特徴もそのままに。そして殻無山でも、高崎の前にはっきりと姿を現し言葉を交わしている。
 つまり、彼女の存在を隠し立てる必要はない。本当に悟られたくないなら、いくらでもやりようはある。



「…………」



 短く紡がれた回答を咀嚼するような時間が過ぎる。多雪は五十嵐を睨みつけるわけでもなく、ただ目を閉じていた。相変わらずこめかみをほぐす指がなければ、眠っているようにすら見える。

 そんな沈黙の時間が、ふとした拍子に終わる。



「……あの引きこもりがわざわざ自分で、ねえ」
「…………」
「ってえことは。よっぽどヤバイってわけだ」



 多雪は閉眼したまま寝言のように呟いたかと思うと、



「……さて、言うこと言ったしかーえろ」



 多雪には本来、小澄の宮水軍拠点を大ヰ町と共に守る役目があった。けれど守ったところであそこには研究がらみのものは何もないし、香坂もそれを承知で突入したはずだ。香坂本部に侵入した二人の存在を確認できれば宮水を確実に黒塗りできただろうし、運良く拘束できれば御の字といったところか。
 置いてきた大ヰ町は、今頃香坂と交戦中か。黙って出てきたので、帰ったら嫌味の一つでも垂れてきそうだ。突入した中に腕の立つ奴がいれば、まあいいと流してくれるはず。仮にうるさく言われたところで、端金と女をちらつかせれば大抵は目を瞑ってくれる。


 多雪はようやく頭部の血管も沈めると、節くれ立った指をそっと離し、興がそがれたとでも言わんばかりのため息を吐いて立ち上がった。厚底のブーツが絨毯ごしの大理石を叩き、重苦しい音がした。



「んじゃ、そういうことで。ついでに世良を連れて行きたいところだけど、今日はまっすぐ帰るとするよ。あんたらがどう動くか楽しみにしてるぜ」



 五十嵐が何か言う前に、多雪は滑るような動きで扉を押し、自身を追い立てるような重い空気の部屋から早々に退場した。腕時計に目を落とすと、実際に部屋にいたのは学生の休み時間より短かったことがわかる。

 その背後で、重厚な扉がゆっくりと閉まった。



「…………」



 案内小唄は……現れない。


 自慢ではないが、五十嵐にはこれっぽっちも信用されていない。取引としてもたらす情報は別として、多雪個人は存在そのものさえ疑ってかかられるような人間だ。五十嵐は特に警戒がつよい。
 そんな多雪が「大人しく帰る」と宣言したところで、あの狡猾な男が、こうも簡単に放り出すだろうか。それも自分の懐に、見張りもつけずに一人で。

 多雪はぐるりと廊下を見渡し、次いで周囲の気配を探る。……まさかとは思ったが、小唄が盗み見ている様子もなかった。



「……なるほど、なるほど」



 五十嵐の意図を知り、多雪は乾いた笑いを吐き出す。



「仕方ねえなあ」



 まあ、元よりに手ぶらで帰るつもりはなかったが。
 








 列強の本部としては、あまりに人がいなかった。けれど無人というほどではなく、探れば人の気配はする。それが案内の代わりだった。気配のないほうへと進めば、自然と目的地にたどり着く。

 とある扉を潜り抜けたのを境に、廊下には手すりがつき、明らかに空気が暖かくなった。等間隔で並んだ扉の横の壁には、使い捨てのエプロンや手袋の箱、それにアルコールなんてものが並んでいる。自然な静けさの中には、ごくわずかな機械音が溶け込んでいた。

 こんなに薬品臭い廊下を歩くのは二度目だ。ただし、前ほど気分は高まっていない。それでもなお軽い足取りで、緩くカーブした廊下を歩き――


 やがて、その姿が目に入った。


 いや、目に入れようとしなくても勝手に視界に飛び込んでくる。よそ見をしていても、そういう呪いがかかった絵画か何かのように目を引く存在感。神か、はたまた竜か。世界を支配する側の何かに寵愛を受けて生まれて来たのであろう、これ以上ない特異的な人間。

 それはある扉の手前に立ち、腕を組んで壁にもたれかかっていた。とても日本人とは思えない、そもそも海外ですら滅多に見ないような巨体。黒みがかった橙の短髪が鮮やかに浮かんでいた。
 その傍らには、身の丈ほどもある漆黒の大剣が。瞳を持ち、こちらを睨みつけるように鈍く光っていた。



「やあ」



 多雪が片手を挙げて気さくに声をかけると、その大男はすっと壁から背中を離す。
 空調では隠しきれない、どす黒い風のような何かが漂う中。磨き抜かれた金色こんじきの瞳が、光の軌道を描きながらこちらを見た。


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