龍の宝珠 十一 聡影が目を丸くした。 「それは…」 「阿周さまがお持ちだった短剣の、鞘の飾りなんです。落ちてしまったみたいで…」 「……」 聡影は、しばらく水晶をじっと見つめていたが、やがてなぜか、とても満足そうにほほ笑んだのだ。 「聡影さま?」 「いや。そうか…おまえが持っていたのか」 「えっ?」 「ああ、実は趙修令からその短剣の話は聞いたことがあったんだ。阿周に持たせていた短剣の鞘の飾りがないとね。どこを探しても見つからなくて、不思議なことだと」 「そうでしたか」 趙修令は、聡影には話していたのだ。 なるほど、普段から聡影に目をかけているだけある。 そんなことまで話しているのだ。 それならばやはり、見せてよかった。 「ああでは、これは趙修令さまにお話ししたほうがよいのでしょうか…」 「いや、それには及ばない。短剣は阿周に持たせたと趙修令は言っていたし。そのままおまえが持っていなさい」 聡影は摘花の手をそっとつかむと、摘花の手で水晶を握らせた。 「そのほうがきっと阿周も喜ぶだろう」 阿周に持たせたというのは、つまりは墓に収めたということだろう。 そう摘花は理解した。 聡影は、自分の両手で摘花の手をしっかり包み込むようにしたあと、手を離し、今度こそ立ち上がった。 「久しぶりによいものを見た気がする」 「そうですか?」 「大切に持っていてくれて、阿周はきっとうれしく思っているだろう」 聡影の言葉は、まるで阿周本人が言っているように思えた。 それはやはり、聡影が阿周に似ているからだと摘花は思った。 見た目も中身も。 「あの…」 話しかけると、すぐに耳を傾けてくれるのも阿周と同じだった。 「ん?」 「聡影さまは、阿周さまになんとなく似ていらっしゃるんです。あ、そうではなく、阿周さまは聡影さまに似ているような気がするんです。もしも生きていらしたら、きっと聡影さまのようだったと思うんです。とてもご立派な方におなりだと」 そう言っても、聡影は気分を害した様子などなかった。 ただ、ほほ笑んだだけだった。 「おやすみ」 そう言って、最後に摘花の頭をなでた。 それは昔、阿周が時々したしぐさだった。 聡影に握ってもらった手を、摘花はしばらくそのままあけなかった しばらくずっと、水晶を握っていた。 それでもやがて手のひらを広げたとき、水晶はいつもよりも輝いているような気がした。 その翌日のこと。 皇后が、皇帝に呼ばれて皇帝の住まう建物に行くことになり、摘花もそれについていった。 皇后が皇帝と会っている間、摘花は別室でおとなしく待っていた。 大きな建物の隅にある小さな部屋には、今は他に誰もいない。 窓の外の廻廊を、幾人もの人間が行き交う。 忙しそうに歩き去る足音が絶え間なく聞こえてくる。 摘花は窓を開け、そんな様子を眺めていた。 本当なら少し外を出歩いて周囲の様子を見てみたいところであったが、昨日の今日なのでおとなしくしていようと固く心に誓っていた。 するとやがて、光賢の声が聞こえてきたのだ。 誰かと話をしている。 「父上は?」 「今は皇后様とお話中でございます」 「そうか、じゃあ出直すとするか。ああ、急ぎの用ではないから声はかけなくていい、また来るから」 「さようでございますか?」 そんな話だったこともあり、摘花は思わず窓から顔をのぞかせて声をかけていた。 「光賢さま」 光賢はすぐに摘花に気付いた。 「ああ摘花。ああ、皇后様に付き添ってきたのか」 「はい。あ、申し訳ございません、こんなところからお声をお掛けして」 「いや、それはいいが……」 と、そこで急に光賢は笑い出した。 「兄上の言ったとおりということか」 「聡影さまが?」 「考えるより先に体が動いているような子だと言っていた」 「……」 確かに。 光賢はそれから摘花に、その部屋に誰かいるのかと尋ねた。 摘花が、今は自分だけだと答えると、じゃあと光賢は部屋の中に入ってきた。 そして、部屋の中にいくつかある椅子に腰を下ろした。 「ゆうべはあれからどうなさいましたか?」 「いやあ、兄上に言われたように仕方ないから母上のところにうかがったら、まあ荒れていてひどいのなんの。おまえに言われたことがよほど腹に据えかねていたらしい」 と言って豪快に笑った。 「はいはいと聞き流して早々に逃げてきた。それから兄上のところに泊まらせていただいたんだ」 今も、兄のところから来たという。 「兄上にはいま、来客があって。その後で皇后様のところに顔を出すとおっしゃっていた」 「そうですか。ではちょうど皇后様もお戻りかもしれません」 「ご気分はどんな具合だ?」 「今日は朝からだいぶお健やかなようにお見受けしました。お顔が晴れ晴れとなさっていて」 「それはやはり、おまえが昨日見事に母上を追い払ったから」 光賢は笑った。 「はあ…。でもあの、光賢さまはそうおっしゃってくださいますが、やはりお母様に対して大変に失礼なことでございました。申し訳ございませんでした」 「謝る必要はない。本当にいいんだ、気にしないでほしい。母上もねえ」 光賢は、頬杖をつくとため息もついた。 「そもそも、私は世継ぎなどになりたくはないんだ。兄上の大変さを見るにつけ、情けないことだがそう思う。ああいう重責のかかる立場は、兄上のような方でないとつとまらない。人には向き不向きがあるんだ」 「光賢さまもとてもご立派です。ゆうべ、お話をうかがっていてそう思いました」 光賢は、ありがとうと笑う。 だがすぐにまたため息をついた。 「もしも兄上がいらっしゃらなかったらと思うとぞっとする。自分が世継ぎなんてなったら耐えられるかどうか。いまさらのことだが、ご病弱な体質から脱することがお出来になってよかった。私も聞いた話でしかないが、一時は生死の境をさまよわれたほどだそうだから」 摘花はうなずく。 だが、聡影をよく見ている現在、そんなに病弱だったとはにわかには信じがたいほどだ。 「今の聡影さまはお健やかそのものでございますのに。そんなにお悪いときがあったのですね」 「今の兄上からは信じられないよな」 光賢もうなずいた。 「小さい頃はほとんど寝たきりの状態だったとも聞くし。……だから母上は、兄上が入れ替わったなどと言うんだ」 光賢は吐き捨てるように言った。 「くだらない戯言だ。母上が言うには、生死の境をさまよったときに、本当は死んでしまったはずだと。それを偽るために、趙修令の手を借りてどこからか同じ年頃の代わりの男子を連れてきたのだと。そう考えれば、兄上が急に元気になったことも説明がつくとな」 まあ確かに、その話を聞いただけでは筋が通っているように思える。 だがそこで光賢は、やや困惑したように、声をひそめて続けたのだ。 「しかし…こう思う自分が情けないが、当時を思い出すと、確かにちょっとお元気になりすぎていたような気がしないわけではないんだ。私が初めて会ったときの兄上はお顔の色もよくお元気そうで、体力も十分にあった。私とともに庭を走り回って遊んでいたし、とても元病人には見えなかった。 もっとも、それだけよく効く薬に出会えただけなのだろう。私が不勉強でそういう薬の存在にいまだ出会わないだけで、世間にはそういう薬もあるのだろう」 そう言いながらも、光賢はかすかに納得のいかない表情をしている。 「何しろ私は、兄上がお元気になる前のお顔を知らないんだ。これは私だけではない。もともとご病弱だった頃の兄上は、ごく限られた者としか接していなかったそうなんだ。 そしてお元気になったと同時に、彼彼女らはみな辞めてしまったそうなんだ」 なるほど、だから班夫人は、入れ替わったと言うのだ。 病弱な聡影は亡くなり、どこからか元気な別人を連れてきたというのだ。 顔はほとんど知られていなかったし、知っている者はきっと辞めさせたとでも言うのだ。 それはたまたまだろうに。 そうでなければ、健康を取り戻した結果、それまでかかっていた人手が不要になっただけかもしれないのに。 「皇后様は、昔は大変に気性の激しい方だったと聞く。それが今のようになったのは、ちょうど兄上がお元気になられたときだそうだ。それも母上が言うには、実子が亡くなってなんとか別の子と入れ替えたものの、今度は事実が明るみに出るのを恐れて常におびえるようになったからだと。まあ、全部あの人のこじつけだ」 そう言いながら、光賢の視線は落ち着かない。 「“あれ”が欠けているともいつも騒いでいて、母上に言わせるとそれも本人ではない証拠になるし。その話は聞いているか?」 摘花はうなずいた。 「皇子の方々が陛下から賜る物に、不備があるとか」 「そう。それだって、父上も先刻ご承知なのに。だが母上は、本物は『本物の聡影』が持っていてともに埋葬してしまったため、今の兄上のものは急遽新しく作らせたというんだ。だから欠けが生じてしまっていると」 光賢はそう言うと、黙りこくってしまった。 不安そうに瞳がかげる。 [*前へ][次へ#] [戻る] |