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リコリス
000:冬の話


まだ先の事だと思っていた。

というより、早すぎる、と思った。


−−−−


後に寛政の大獄と呼ばれる幕府による弾圧。

暗殺だとか奈落だとか、あの秋の終わりにあんな暗い話をしたのは、それが始まった事に気が付いたからだ。



始まった頃は、どこぞに密書を送っただとか密会をしただとか、つまりは非公式な反幕府的な集団会議を行ったという疑いをかけられた幕府の人間が、免職になったり財産の一部を没収される程度の、将軍様のお裁きというやつだった。

しかしだんだんとその雲行きはおかしくなり、幕府関係者以外にもそのお裁きは下り、その頃はまだ幕府に仕えていた御庭番衆に攘夷志士の捕縛命令が出たりだとか、つまりは将軍様の意図が読めないお裁きが繰り返されるようになった。

そんな世評を仕入れるうちに「ああそうか」と気が付いた。



始まるのだ。

天人の時代が。



この戦争の行きつく先に、地球人が天人に屈服する日が来る事は誰もが知っていた。

天人にへりくだり頭を下げなくてはならない日が来ることは幕府の人間が一番よく知っていた。

地球の土地も空気も生態系までもが空の海賊に汚染される時代が。

剣は廃れ、侍は武士道を失う時代が。



松陽は日ノ本がそんな敗戦国になる事を予感していたようだった。

だから白波はあんな話をしたのだ。

徒党を組む人間がとりあえず牢へ入れられる日がいつか来る。

松陽がそのとりあえず牢獄に入れられる人間に含まれる事は、知っていた。

同時にそれだけは避けたかった。

直接言ったところで素直に行動を改める人でないことも知っていた。

だからせめて言葉だけでも減らすようにと言ったのだ。

徐々に目立たなくしてしまえばどうにかなると思ったのだ。

うまくいかずに牢に入れられても解放される手を作っておきたかったのだ。



だけど。

こんなにも、思い通りにいかないものなのだろうか。

どんなに速く走っても、一番大切な場所と時間には間に合わないものなのだろうか。


−−−−


奈落が大体的に動き始める前に、予兆は無かった。

彼らが襲撃するのは地位も身分も数も関係が無かったのだ。

そこに順番は全くと言っていいほどに無かった。

近いも遠いもまったく、箱の中に入れた大量のクジの中からランダムに引いたクジに書かれた数字を読み上げて行くような。



そう、ランダムだったのだ。

どこぞの私塾の教師の名前が書かれたクジが引かれるのが、監獄の初期なのか晩期なのか最初なのか一番最後なのかなど、奈落たち本人すら予想もしていなかったし予定も立てていなかった。



だから、私は間に合わなかった。

危険性の限りなく低い人間が彼らの目に止まるのは、奈落が動くのは、少なくとも戦争の勝敗が分かった頃だと思ったのだ。



冬だというのに、空気が熱かった。

そして風は冷たい。

バチバチと乾いた音と熱が一つの家を包んでいた。

燃えていたのだ、田舎の片隅に立つ一つの家が。

吉田松陽の私塾が。



「嘘、だよ・・・・・・」



船を乗り継ぎ、途中まで馬を飛ばし、夕暮れの道を走ってやっとたどり着いた後だった。

途中で人を振り向かせるぐらい騒々しく走ったのが幸いした。

遠目で見た炎はまだどうにか回り切ってはいなかった。

急げば全焼は免れる。

唖然として集まってきた近所の住民が事態に慌てて川や井戸から水を運び始めたので、きっと消し止められるだろう。



「塾が火事だ!水持って来い!」

「あの人どこ行ったんだ!?留守か!?」

「中に人は居ないだろうな!?」

「あたりに紙やら枯れた葉っぱやら積まれてる!誰だこんな事したの!!」

「まさか放火か!?」



喧噪の中、子供の甲高い声が異様に大きく聞こえた。



「バカ銀時!入ろうとすんじゃねえ!」

「離せッ!!塾が、先生の塾が燃えちまう!」

「入ってどうする気だ!死ぬ気か!」



大急ぎで駆け寄り、白波は叫んだ。



「落ち着け!塾の裏に雨水を溜めた水瓶があるからそこから運ぶんです!」

「白波さん!?」

「急いで!私が中に入って火種を消すから、水を運んできてください!」


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