短篇拾
『 陽炎 』
強い陽射しに焼かれ、アスファルトは陽炎を揺らめかせながら燃えていた。祥子は白いパラソルを右手に持ちかえると空いている左手で恆を作り、だらだらと続く坂の上を見上げた。あの頂に辿り着くには、もう少し歩かねばならない。午後の陽射しに焼かれ、毛穴からはじっとりと汗が吹き出ている。首筋を左手で撫でると、体液がより濃厚に絡み付く錯覚に襲われた。
あれから三年と云う年月が過ぎて、祥子は少しだけ落ち着きを取り戻した。けれども、ふとした瞬間に甦る記憶は激しさと後悔を連れて祥子の精神を蝕もうとする。夏の陽射しは、体力だけでなく精神までも消耗させようとする。
祥子の脇をはしゃぎながら走り抜ける子供。
一人、二人、三人。
――お母さん
振り向いて笑い掛ける匡一の顔がアスファルトに揺れる陽炎に幻覚を魅せる。
――お母さん
『陽当たりするから、帽子ちゃんと被らなあかんよ』
『わかってるって』
『そうやって、いつも熱出すやないの』
『大丈夫や』
『大丈夫なことあらへん』
『今日は徹たちとプール行くねん。せやから陽当たりなんかせぇへんよ』
『行きと帰りはお日さん強いよってに被って行き』
小学四年生のわりには、他の子供に比べて体が小さかった。良く低学年に間違われて腹を立てていた。
プールの帰り、被っていた匡一の帽子は夏の風に煽られて車道に舞い降りた。普段は交通量の少ない道だった為にか、プールではしゃいで浮かれていたのか、車道に帽子を取りに行った匡一の体は運悪く通りかかった車にその小さな体を跳ねられた。
即死だった。
何故、匡一の帽子だったのか。
あの時、無理に帽子を持たせなければ良かったのだろうか。
あの日、無理にでも引き留めておけばよかったのではないか。
祥子は何度も自分を責めた。苦しくて、匡一をこの手に抱く事が出来なくて。考えても仕方の無いことばかりが浮かんでは消えて、また匡一を思った。
思い出す匡一の顔は拗ねて、泣いて、笑っている。
病院に連れて行ってはくれなかった夫を恨んだりもした。もしかしたら匡一は最期の瞬間祥子がいないことを恨んでいるかも知れないと。
くるひもくるひも匡一を思い、涙も出なくなって夏が終わった。
渇れた涙は匡一の命日になると沸き上がってくる。
母があの時言った一言が今でも忘れられなかった。
『匡ちゃんなぁ、呼んでも笑うばっかりでこっちに来て来れへんのや』
通夜の日、放心した祥子の肩を抱きながらそう云った母の夢の話をぼんやり聞いていた。
匡一は祥子には会いに来ては来れなかった。あれからずっと待っているのに、匡一は一度として祥子の前には現れることは無かった。
(恨んどるんやろうな)
だらだらと続く坂道の上は鬱蒼と繁る竹藪だった。その奥に建つ墓地に匡一は眠っている。背の高い竹は空を被い、夏の強い陽射しを遮っていた。青臭い竹の香りが、線香の匂いに混じって運ばれて来る。
お寺の境内に入り、水を汲む為に御手洗場へと歩く。冷たい水に手を浸し、柄杓に水を汲むと喉を潤す。少し奥まった小屋にバケツと柄杓を置いてある。それを取りに行くと更に奥にある保育園で先程の子供達が遊んでいた。
「今日お祭りあるねんでぇ」
「知ってる。お父さんがお面買うたる約束してくれてん」
「ええなぁ。ぼくもお祭り行きたい」
「ようちゃん行かへんのか?」
「お父ちゃん今日も仕事やもん」
「ほな、一緒に行くかぁ」
「ええの?」
「うん。お父さんに頼んでみる」
三人は今日の夏祭りの話をしている。年の頃は匡一くらいだろうか。はしゃぐ三人の話し声を聞いていると、匡一と夫と三人で行った夏祭りを思い出す。
呼び起こされる記憶の残像に振り回されながら祥子は毎年、精神をすり減らしながら生きて行くのだろうか。何時かその蝋燭が溶けて芯のみが残れば匡一に会うことが叶うのだろうか。
バケツを持ち、いっぱいに水を汲む。それを抱えて墓地の方へと歩く。バケツいっぱいの水は歩く度に揺れて溢れて、祥子のスカートの裾やサンダルを濡らした。
遮る物の何も無い墓石は午後の陽射しに焼かれ、敷かれた砂利は祥子を焼いた。
「暑かったやろうねぇ。遅うなって堪忍な」
墓石の頭から水をかける。弾けた温い水が祥子の顔や胸に飛び散ってくる。
「堪忍な」
遠くで子供達のはしゃぐ声が聞こえる。
湯飲みを濯ぎ、水を入れ替える。その脇に来る前に買ったラムネを置く。線香を立てて手を合わせながら匡一に詫びる。
(何で会いに来て来れへんの?)
祥子の思いは、撒かれた水で冷えた風に寄って浚われる。
「匡一、後何れくらい待てば会いに来てくれる?」
目の前の線香の煙がゆらりと揺れる。
「お母さん、何れくらい待てば匡一に会えるん?」
ぼんやりと線香の煙が揺れるのを暫く眺めていたが、陽が傾き始めて赤みを帯びて来たことに気が付いた。何れくらいそうしていたのか、肌が陽に焼けて赤くなっている。
「ほな、お母さん帰るわ」
線香もいつの間にか短くなっていた。バケツに僅かに残る水を砂利に撒き、片付けを済ませるとお寺を後にした。竹藪の辺りは涼しいがそこを抜ければ、アスファルトに残った熱が再び祥子を煽る。
暑くて朦朧としそうになる意識を無理矢理引き戻す。また、子供達が祥子の脇をすり抜けて駆け降りて行く。
一人、二人、三人、四人。
(四人?)
四人目の子は何処にいたのだろうか?
気付かなかっただけで彼処にいたのだろうか?
祥子は陽炎の消えたアスファルトの向こう側に目を凝らした。四人の背中が走り抜けて、立ち止まる祥子から遠くなってゆく。その背中が曲がり角の向こうに消えるその瞬間、四人目の子供が立ち止まり振り返る。
じっと祥子の方を見ている。
――お母さん
「匡一!」
祥子は日傘を投げ出すと坂を転がるように走り出した。サンダルが滑って上手く走ることができなかった。急いで匡一のもとに行きたいのに足が縺れて思うように進まない。
「匡一!」
早く行かないと匡一がいなくなってしまう。けれど視界に入る匡一は一向に近付かない。祥子から匡一は遠く離れている。
足が取られてその場に崩れた。慌てて立ち上がったが、そこにはもう匡一の姿は無かった。
祥子はその場に座りこむと声を上げて泣いた。
匡一は祥子に会いに来ては来れない。あれは自分が見せた願望なのではないか。はっきりと匡一の顔が見えた訳では無かった。夏の陽炎が魅せた幻なのかもしれない。
幾度となく匡一の後を追おうとして夫にいさめられた。それでも諦めきれないのは三年と云う月日が余りにも短すぎるからだ。匡一を思い出にするには、匡一の存在が強すぎて祥子を縛っている。声も髪も肌も熱もまだ忘れられず、祥子の中に鮮明に残っている。
匡一はきっと自分を待っているのではないかとそう思うのだ。だから匡一は祥子に会いに来ないのではないか。
熱を持ったアスファルトが肌に痛かった。陽は傾いても暑さは緩む事なく祥子を責めた。
「匡一」
呟いた声が蝉の声にかき消されそうだった。嗚咽が喉を詰まらせる。
「匡一」
――お母さん
祥子は顔を上げる。
「傘ちゃんと差さんと陽当たりするで、お母さん」
白い日傘を持つ小さな手。傘が邪魔をしてその顔は見えない。
「きょ、匡一?」
「お母さん。ぼく、お母さんのこと大好きやで」
「お、お母さんも匡一が大好きや」
「せやから泣かんといてなお母さん」
日傘を差し出した手を掴もうと祥子は自分の手を伸ばした。はらりと日傘は舞って、目の前に落ちる。
――お母さん
そこには匡一の姿は無かった。ただ熱に焼かれた陽炎が残像のように揺らめくばかりだった。
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