03
クラスの下駄箱の前で、つまらなそうに携帯をいじる大きな影が見える。間違いなく里央で、十中八九おれを待っているに違いない。授業はたしかもう終わっているはずだ。
驚くことはなかった、よく里央はこうしておれを待つ。近くのファーストフード店に寄って帰ろうとか、罰則の掃除手伝えとかチャリ乗せろとか、大抵くだらない内容で。
(それが、うれしいと思うおれもおれだけど)
ほら、今だって。遠ざけようと避けるのに、向こうから近づいてくるとどこか満ち足りた気持ちになる。
「りお――」
「あれー里央まだいたの?」
すこしだけ高い、はつらつとした女の子の声だった。そのときおれは、自分でも全身が凍りついたのが分かった。
他の子よりもすこしだけ短いスカート、すこしだけ明るい髪の毛、すこしだけぱっちりとした目、すこしだけ小さい背丈。下駄箱を背に携帯をいじくっていた里央にその子が近づいた放課後の風景は、あまりにも綺麗な一枚の絵になっていた。
息をつめたおれは、なぜか、隠れるようにその場に立つ。
クラスの女の子だろうか。里央も合点がいったように「ああ」と片手を上げた。
「今かえり?」
「あーちょっとね」
「もしかして、傘ないんだー! ウケる!」
「しょーがないだろうが。今日天気予報晴れだったし」
楽しげでテンポのよい会話が続く。
また、胸がつまるように苦しい。ほう、と息を吐いて、今度こそほんとうにおれは止まった。どうやって出ていっていいか、タイミングが分からなくなった。下駄箱の向こう、会話が続く。
「あ、ねえよかったら折り畳み傘貸そうか? わたしいつも持ち歩いちゃってんだけど、この間雨予報の日学校に持ってきた傘置きっぱなしでさ。二本あるの」
ちらりと垣間見た、黄色に水玉の傘。小さくて可愛らしい柄のそれを里央が掴むと、その手の中で一層小さく見えてしまう。
「えー、いいの? 実は晃介待ってたんだけどさ、あいついつまで経っても来ないからどうしようかと思ってたところ! さんきゅ!」
だったら、待つなよ、ばか。
どうでもいい小さなイライラが、うずく。黒い煙みたいに、頭の中をかすめる。ぎゅう、と拳を握りしめた。
里央といると、どんどん、小さなことでも苛立つ自分が嫌いになりそうだ。
「ああ、4組の? 晃介くんも迷惑っしょ!」
迷惑なんかじゃない。口では迷惑そうに、しかたなさそうにしているけど、ほんとうはいつだって――。
ガタッ
横にずらした足が当たったのだろう、下駄箱が音を立てる。笑い合っていたふたつの声が、一瞬しん、と静まる。
「んーだれか」
ひょこりと覗いた女の子の顔は見たことがある。里央のクラスに行ったときによくいる女の子だ。名前は覚えていないけれど。不審そうなその子の目がおれを捕えて、ぱっと明るく輝いた。
「て、ああ! 晃介くんじゃん!」
一瞬だけ言葉を失っていたおれは、思い出したように喉を震わせた。すこしだけ上ずった声で、ああ、と返事をする。
普通にしなきゃ。動揺していたって、悟られたくない。悟らせちゃいけない。言い訳なんて、できないから。器用じゃないから。
「あー晃介? おめーおせーよ」
「授業長引いた」
なんでもないみたいに、その輪に混ざった。さっきまで右手に持っていた携帯を閉じたところを見ると、里央がメッセージを送っていた相手はおれだったのかもしれない。
「あ、里央のクラスの子だよね」
「覚えててくれたんだー! 晃介くんは有名だから知ってます」
里央とセットで、ということだろう。人見知りしなさそうなあどけない表情が、魅力的だった。
普通は、可愛いと思うのだろう。物おじしない態度に、愛きょうのよい表情に、好感を持つに違いない。それなのにおれは、その子がすこしだけ怖かったんだ。こんなに魅力的な子が、里央のそばにいることが、怖くて、苦しくて、つらい。
そのときおれは、改めて自分の感情が桁はずれに汚いことに気づいて、愕然とした。
自分が、嫌いになる。
「わたし先に帰るね! バイトだから、急ぎ!」
持っていた置き傘であろうそれをぱっと開いて、その子は手を振りながら颯爽と雨の中走り出した。
(なんか、野分、みたいな人だな)
残されたのは、おれと、里央と、一本の折り畳み傘。
「そうそう、傘ねえから待ってたんだけどさ」
「持ってねえよばか。今日の天気予報晴れだし」
あの子がくれた折り畳み傘を差そうとしたけれど、振り返った里央が、首を傾げる。
「入る?」なんて。
「いいよ、傘、小さいだろう」
あの子が、おまえのためにやった傘だ。
(そんなの入りたくない)
嫉妬するそんな心の声から、耳を遠ざける。なにも聞いていないふりをして、おれは鞄を胸の前で包むように抱く。切るように降る雨と曇天を見上げた。
「おれ、先帰るよ」
「はあ!? なんだよここまで来て、そりゃせめえかもしんねーけど、鞄くらい入れりゃいいじゃん」
「いいよべつに」
これ以上、来るな。
言い訳できない。だから、拒絶しきれない。そんなおれを分かってくれない里央が、おれの腕を掴む。
反射するように、腕を振って逃げた。
――一瞬、ほんの一瞬だけ。里央の動きが止まったのを、見逃さなかった。見逃せなかった。
そのときに確かに変わった空気に、戦慄する。こういう一瞬の沈黙から、おれたちの間には似つかわしくない真面目な話が里央から飛んでくることを、経験から知っていたからかもしれない。
里央のほうを見ないまま、じゃあ、と歩き出すはずだった。そうして、今日も、逃げるはずだった。
「晃介」
だけど、その空気感に気づいていたのは向こうも同じだったようで、先手を打たれるように前に立ちはだかられる。閉じていたはずの小さな黄色い水玉の傘は、また、閉じられていた。
「おまえさ」
「おれ、ほんとう、宿題あるしさ、先帰る――」
「晃介」
おれの名前をおまえがそうやって呼ぶと、おれが金縛りにかかるみたいに動けなくなること、知っててやってるだろう。
おもむろに伸ばされた手がおれの肩に触れて、また、パーソナルスペースに踏み込まれる。
里央は、いつもおれのすこしの隙をついて、こうして簡単にそばまで踏み込んでくる。有無を言わせない早さとたしかな息遣いで。絶対にこちらへ来ると分からせておきながら避けさせない。
結局おれはこうして、動けないまま、ふざけたいたずらっぽい笑顔よりも三、四歳大人びて真面目くさった表情の里央に、絡め取られる。
「……っ」
「おまえ、最近どうした」
「どうした、て?」
「避けてるだろう」
ずっと一緒にいるから、里央が気づかないはずがないって分かっていた。卒業してから会わなくなるからとすこしずつおれが離れようとしていることを、悟られるわけにはいかなくて、気づかれたときにどう言い訳しようか考え続けていた。
それでもこうして真っ直ぐに見つめられると、素直に答える以外には――。
「……っ」
下を向いて黙り込むしかなくて。
おれは、やっぱりなにも言えなかった。頭の中で考えたどんな言い訳も思い出せなくて、結局その視線からも、逃げた。
「関係、ない」
「晃介」
「里央には、関係ない」
おれがおまえをとてもすきで、苦しくて、手が届かないのならいっそのこと離れたいと思うくらいすきで、それでも上手く離れられないくらいすきだということ、それは、里央とは関係ないのだ。
おれの肩を掴んだ里央の手に、力が籠る。すこし痛かった。
「それに、おまえのこと避けてなんかねーよ」
「嘘だ」
「嘘じゃねー。元々こういうゆるい付き合いだろうが」
「はぐらかすな」
うるせえ踏み込んでくんなばか。
おまえがすきで仕方ないんだばか。
雨に打たれて、草間を伝って土にとけて、そのまま消えてしまえたら楽だったのに。どんな雨も、消してはくれない。
そう思って睨むように里央を見上げて、息を飲んだ。
「り、お」
どうしてそんな顔をするんだ。
まるでおれの表情をそのまま鏡にして映しだしたみたいにつらそうな顔して。苦しいのは、おれのほうだけだというのに。
おまえが、おれの様子がおかしいということに対してそんな表情をすることが、苦しくて、それでもほんのすこしだけ嬉しいんだ。
その視線に絡め取られそうになって、やっぱり、おれが先に目を逸らした。里央が真面目な話をしようとするとき、その双眸は真っ直ぐにおれを見る。幼い子どもの視線のように、恥ずかしくてこちらが物おじするような。
それでもおれは逃げなければいけなくて。この気持ちを知られるくらいなら消えたほうがましだと思えるレベルで。だから、おれは逃げた。
なんて言ったのかすらよく分かっていない捨て台詞を残して、半ば強引に里央の腕を肩から抜き去って、雨の中を駆け出した。覚えているのは、駆けた足元に勢いよくかかる雨と、後ろからおれを呼ぶ里央の声だった。
喧嘩したとき。いつも真面目な顔つきで先に謝ろうとするのは里央のほうだった。里央はいつもおれをその強烈な視線で捕まえるから、おれは逃げられない。今までしたどんな話だって、結局はいつもと違い真面目な里央に諭され、吐かされ、和解させられてきた。
それでも、これだけは、逃げなきゃいけないんだ。知られたくないんだ。里央だって、知ったら後悔する。
知らないでいるよりも知ってしまうほうが、元通りのともだちであるおれたちにならなくなってしまうから。
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