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02
「ふわふわだな」
 つい数時間前は敵意を向けて噛みついてきそうな勢いだった狼も、こうしてみると本当に犬みたいで可愛い。頭を撫でていた手を首の方へ移動すると、狼は嬉しそうに眼を細め顔を上げる。何度も柔らかく毛を撫でながら無意識に狼の身体を抱きしめれば、狼はグレイヴの方へと身体を擦り寄せてきた。
「………暖かい」
 こんな風に父親に抱きしめて欲しい。その願いは妹が生まれたと同時に叶うことが少なくなったことをふと思い出し、グレイヴの目にじんわりと涙が滲む。
「お兄ちゃんだからっていう言葉はもう聞きたくないよ…父さん…」
 狼の毛に顔を埋めると、グレイヴは声を殺して泣いた。
 ひとしきり泣いたところで急いで涙を拭うと、そっと狼から身体を離す。
「クゥン?」
 狼は大きな目を此方に向け、無邪気な表情を浮かべて首を傾げた。
「ごめんな。ありがと」
 そう言って頭を撫でてやると、やっぱり嬉しそうに眼を細めて、グレイヴの手に頭を擦り寄せてくる。見たところ、この狼は余り大きくない。まだ子供なのかも知れない。
「それ、外すから大人しくしていてくれよな」
 狼の身体を撫でながら徐々に手を後ろの左足に近付けていく。罠の金具部分を掴むと、狼が驚いて身を起こし低く唸り始めた。
「わわわっ! ちょっと、落ち着けって!!」
 狼の気を宥めるようにグレイヴは何度もその身体を撫でる。
「直ぐに終わるから、頼むから大人しくしててくれよぉ…」
「グルルルルル………」
 困った様に眉を下げ泣きそうな声でそう訴えると、狼は次第に唸り声を小さくし大人しく前足に頭を預け蹲った。
「ん。信用してくれたのか?」
「…………」
 狼は一度グレイヴの方へ視線を向けた後そっぽを向いてしまう。
「まぁいいや」
 なるべく傷の付いた足に負担を掛けないように慎重に罠を開きながら食い込んだ金具を足から抜いていく。痛みを感じるのだろう。狼が呻き声をあげるが、吠えて噛みつくことは無く大人しくグレイヴに全てを委ねてそっぽを向いていた。
「ちょっとごめんよ…」
 罠を完全に開いた後、狼の左足を捕まえ素早くその場所から抜き取る。狼は驚いて身体を起こしたが、グレイヴの手が罠から抜けきった左足から素早く離れ狼の気を宥めるように身体を撫でたので、再び前足に頭を預け大人しく蹲る。
「外れたよ」
 狼の足を抜いた罠を噛み合わせると雪の中へと放る。
「良かったな」
 良かったとは言っても、狼の白い足は流れ出した血液で赤く染まっている。きちとした手当は出来なくとも、傷口くらいは消毒してやりたい。そんな気持ちが湧いて出たグレイヴは家に戻るかどうかを真剣に考え始めた。
「クゥン…」
「……よし」
 考えは直ぐにまとまる。グレイヴは立ち上がると狼の頭を撫で此処に居るように声を掛けてた後、泊まっているコテージに向かって走り出す。
「…………」
 再び雪の中に残された狼は、グレイヴの姿が完全に消えて無くなるまで顔を上げて彼の後ろ姿を眺めていたが、やがてその姿が見えなくなるとゆっくりと立ち上がり、傷付いた足を引きずりながら森の奥へと姿を消した。
 傷薬と包帯を持ってその場所に戻ったグレイヴは呆然と立ち尽くす。
「……居ない…」
 確かに其処に狼が居た形跡はある。だが、その姿は完全に無くなってしまっていた。
「何処に行ったんだよ…」
 辺りを見回し姿を探すも、白い気色の狼は目の前に広がる白のせいでその姿を見つける事は叶わない。
「何処行っちゃったんだよ!! 狼!!」
 大声で探すがその声に答えるものは誰も居なかった。
「……折角…仲良く出来ると思ったのにな…」
 諦められず暫く狼の姿を探して辺りをうろついたが結局見つける事が叶わずグレイヴはとぼとぼと歩き出す。
 そして…この時の記憶は流れゆく時と共に風化し薄れてしまって行った。

 人間、生きていれば楽しい事も辛いことも経験するのは当たり前だろう。
 あれから十年ほど過ぎ、グレイヴは立派な青年になっていた。
「ただいまー」
 家の扉を開けても返事はない。
「…誰も居ないんだったな」
 父親と仲直りをし、自分を納得させて良い兄を演じ続けてきた。それが自分の幸せなのだと言い聞かせながら。それなりにその後の生活は楽しい物だったし、幸せだと感じてもいた。だが、それも長くは続かない。彼のささやかな日常が壊れたのはたった一本の電話がきっかけ。
「はい、タイラーです」
 大学に進学するために家族で出掛ける筈だった買い物を断り一人図書館へと向かったその日が彼の運命を大きく変えた。少し早めに切り上げて帰宅してきた我が家。扉を開けると煩い程鳴り響く電話のベルに不快そうに眉を寄せる。
「母さーん」
 母親を呼んではみるが返事はない。そう言えばガレージに父親の車は止まっていなかった。まだ帰って来ていないのだろう。仕方無くリビングに移動し電話を取ると、雑音を混ぜながら受話器の向こうにいる相手が信じられないことを口に出した。
『グレイヴ・タイラーさんですね? 実は、貴方のご両親と妹さんが事故に巻き込まれまして…』
 どのような応対をしたのかはまるで記憶が無い。テレビ画面の向こうで流れる三流ドラマを見ている気分だったのはよく覚えて居る。電話の声を聞き取りながら手を動かして取ったメモを頼りに病院に着くと、暗い表情のスタッフがグレイヴを有る場所に案内してくれた。
「こちらです」
 金属製の重たそうな扉がゆっくりと開くと、中に籠もった薬品臭と冷気が一気に外へと溢れ出してくる。
「こちらの方ですが…」
 慣れた手つきで引き出された三つのロッカー。その中には冷気の煙を纏った霜を皮膚に付けた三人の人間が横たわっていた。紛れもない両親と妹の三人である。
「間違い有りませんか?」
 そう問われ、グレイヴは言葉に詰まった。込み上げてきたのは吐き気。口元を抑え膝を笑わせながら必死に堪えていたが、遂に耐えきれなくなり急いでその部屋を出る。トイレがないか必死に探して駆け込むと、個室の扉を開いて勢いよく便器の中へと胃の中の内容物を吐き出した。耳障りな音を立てて吐き出される吐瀉物。何度も何度も嘔吐きながら涙を堪えて全てを吐き出す。やがて吐く物が無くなると上ってきたのは胃酸。それが食道を焼き痛みを訴えた。
「……大丈夫ですか?」
「……うぅ………」
 後を追いかけてきてくれたのだろう。死体安置所に案内してくれたスタッフが心配そうに個室の中を覗き込む。
「ぅ……」
 乱暴に口元を拭うと、グレイヴはタイルの上に座り込み身を縮めた。
「うぅ……うぁ……」
 そんな現実は要らない。家に帰ったら当然のように両親が居て、妹が居て。『また勉強? そんなに勉強ばっかりしてると、本当に女の子に持てないよ! グレイヴ』なんて妹が呆れた様に言った後自分の背を叩きながら笑う。キッチンに顔を出せば焼きたてのマフィン。母親にばれないようこっそり一個掴み取ったところで『グレイヴ。もう少し待ちなさい』とか言われたりして。慌ててリビングに向かえば、其処では父親がニュースペーパーを捲りながら『お帰り』と自分を迎えてくれる。何処にも特別は無い。ただの平凡な日常。それだけで良かったのに…

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あきゅろす。
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