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短篇拾
『 視線 』



 香田は胸ポケットをまさぐると、潰れた煙草を取り出してくわえた。
 少し湿っぽい感じがしたが、このご時世、贅沢も云ってはいられないのも事実だ。
 深く紫煙を吸い込み、勢いよく煙を吐き出すと香田は自分の胸にポッカリ穴が空いたような気持ちになった。
 何故そんな気持ちになったのか、それは香田自身にも理解できなかった。
 工場のサイレンが昼の休憩の終了を伝える。また、あの単調な作業が待つ作業場に戻るのかと思うと、香田は正直辟易した。


「…クソッタレ」


 吸殻をベンチの脇にある花壇に投げ込んで立ち上がる。周囲には人の気配は微塵も感じられないのに、何処かで誰かに視られているような感じがして、香田は引き返すと花壇から吸殻を拾った。
 花壇には自分のもの以外のものもある。なのに後ろめたさを感じたのは何故なのか。
 照り返す陽射しに焼かれ、香田の額には汗が滲んでいた。しかし、それとは別に背筋を流れる汗は冷たく、悪寒さえ感じる気がした。


「クソッタレ」


 香田は再び小さく毒付くと、工場の扉の脇に置いてある小さな菓子入れで作られた錆びた灰皿に吸殻を捨てた。
 何故か、視られている気配は薄れる事はなく、終業迄の時間は香田を酷く憔悴させた。





「香田さん、今日あたりどうですか」



 この工場で香田よりも長く働く松田が、口元で盃を傾ける仕草をする。


「そうですねぇ」


 正直、そんな気分では無かった。出来ることなら、一秒でも早く家に帰り体を休めたかった。
 長年勤めていながら、うだつの上がらないこの男は工場内でも煙たがられる存在ではあっても、香田が班長を勤める班の一人としてぞんざいに扱うわけにもいかなかった。
 一回りも違う自分しか誘う人間が松田にはいないのだ。しかし、自分にも松田以外に誘われる人間もいない。自分も松田も置かれる立場は違えども、置かれる境遇に於いては大差ないのである。


「じゃあ、久し振りに」


 給料日前の財布の中には二千円も入っていない。毎月、故郷に一万円の仕送をしながら家賃を払い、たまの博打をすれば給料なんてものはあっという間に消えていく。駅前の安酒を飲めば後は細々と暮らすしかない。出稼ぎに来ている松田とて同じこと。北の炭鉱が閉鎖になり、やむを得ず家族を置いて単身で働きに出ている。
 離れていても頑丈な鎖に繋がれた鵜のようなものなのだ。



 逃れられない檻の中で飼いならされている。窮屈に感じていても気付かない振りをするしか出来ないのである。
 家族を見捨てる罪悪感にさいなまれるよりも、じわじわと真綿で首を絞められているほうが如何程か楽か。そう思うことでしか、自分を納得させることは出来ないのだ。



 今月は由美のところへは行けないかも知れない。また小言を云われる。金の勘定と色欲の算段をつけながら、松田との無駄な時間に浪費する体力とそれに見合わ無い出費の痛手に香田は苛立ちを感じた。



「駅前で良いとこ見つけたんですよ」


 松田の皺に埋もれたニヤけた笑いを見ていると、怒りにも似た衝動が腹の中でムクムクと沸き上がって来るのを感じた。
 愛想笑いを浮かべて、それを呑み込もうとする自分に惨めさを思った。



 ふと、昼間から付きまとう奇妙な視線を再び感じた香田は薄暗闇に沈む工場を振り返った。


「どうしました」


「…いや、何でも」


 疲労が溜まっているのかも知れない。今日は早いところ切り上げて早目に家路に着こうと香田は思った。


 視線が着いてこようとする気配が其処にはあった。




 

ボーンと鐘の鳴る音で目が覚めた。柱の振り子時計がテッペンを指している。
 ジーっとネジの巻かれる音を聞きながら香田は天井を眺めていた。
 松田とは二時間ほど駅前の今にも潰れて終いそうな小さな酒屋で飲んでいた。
 出てくる話と云えば炭鉱の話か家族の話ばかりで、これと云って普段と何ら変わりのない無駄話を酒のつまみにしながら、つまらない時間を過ごした。記憶を無くすまで飲める金は持っていなかったし、明日に障るからと頃合いをみて切り上げた。
 ヨタヨタと歩く松田の歪んだ背中を見送りながら、無理にでも由美のところへ行こうと考えていた。
 来月から故郷への仕送を七千円にしたらどうなるだろうかと思いながら、財布の中身を勘定した。
 安酒は疲れた体には程好く利いていたのか、体が酷く安定しないのを覚えている。



 見慣れた筈の六畳一間の安アパートは、何時にも増して空気が澱んでいるような気がした。
 香田は気だるい体を畳から剥がし起こすと、流しで水道の蛇口から直接水を飲む。
 酷く喉が渇く。
 餓えた獣の様に水を飲みながら、背後に再び視線を感じる。
 香田は勢いよく振り返ると、辺りを見回した。
 跳ねた水が喉元に、床に飛び散る。闇の中で剥き出した目が怯えた獣の様にギョロギョロと動くのが分かる。筋肉が引き吊って、痛みさえ覚えるようだ。


 首筋が、頸動脈が激しくうごめく。その音すらも聞こえて来るようで、香田は云い知れない恐怖を感じた。


 何なのだ。


 何が起こっているんだ。


 自分を視ているのは何なのだ。



  . .  . . . .
 何が俺を視ている?



 ステンレスを激しく打つ水の音だけが静寂の中に響いている。
 それだけが現実で在るように、静寂を裂いて流れる。


  . . . .
 何時から視ているのだ、俺を。



 軋む床が、気配を連れてくる。ゆっくりと、這いながら、溢れだす水を泳いで。
 床に広がる水に、流しが詰まっていることに気が付く。朝はちゃんと流れていたはずだ。
 何が詰まっているのだ。溢れだす水は板張りを越えて畳へと染みだす。
 気配がそれを呑み込む。


 . . . . . . .
 来るんじゃない。


 喉の奥で潰れたまま、音に為らずに掻き消される。水音が更に激しくなっていく。
 排水口をまさぐる指に長く細い糸が絡み付く。
 束になった糸が流れを止めているようだ。


 香田は我武沙羅にその糸を排水口から引き摺りだすとゴオゴオと音を立てて、溜まった水が流れていく。
 吹き出す汗が水滴になり一緒に渦の中に呑み込まれて行った。


「クソッタレ」


 止まった水の流れに安堵した香田は、気配に向かってゆっくりと振り返った。









「…由美」








 屍体は、何処に捨てるべきか。明日、捨てに行かなければ。



 捨てに――


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