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短篇拾
『 白煙《後編》』



「おかえりなさい。早かったのね」


 台所で夕飯の仕度をしている妻は振り返る事もなく応ずる。


「誠人はどうした」


「まだ仕事でしょ。最近残業が多いってぼやいてたから」


「そうか」


 居間に入りテレビをつけてから鞄をソファに置こうとしてテーブルの上に置いてある郵便物に目が止まる。A4サイズの茶封筒には『柊輝美様』と書かれていた。裏返すと『神奈川県川崎市…崎島由香利』と書いてある。
 覚えの無い名前に何度か封書を裏返す。


「おい」


 妻に呼び掛けるが返答が無い。テレビの音で聞こえないのかもしれない。


「おい、三津枝」


 少し声を張り上げて、再び妻を呼ぶ。


「何です、大きな声を出して」


「崎島由香利って誰だ」


「…さあ。知りませんよ。昔の女じゃないですか」


「馬鹿を言え」


 再び封筒に目を移すと、記憶の片隅に忘れ去られた残像が滲み出す。



『僕、神奈川に引っ越します。母さんが父さんと別れるからって』


『離婚するのか』


 初夏の日差しとは裏腹に窓から入る空気はまだ冷たさを残していた。


『そうみたいです』


『そうか』

『はい』


 栄一郎の表情には何の感情も無かった。


『それでいいのか』


『母さんがそうしたいなら』


 職員室の一角で交わされた栄一郎との最後の会話だった。


『だから僕、崎島になるんです』


 ぎこちなく笑う栄一郎は少し大人びていた。


『そうか。そうか。…寂しくなるな』


『…先生』


『ん?』


『ありがとうございました』


 その時、始めて栄一郎は表情を崩した。くしゃくしゃに歪んだ顔は15歳の子供の幼さが残っていた。


『元気でやれよ』


 無言で頷く栄一郎を見て胸が痛んだ。


 下校時刻をとうに過ぎ校舎を出てから静かな校庭に輝美を呼ぶ声が響いた。尋常で無いその声に胸騒ぎを覚えて輝美は来た道を駆け戻った。
 校舎を照らす夕陽が紅く燃えていた。
 吹き出る汗がねっとりと全身を包んでいた。上履きに変えるのももどかしく二階まで階段を二段飛ばしで駆け上がる。職員室に飛び込むと残っていた教師たちは呆然と立ち尽くしていた。誰しもが言葉もなく静かだった。
 蝉が鳴いたような気がした。


『磯村栄一郎が、死んだそうです』


 音が、止まった。
 静寂が全てを支配したようだった。

 そんなはずはない。
そんなことがあるものか。
 栄一郎はこれから母親とやり直すんだ。今まで傷付いた分を取り戻すんだ。



――幸せになるんだ。






 封書に鋏を入れると中から大学ノート一冊と一枚の便箋が入っていた。
 大学ノートをパラパラ捲ってから便箋を手にした。


『拝啓、如何お過ごしでしょうか。突然の手紙にさぞかし驚かれたことと思います。崎島栄一郎の母で御座います。
 夏の陽射しが強くなって参りました。時の過ぎ行くのは早いもので、あれから16年という年月が過ぎ去って終いました。
 先週都合もありまして、栄一郎の16回忌を行いました。恐らくこの封書が届くのが栄一郎の命日ではなかろうかと思われます。
 生前は栄一郎が大変御迷惑をおかけしたことを深くお詫び致します。事の詳細を知ることとなったのは先日栄一郎の遺品を整理していた最中に見つけた一冊の日記によってでした。幾度も柊先生の御名前が書き綴られているのを目にして、是非先生にも目を通して戴きたく郵送した次第です。
 読まれた後は送り返すなり、処分するなり、先生の自由にして頂いて結構です。
 非情な母親と思って頂いても構いません。
 けれどもこれは先生のもとにあったほうがあの子も幸せでなかろうかと思います。
 それではお身体に気をつけて。
      敬具
    崎島由香利 』



 輝美は便箋を畳むと大学ノートと一緒に封筒に戻した。
 読むべきでは無いのかも知れない。もう終わったことなのだ。一々掘り返す必要が何処にある。
 栄一郎は天国で安らかに眠っている。それを揺さぶる必要が何処にある。
 輝美は立ち上がり、封筒を寝室の書類専用の引き出しにしまった。
 しかしその前から動くことはできなかった。


「あなた、ご飯出来ましたよ」


 妻が寝室を覗く。


「何してるんです」


「出掛けてくる」


「今から?夕飯は?」


「帰ってから食う」


 輝美は引き出しから封筒を取り出すと家を飛び出した。
 妻の自分を呼ぶ声を背に受けながら逃げるように家を出た。
 何処へ行こうというのか。こんなものを持ってどうしようというのだ。けれどそれは輝美を煽り立てるだけで、由香利が目にした真実を知りたいと思う欲望を押さえつけることはできなかった。
 栄一郎は何を思っていたのか。何故死ぬことをえらんだのか。その真実を知ることは今しかないのだとそればかりが頭の中で繰り返し繰り返し輝美に響くのだった。


 夕暮れせまる河原は静かで、何れくらい歩いたのか、背中にじっとりと汗をかいていた。手にした封筒は汗でふやけて歪んでいた。
 まさか、この場所を選ぶなんて、自分は本当にどうかしている。気付かぬうちに足を向けたこの場所は栄一郎が身を沈めた川だった。浅瀬は子供でも十分に遊べるが中央に向かって川底は深くなり、その流れは川面の穏やかさとは裏腹に流れが早かった。
 その流れによって栄一郎の身体は10km程下流まで流され川下の住人が流れ着いた栄一郎を発見した。


 輝美は河原に腰を下ろすとその流れを暫くの間眺めていた。手にはいつの間にか力が入っている。それにぼんやり視線を移すと決意も曖昧なまま大学ノートを取り出した。
 ノートを捲るとそこには日記と言うよりも時折高ぶるその年代特有の感情が記載された、殴り書きのような感じだった。



『今日から三年生。僕はこのまま大人になっていくのだろうか』


『母さんが泣いている。父さんが暴れるからだ。僕は父さんみたいにはなりたくない』

『先生は人の役に立てればと思って教師になったらしい。やっぱり先生はすごい』


『自分が時々怖くなる。僕は父さんの子供だから、父さんみたいになるかもしれない』


『母さんは顔がはれてしまって仕事を休んだ。父さんなんかいなくなればいいのに』


『僕にはどうすることも出来ない。母さんごめんなさい』


『先生は何でいつも優しいのだろう?先生がお父さんだったら良かったのに』


『父さんが帰って来なかった。何だか安心する。母さんも笑っていた。良かった』


『自分は自分。信じろ。先生はそう言った』


『父さんが母さんを殴っている。僕はこの部屋から出て母さんを助けてあげることが出来ない。母さんごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい』


『父さんなんか死ねばいいのに』


『先生、僕は自分らしくいたら父さんのようになってしまうかもしれない』


『猫をマンホールの中に落として蓋をした』


『死ねばいいのに』


『猫どうなったかな』


『帰って来た。うるさい』

『母さんも泣かなければいいのに』


『みんな死んじゃえ』


『先生心配そうな顔してた。ごめんね先生』


『父さんと母さんが別れるみたいだ。どうでもいい』

『母さんと一緒に暮らすことになった』


『先生は本当に僕のこと心配なのかな。僕のことなんてどうでもいいんだ』


『鶏がうるさかったから殺してやった。怖くて泣いてしまった』


『何をしてるんだろう』


『友達も先生も母さんも僕を特別あつかいする。あれをやったのは僕なのに。皆バカだな』


『また暴れている。僕はやっぱり父さんの子供だから鶏や猫を殺したりするんだ。そのうち人も殺すかもしれない』


『僕の最初のぎせい者は父さんだ』


『僕は父さんのようになりたくない』


『助けて。いやだよ』


『今日先生に母さんたちが別れることを伝えた。
 僕はここにいたいと思った』


『ここにいたいよ』



 日記はそこで終わっていた。風に煽られて、捲った頁が戻される。河原には人の気配は無かった。川辺で遊んでいた子供と犬も、散歩する老人も、買い物帰りの親子の姿も。
 何処か遠くから聴こえる喧騒が風に乗って川面を流れてゆく。黄昏時の冷たい風が輝美の身体を冷やしている。街の向こうに沈む夕陽は紅く鮮やかな色彩で、空を燃やしていた。
 もう照らす力は残っていないのだ。
 人も風景も自分さえも黒く塗り潰され判別ができなくなる。誰だか分からない。黄昏はそんな意味だとそう何かに書いてあった。
 輝美は立ち上がると川へ向かって歩いた。川瀬に入ると足先から冷たさが這い上がってくる。水の抵抗を受けて中々進まない。
 また闇が深くなる。
 胸まで浸って、輝美は寒さに身体を震わせながら、大学ノートを一枚破り、川に流した。
 一枚、また一枚。帯を引くように一枚ずつ。音は川の流れに呑まれてさらさらと優しかった。その上を闇の中で白い紙が流れてゆく。
 それはあの時見た白煙のように細く白く尾を曳きながら栄一郎の後を追って細く白く―――


     《 了 》


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あきゅろす。
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