龍の宝珠
十
「い、いいえ、あの、こちらこそ、大変失礼なことを申し上げてしまって…」
しどろもどろになった摘花に聡影は笑うと、そのまま摘花を連れて母后のもとに向かった。
光賢もついて来る。
皇后の部屋に入ると、皇后もまた光賢を見て笑った。
「光賢まで。こんな時間にどうしたの?」
皇后の穏やかな様子に、皇后は光賢のことを悪いようには思っていないことが摘花にもすぐにわかった。
「こんな時間にかえって失礼とは存じましたが、謝罪に上がりました。母上が、また失礼なことを申し述べたそうで。不愉快な思いをさせてしまってまことに申し訳ございませんでした」
光賢は、深々と頭を下げた。
この皇子は、母親の行為を謝りにやってきたのだ。
「いいのよ、あなたは気にしないでちょうだい」
きょとんとしている摘花に、聡影が説明してくれた。
「あれから光賢がやってきてね。どうしても今日中に謝りたいと言うので、それで連れてきたんだ。こんな時間だったが、光賢は普段からよくここへ来ているから」
「そうなんですか…」
皇后は、せっかく来たんだから二人ともここで夕食を食べて行きなさいと言う。
それに二人とも応じ、三人はそろって夕食をとった。
摘花もその場に控えることを許され、三人の様子を眺めていたのだが、とてもなごやかな雰囲気で、この三人の間には何の問題もないことが改めてわかった。
そして、聡影と光賢はとても気が合っていることも。
聡影は弟をかわいがり、光賢は兄を慕っているのがよくわかる。
「この子たちは小さい頃から仲がよいのよ」
と、皇后も教えてくれた。
それはとてもよいことだが、当の光賢がこれで班夫人はいいのだろうか?
いや、よくはないだろう。
母親の行為を、光賢はすべて知った上で謝罪に来たのだ。
ということは、光賢は母親の行為を否定しているのだ。
息子を世継ぎにしたいという夫人の思いを。
これでは夫人もおもしろくはないだろう。
でも、そういうことであれば、いくら夫人が騒いでも、騒ぐだけ無駄なのだった。
光賢自身が、兄に取って代わろうなどと夢にも思っていないのだろうから。
それは、その後の光賢の言葉からもよくわかった。
皇后は、食事を終えるとやがてもう休むからと言って兄弟を置いて出て行った。
「今夜は楽しかったわ。あなたたちは、せっかくだからここで好きなだけお話ししてなさいな」
そう言って、皇后は摘花も置いて部屋を出て行った。
それを見送った後、光賢が摘花に話しかけたのだ。
「おまえが母上を撃退したところを、私も見てみたかったよ」
「えっ?」
「宮中ではもう隅々まで噂が広まっている。一介の侍女が、班夫人をやり込めたとな。私としてももう拍手喝采だ」
「……」
摘花はどう返答してよいのかわからず思わず聡影を見やると、聡影は苦笑していた。
「いいんだ、光賢は昔からこうなんだ」
「はあ…」
光賢はさらに、
「皇后様も兄上もお優しすぎるんです。だから母上が図に乗るんです。もっときつく言ってやってください」
とも言う。
そして、
「まあもっとも、言って聞くような母上ではないのですが」
と言って困ったようにため息をついた。
「困ったお人です。ですが、この子がいれば大丈夫ですね。あの母上を退散させることが出来たなんて」
どうやら、光賢も母親の行動には相当うんざりしているようだった。
「光賢は、昔から母親に振り回されてきたから」
「幼い頃は、兄上と遊ぶなと言われましたよね。それでも遊びに行ってしまうわけですが」
「遊ぶ…そんなにお小さい頃から仲がおよろしかったのですか?」
摘花がどちらにともつかず尋ねると、光賢が教えてくれた。
「兄上が十歳くらいの頃からかな。それまで兄上は病弱で建物の外に出るようなことさえなくて、私は一度も会ったことがなかったから。何かの拍子に、兄上に合う薬が見つかってお元気になりつつあると聞いて、会えるなら会ってみたいと父上に頼み込んだんだ。それ以来だ」
聡影はほほ笑んでうなずく。
光賢は現在、都の街に屋敷を構えているそうだったが、昔は母親と一緒に暮らしていて、会うなと言う母親の目を盗んでは、やはり皇后とともに暮らしていた兄のもとを訪れていたそうだった。
「昔から母上は、兄上についてなんやかやと文句を言っては世継ぎはおまえだと言っていて。うっとうしいことこの上ない。だからさっさと屋敷を構えて母上のもとを離れたんだ」
その話から、班夫人は昔から聡影を目の敵にしていたことがよくわかった。
聡影が長子で光賢が次子なのだから、もしも長子さえ失脚させることができたら世継ぎは次子である光賢になるはずだからだった。
二人は、それからもずっと親しそうに話をしていた。
時には楽しそうに、時には真面目に議論を交わしていた。
二人は時々、一緒に遠乗りに行ったり狩りに行ったりしているそうで、その話を楽しそうに摘花にも聞かせてくれる。
かと思えば、国内の政治や経済の状況を真剣に話し合ったりする。
最近皇帝が制定した新しい法の不備について論じ始めたとき、摘花がはらはらするほど議論は白熱した。
ところが、やがて宦官が一人やってくると、光賢に声をかけたのだ。
「光賢さま。班夫人が、すぐにいらっしゃるようにとのことでございます」
すると光賢は、心底嫌そうに顔をしかめた。
「行かない。どこにもいなかったと言え」
だが、それを制したのは聡影だった。
「光賢、気持ちはわかるが一旦顔を出してこい。いないと聞いてもそれならば探させるだけだ。夫人はおまえをつかまえるまであきらめないだろうから」
「……それはそうでしょうが」
「周囲の人間が無駄に振り回されるだけだ。私もそろそろ戻るから、おまえも早々に辞してそのまま私の部屋に来るといい。今夜はそのまま私のところに泊まればいいだろう」
「兄上がそうおっしゃるなら……」
兄に言われ、しぶしぶ光賢は席を立った。
そして、摘花にも声をかけ、重い足取りで部屋を出て行った。
「光賢さまは、そんなにお母様のことを…」
見送った摘花が聡影に尋ねると、聡影はうなずいた。
「嫌っている。昔からね。実の母親がああでは光賢も大変だ」
光賢が出て行った扉を、摘花はもう一度見やった。
すると聡影も、席を立ったのだ。
「では私ももう戻る」
「えっ?」
思わず摘花はそう言ってしまったが、先程聡影はそう言ったのだし、話し相手だった光賢も出て行ったことだし、もうここにいる必要はないのだった。
すぐそれに気付いた摘花は、慌てて「そうですか」と言った。
だがその摘花の様子を見た聡影は、小さく笑うと元のように腰を下ろしなおしたのだ。
「じゃあもう少し」
「い、いいえ、あの…」
まるでこれでは自分が引き止めたも同然だ。
いや確かに、もう少しここにいてほしいと思うのだけれど、自分はそんなことを言えるような立場ではない。
摘花はさらに慌てた。
本当に自分は、後先考えずに言葉を発してしまう。
「申し訳ありません…」
謝った摘花に、聡影は笑いながら口を開いた。
「いや。そう、こちらこそおまえに謝らねばならなかった」
「何をでございますか?」
「昼間は悪かった。急に戻ってしまって…あれから趙修令に言われた、おまえが気にしていると」
そのことか、と摘花は首を振った。
「いいえ、平気です。わたしのほうこそ、お気に召さない話をお聞かせしてしまいまして…」
「いや、そうではないんだ。ただ、驚いてしまって」
聡影は目を伏せながらほほ笑んだ。
「おまえが阿周のことを…趙修令の息子のことを、いまだに心に留めているなんて。……十年もたったのに」
「……『また明日』と言ったんです。阿周さまは。それなのに、その明日は二度と来なくて」
摘花もまたうつむいた。
「そのことが忘れられないんです。阿周さまは約束をたがえたことは一度もなかったのに。
いえ、亡くなってしまったのですから、仕方のないことです。それはわかっています。でも…」
「……きっとその阿周のほうも、驚いたことだろう。『また明日』と言ったということは、彼は翌日にまたおまえと会うつもりだったのだろうに、それが不慮の出来事で会えなくなってしまって。……彼自身きっと、心苦しかっただろう」
「心苦しい……」
言われてみればそうだと思えた。
約束はいつもしっかり守ってくれた阿周。
阿周のほうこそ、きっと約束を守れなくて心苦しかったろう。
だから自分がいつまでもこういうことを言っていると、阿周はきっと悲しむだろう。
そう思えた摘花はほほ笑んだ。
「そうでございますね。阿周さまを、あまり責めてはいけませんね。心苦しいのは阿周さまのほうなんですから」
摘花の言葉に、聡影もほほ笑んだ。
だがそこでふと真顔になると、摘花から目をそらした。
「聡影さま?」
「……おまえに一つ頼みがあるのだが」
「はい?」
「おまえが持っているその阿周の形見。それを、見せてはもらえないだろうか」
「あ、あれは…」
摘花は一瞬とまどった。
いくら聡影の頼みとはいえ、阿周との約束がある。
だが、仮にも皇子に頼まれて、断ってよいものだろうか。
それを阿周も望むだろうか。
聡影は、なぜ摘花がとまどうのか、まずそこを疑問に思ったようだった。
摘花は胸元を押さえながら答えた。
「これは、阿周さまに内緒で見せていただいたお品の一部なんです。お父様でいらっしゃる趙修令さまに、他人には決して見せるなと言われていたそうなんですけれど、わたしにだけは見せてくださったんです。
亡くなる前日に、これが落ちているのをたまたまお部屋で見つけて、次の日に返そうと思っていたんですが…。ですから趙修令さまもおそらく、これをわたしが持っていることはご存じないと思います」
その説明を聞いた聡影は、摘花をじっと見つめた。
「……一部?」
「はい。あの…」
言うくらいはいいだろうか、と摘花は思った。
「短剣の飾りの一部なんです」
「短剣の……」
どうしようか。
聡影になら見せてもいいだろうか。
阿周も許してくれるだろうか。
そう思っている摘花に、聡影は言った。
「わかった、そういうことであれば、趙修令には決して言わないから」
それなら、と摘花は思った。
皇子であるこの方にであれば、よいだろう。
阿周に似ているこの方にであれば。
摘花は錦の袋を取り出すと、中身を手のひらにあけた。
小さな水晶が、部屋の明かりを受けてきらきらと輝く。
まるで、龍が持つ宝珠そのものだ。
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