06



「紘、どうした?」


 こちらを伺うようにして見てくる歪んだ双眸から、掴まれていた手を振りあげて払った。パシンという音に、食堂が一瞬で静まったことに、ぼくは気づかない。


「紘、おい、おれはほんとうになんとも思ってないぞ! だからそんなに落ち込むこと――」

「ちがう……」


 ――マリモ美形だいすきだし、志野ちゃんは餌食になるよ。そんなのいやだし、志野ちゃんにはおれだけを見ていてほしーし。

 ――今更脇見なんかするかよ。……それに、美形ならむしろおまえだろうが。おまえ、最初のほうめっちゃ付きまとわれてたし。

 ――でも見向きもしなかったー。


 ふたりが教えてくれた、ぼくのほんとうの気持ち。

 御影への気持ちまで、この人たちに否定される義理なんて、ないんだ。


「ぼくは」

「なんだあおまえ、聞こえねえよ」

「「うざーい」」


「ぼくには、すきなひとがいます」


 震えそうになる声をぎゅっと堪えて、喉に、おなかに、力を入れる。ぼくの意志だ。

 その言葉に、役員たちが一瞬だけ豆鉄砲を食らったような顔をした。


「ぼくのすきなひとは、ぼくのことを大切にしてくれるひとです。だから、それ以外のひとに興味はありません。だから、先輩たちのことも――」


 ぼくのすきなひとは、大きなやさしさでぼくを包み込んでくれた。ぼくはそのひとをすきになれたことが誇りだ。ぜったいに曲げられないもの。


「分かった」


 遮ったのは、会長だった。深く目を閉じるようにして考えた後、切れ目の双眸がじ、とこちらを見てくる。

 ごくり、と、生唾を飲んだ。

 さっきのような驚いた顔はすっかり息を潜めて、再び無表情になった会長が近づいてくる。その勢いに気押されながらも、ぐっと踏みとどまる。

(で、でかい)


 びりびりとした、威圧感。

 ふと、会長が食堂で出されるグラスを持っていることに気づく。さっき、長島くんを待っているときにくんでおいたものだろうか。それが重たげに上に持ち上げられたとき、反射的におぼくは、ああ、と思った。

 伝わらなかったんだ、きっと。


 ぱしゃん。


 頭からポタポタと垂れた、水のかおり。濡れた体で、表情ひとつ変えずにぼくの頭上でコップをさかさまにした会長をぼんやりと見つめた。


「だからなんだ、気持ち悪い野郎だな。……どっちにしろおまえは、薄汚れた存在でひかるに近づいたんだろうが」


 異次元の言葉みたいだ。

 ひたひたと頬をはう水滴を感じる。髪の毛の先から床に落ちる水音が、いやに静かな食堂に響いていた。


 ひたひたと頬をはう水の――。これは、水だ。


(やっぱり、ぼくじゃ、伝わらないんだ)


 水だ。水だ。

 床に染みを作るのを感じながらも、動けない。小指ひとつ、動かせない。


(ぼくじゃ――)


 ぼくは気づいていなかった。傍観者たちがこちらを注目しているにしては、やけに食堂全体が静まり返っていたということに。とりとめのない感情が、どんな思考も遮断していた。


 ――紘。


(あれ……)


 懐かしい声が聞こえた気がした。それは幾度となくかわした屋上での逢瀬の――。

 ゆったりとした足取りが、響くようにこちらへ向かってくる。


「紘、こっち向け」


 刹那、ぼくは、よく知っている、あまりにも振り切りがたい腕に、きつく後ろから抱きすくめられていた。


「え……」


 だれかと見間違えるはずない。

 ずっと覚えていたんだ。いつもいつも、なにかあるたびに無理矢理記憶から引きずり出していたんだ。間違えるはずがない。


「……み、かげ」

「酷いな、紘は。仕事で忙しい俺を見つけてくれない。やっとの思いで時間を見つけて屋上に行っても、癒してくれない。おかげでフラストレーションも爆発する」


 これは、どういう、こと?

 ぼくを抱きしめる腕が、体が、御影のものだということは分かる。でも、どうして――。


「宝生さま……」

「宝生さまだ! 何ヵ月ぶり!?」

「姿を現すのなんて、六十八日ぶりだよ!」

「ちょっと写真部邪魔!」

「うわあ……」


 ひそひそと、再び食堂がざわついている。今までうようよと泳いでいた視線が、一心にぼくの後ろの御影に突き刺さっているのが分かる。


 なに、御影は――。


「さすがは風紀委員長さま……めったに姿は見せないけど、ほんとうにかっこいい」


 フウキ、イインチョウ? え? ええ!?


 パニックになったぼくを置いてきぼりにして、そのまま御影がぎゅっと抱きしめてくる。


「なに考えてんだおまえ、おい」


 ていうか――急に、今の状況を思いめぐらす。ぼくのおなかに絡みつくこの手は、御影の。


(うわああ)


 かあ、と顔に一気に熱が集まる。火をふきそう。


「あの……御影」

「なに」

「腕、放して……やだ」

「はあ? 無理に決まってんだろう。こっちは限界なんだよ」


 紘不足――耳元で呟かれて、心臓が鷲掴みにされたみたいに苦しくなる。


「うう……っ」


 やっぱり御影は破壊力抜群だ。男のぼくから見ても、かっこよすぎて死ねる。きっと御影はぼくをドキドキさせて殺す気なんだ。

 回された手に、一層力が籠る。

 だけどそんな御影がぼくは、すき、なんだ。


 ぎゅ、とおなかに回った御影の腕をつかむ。だけど絶対に顔を見られたくなくて、俯いた。

 一瞬だけ、食堂がざわついたのが分かった。ついでに御影の舌打ちも。それに驚いて顔を上げた拍子に見えたギャラリーは、心なしかみんな顔が赤い。

 ていうか今御影舌打ちした! なんか怒った!


「ち、邪魔だなギャラリーはよお。だからいやだったんだ」

「御影……?」


 腕がゆるんだかと思うと、くるりと体の向きを変えさせられる。驚くぼくをよそに、御影がかがんでぼくの顔を覗きこむようにして、頬に手を合わせてきた。

 長い指先が、壊れ物でも扱うようにぼくの頬を撫でる。


「濡れてるな」

「う……大丈夫だよ」


 御影の瞳、深くて、吸い込まれそうだ。

 むしろぼくは、今いたいよ。心臓が壊れそうで。


「手もやけどしてるみたいだし、さっさとこんなところ出るぞ」

「え、うん」

「な! な! 待てよおまえ!! 紘も待て!!」


 ぼくの腕をやさしく引いて、周囲の目なんて歯牙にもかけず去ろうとする背中に、さっきまで不気味なほど静かだったあの声がかかる。

 立ち止まった御影に、ぼくの体はすっと凍りついた。


(もし――)


 もし長島くんが、御影に興味を持ったら――。


「なあおまえだれだよ!? すっごくかっこいいな!!」


 いつもの二倍くらいの声量が、食堂をガンガン響く。その声量に、ぼくは思わず肩を縮こまらせた。御影の背中は動かない。

 もし御影が、長島くんを気に入ったら――。

 ぎゅう、とさっき以上に胸が潰れる。ぼく、嫉妬、しているんだ。御影を、だれにもさわらせたくなくて。


 強張った御影と繋いでいる手で、大きな手に、ほんのすこしだけ力を入れる。この不安が御影にバレないように、ほんのすこしだけ。


 ――ぎゅ。


 その何倍もの強さで、御影がぼくの手を握る。え、と思って、見上げれば、甘やかすような御影の笑みが広がっている。


「……かわいすぎ、紘」

「え……」

「おい!! 聞いてるのか!! おれの話聞かないなんて最低だぞ!!」


 ぼくから目を逸らして真っ直ぐに喚き散らす長島くんを見る御影は、ぼくが見たことのない冷たい色を帯びていた。向けられていないというのに、ぞくりと、いいようのない恐怖が駆け抜ける。

 さすがの長島くんも、たじろいだらしい。


「な、なんだよ! おまえ! そんなんじゃだめだぞ! こっちこい! おまえも紘になんかたぶらかされたのか!?」

「うるさい」

「そうなのか!? 紘が悪いんだぞ!」

「うるさいと言っている」


 決して低い声ではなく、決して大きな声ではない。それなのに確かな重圧を持って、御影の声は食堂に響く。


「長島ひかる。……理事長との関わりは俺と副の真柴が調べ上げた。じきに処分もくだるだろうからそれまで大人しくしているといい。さんざんやってくれた風紀乱しも付加しておこう」

「な……っおまえ!! なんだよそれ!」

「おい宝生。そらどういうことだ。俺は聞いてねえぞ」

「……そうだ、会長さん」


 なにかを必死に喚いている長島くんからつまらなそうに視線をそらした御影が、氷点下の眼差しを今度は会長のほうに向ける。さっきまであんなにえらそうだった会長がすこしだけたじろいだ気がした。

 手が離れる。あっと思った瞬間には、御影がそばにあったコップを取って、会長の頭からさかさまにした。

 ぱしゃん、という音がして、瞠目した会長と冷ややかな御影の視線が交錯する。既に周りは、どんな音も立てていい状況ではないと判断したのか、いやなほど静まり返っている。


「紘にやってくれたからな。頭を冷やせ」

「宝生……」

「会長。俺はあのクソ転入生がここに来るまで、風紀の仕事なんてほとんどやっていなかった。目立つのも騒ぎ立てられるのもきらいだったから、適当にひっそり生活してた。おまえを信用していたからだ」

「……っ」

「おまえなら、この学校をまとめられると思って、すべてを一任したんだ。……俺の目は節穴だったみたいだがな」


 そこで初めて、会長は痛みを耐えるような苦々しい顔になった。喚き立てていた長島くんは、副会長と双子庶務に取り押さえられて口を塞がれているようだ。それでもまだバタバタと暴れている。

 真っ直ぐに会長を見つめる御影の双眸は、厳しくも学校をまとめる者の風格をなしている。ほんとうに、風紀委員長なんだ。


「おまえんところの会計が優秀でよかったな。やつが風紀や生徒たちからおまえらをフォローしていなければ、今頃全員リコール沙汰だ。感謝しろ」

「……」

「もっとも、これが続くようであれば、生徒のためにも会計のためにも俺と真柴が強制的に辞表をつきつけるが。……行くぞ、紘」


 すっかり掴むものをなくしてどうすればいいのか分からなく迷子になっていた手を、再び大きな手が包み込む。


 御影――。


 食堂を出ながら、目の前を歩く大きな背中が、すこしだけ涙で滲んだ。

 だって、あいたかった。ずっとずっとあいたかったんだ。

 久しぶりで緊張する、顔も、見られないかもしれない。すきって実感したばっかりだからかもしれないけれど、すごくすごく恥ずかしいんだ。

 これが、だれかをすきってことなんだ。


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