05
*
あの日は結局、泣き止めないままとんでもない迷惑をかけることになってしまった。腫れぼったい目をこすりながら、昼休みのはじまりを知らせるチャイムと同時に生徒会室へ歩き出した。最近すこしずつ書類が減ってきたとはいえやはりふたりでやる量ではないから時間を要す。
昼休みが潰れることが苦だとは思わない。教室にいてもどうせひとりだし最悪長島くんにどこかへ連れて行かれるし、気が休まるわけじゃない。むしろ、生徒会室には水無瀬先輩と真柴先輩がいてくれるから、そっちのほうがいいんだ。
(結局、言えなかったなあ)
すきなひとがいるってこと。そのひとのことも、なにも。
というか御影のことをどうやって話そう。何年生かすらも分からないというのに。
扉の向こうから、やけに大きなカップの音がする。水無瀬先輩がコーヒーでもいれたのだろうか。
(今日も、来てる)
ひとりじゃない。ふたりが来ていることに、こんなにも安心する。
「おはようございます、水無瀬せんぱ――」
「あ――――!」
扉を開けた瞬間に目をそむけるような眩しさ。
「紘! おまえ最近昼休みになるとどっかいなくなるけど、ここにいたんだな!」
(嗚呼、なぜ)
どうして、長島くんがひとりでこんなところにいるのだろう。頭がスパークするみたいに、ちりちりと真っ白になる。
指先が震えるのが分かった。
手元にあった長島くんのいれたのだろうコーヒーは失敗したのか一回溢れてしまったのだろう、外側がべっとりと汚れていた。そのコーヒーが、未提出の書類の上に置かれている。
「あ……」
慌てて腕を伸ばして、ほとんど取り上げるように長島くんからコーヒーカップを取る。それはいつもぼくが使っていたカップのがらだった。
やっぱり……書類が汚れてしまっている。
「おい紘! 聞けよ! おれの話無視するなんて最低だぞ!!」
「ごめ……うわっ」
後ろからあの力強い手で腕を捻るように掴まれて、コーヒーを持つ手が揺れる。傾くのが分かって、(落ちる、書類が……っ)と思うと同時にほとんど反射的にその手を書類から遠ざけようと傾けた。
手の上にかかるコーヒーは、いれたてだったのだろう。
「……っ」
左手を、じりじりとした痛みのような熱さが流れる。同時に、がっしゃん、と音を立てえカップが落下した。
「おまえが悪いんだぞ! おまえが落とすから! しょうがないやつだな!」
(ぼくが、使っていたカップ)
粉々に散ってしまったそれに、じわりと涙が浮かんだ。手が、じんじんと熱を帯びる。痛い。
砕けたカップがぼくそのものみたいに、怖い。長島くんは、ぼくのすべてを奪って、壊していくから。
「そうだ! おれこれからあいつらと食堂行くから!! 紘も来いよ!」
あいつら――。
仕事をしない生徒会役員たちだろうか。
(いやだ、いやだよ)
声が出ない。右手をぎゅっと掴まれて、引きずられるように生徒会室から出される。振り向くと、割れたカップと、黒々と床を汚すコーヒー。
水無瀬先輩……真柴先輩……。
ひりひりとこげるような痛みを伴った左手を、ほとんど無意識的に生徒会室へ伸ばす。
たすけて。
御影。
長島くんに引きずられ連れ回されていたときは幾度となく通った食堂だったが、水無瀬先輩に拾われてからというもののすっかり足を運ばなくなっていた。
長島くんとぼくに向けられる、遠慮のない不躾な視線。長島くんがなにも気にしていなかった分、肩身の狭い思いをしたのが甦る。食堂はなんら変わりなく、あからさまに悪意と軽蔑を持ってこちらを睨むものもいれば、遠巻きに様子だけでもというようにちら見するものもいる。
「ごはんだ! 今日なに食べようかな!! 紘おまえなに食うんだ!?」
「ぼく、おなかすいてないから」
ほんとうだ。すっかり食欲が引っ込んでしまった。
「おまえそんなんじゃだめだぞ!! だからこんなに細いんだ!!」
「痛いよ、長島くん」
「だからひかるでいいって言ってるだろう!」
成立しない会話に、頭がおかしくなりそうだ。
前は我慢できたのに今は我慢出来ない。つらいと声を大にして叫びそうになる。やめてと。
前は知らなかった。水無瀬先輩や真柴先輩のことも、御影への気持ちも。
だけど知ってしまったから、欲張りになる。ここへいたくないと。
「あ、いたいた! おーい! 来たぜ!」
その言葉に、顔がこわばり、体が石のように固くなるのを感じた。まぎれもない拒否反応だ。
「ひかる、待ちくたびれましたよ」
「「ひかるおそーい! でもいいよひかるだから!」」
「おい……おまえその後ろのなんだ」
びくり、と、体がすくむ。
会長が、長島くんの影に隠れるようにして俯いているのだろうぼくに、一番最初に気づいたみたいだ。
「「ほんとうだ、なんでいるのー?」」
「また君ですか」
冷ややかな視線に、「ごめんなさい」と小さく呟いた。どこまで聞こえているかなんて分からないけれど。
「おまえら紘をいじめるなよ! おれたち今から飯食うから!」
「もちろん待っていましたよ、ひかる。でもその前に、その平民はどこかに置いてきなさい」
「どうしてそういうこと言うんだ!! おまえらおれが紘のことかまうから嫉妬してるのか!? 大丈夫だよおれはおまえらのことちゃんと好きだぞ! 紘は馬鹿だから面倒みてやってるだけだ!」
酷い言い草だ、ほんとうに。言い返したいのに、言い返せない自分が一番きらいだ。
ふと、いつの間にか目の前に来ていたのだろう、会長が、おれの腕を捻るように掴んだ。
「……っ」
(そこ、さっき――)
異常な痛みが走る。さっきコーヒーをかぶったところだ。
「おまえ、どうしてひかるの周りにいる……まさかおれたちとお近づきになりたいとかそういうこと考えてるんじゃねーだろうな」
「「やだやだーひかるは大歓迎だけど、君はいやだよー」」
「そうなのか紘!! おまえ人を使うなんて、しちゃだめだぞ!」
「ちが……っ」
あまりの痛さに、会長の腕を突っぱねるようにして放させる。じわりと、目に涙が浮かぶのは、きっと左手の痛みのせいだ。
(ぼくは――)
それは、小さくともぼくのなかに確かに芽生えた、まぎれもない意志だ。
(ぼくはこんな人たちのために泣きたくない)
唇を噛みしめる。
「ああ、確かに無能な親衛隊たちからそんな情報をもらったな。ひかるの周りを付きまとって、あわよくばぼくたちと――、なんていう汚らしいことだがな」
「紘! そんなことしたら友達いなくなるぞ! だけどおれは大丈夫だぞ!! 紘は最低だけど、おれがそばにいてやるよ!! 紘!」
紘、紘、紘。
頭の中を駆け巡る、呪いのような自分の名前。大きな叫び声みたいな声で呼ばれる名前。
俯いた先に、涙ですこしだけ歪んだ視界のなか、ぼくのあまりにも頼りない足先が見える。
ぼくが、長島くんの周りを付きまとって、あわよくば生徒会役員と繋がりを持つ?
ぼくが、生徒会役員に憧れている?
そんなの――。拳を握りしめる。
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