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 みっちゃんへの『今から、おれがんばるから』宣言通り、有言実行!ということで、おれは人生で初めて自分の小遣いで参考書とやらを買ってみた。まずは英語をやろうということで、単語と、演習形式の文法書。将来的には長文も読めるようになるのかあ、なんて、書店で首を傾げていた。

 あれ、おれちょっと、受験生っぽいかもしれない。

 参考書を書店でためしに開いているときはまだがんばるぞという希望に満ちていた。

 しかし、嫌いだった勉強があっという間にすきになるというはずもなく。


「もうやだ」


 と根を上げたのは初めてほんの二三日。三日坊主もいいところだった。


 とにかく机に向かって演習形式の文法を始めたのはよかった。しかし元々なにも教養の入っていない頭をほじくったところでなにが出てくるわけもなく、演習の答え合わせどころから答えと解説とにらめっこするところから始まった。高校一年生から培って来ているはずの文法すら、まともに入っていない。

 これではみっちゃんがあのとき項垂れていたのもよく分かる。

 さらに単語だ。これはまず、発音が出来ない時点で数ページも行かなかった。早々に丸投げした。正確にはしようとした。


「なああ、なああ、沙羅あ」


 目の前にある背中を単語帳の門でぐいぐいと押すと、沙羅がなんともうざったそうに振り返る。なにうるさいんだけど邪魔、と言わんばかりの目だ。


「なにうるさいんだけど邪魔」


 やっぱり。


「沙羅って一般?」

「だから勉強してんじゃん」

「さいですか」


 話しかけんなゆとり内部が。この毒舌ならそう言われかねないなあ、なんて思う。沙羅の暴言は親しい人にしか出ないらしいからおれは、一応、親しいのかな。なんかそんなこと言ったらなじり倒されそうだな。


「あ、じゃあさじゃあさ、この単語帳とか結構読める?」


 おれが出した新品の綺麗な単語帳に沙羅は顔をしかめたけれど、中は確認してくれる。


「読めるけど、てか、なんであんた持ってんの。この間から血迷ってんなとは思ってたけど、まさか一般に変えるってほんとうなの?」

「てかあんだけおれが真面目に相談したのに、嘘だと思っていたのが驚きだけどね」

「あんたテスト前だって一夜漬けどころか、朝漬けだったじゃん」

「おっしゃるとおりです」


 返すことばもない。今だって、すでにへたれている。


「やれるだけやってみるよー。おれだって勉強なんてすきじゃないけど」

「あっそ」


 おれの単語帳を取り上げた沙羅が、読み方をものすごい早口で教えてくれる。意地悪だ。それでもかじりつくように開きっぱなしだった前の授業の数学のノートの端にメモした。


「やっぱり、同じ大学には行かない?」


 ペンを走らせながらすこしだけ首を縦に向けたおれの頭を、不器用だけど慰めるように沙羅が小突いた。

 沙羅は、おれの唯一にして最大のなかまだった。同類だった。


「おいおいそこのカップルいちゃつくなよ」


 なんて、おれたちは外野からそういう風に思われているのは知っているけれど、おれだって沙羅だって無理矢理否定することはない。

 そいつらには、逆立ちしたって分からない思いをおれたちは共有していて。


「沙羅あー」


 なんておれが弱々しく抱きつくのは、このひとくらいだ。

 沙羅はおれの気持ちを知っていた。わたしも同じだからと笑って言われたのは、高校入ってすぐのことだ。それからおれは、里央のことを沙羅に話した。


「このまま同じ大学に入ったら、今度は四年間苦しいんだ」

「学部、違っても」

「どうせ同じ大学なら頻繁に会おうってなるんだよ」


 朝待ち合わせしているわけでもない。放課後会おうと約束しているわけでもない。それでもおれたちは気づくといつも一緒にいる。いわば腐れ縁みたいなものが、今すこしだけ辛い。


「沙羅は苦しくないもんね」


 さっきまで撫でていた沙羅の手が一瞬凶暴になって、ばか、とおれの頭をはたいた。


「苦しくないよ。恋なんてしたくない」


 沙羅が持っていた単語帳をおれの元に投げるようによこした。慌てて取ると、わかりやすく発音記号のメモがほどこされている。さっきおれがノートにメモしたものよりも数倍分かりやすい。というかおれのメモは既によく分からないことになっている。


「晃介みたいに辛いなら、したくない」


 もしかしたら、幸せかもよ?

 なんて無意識なことは言えなくて、おれは目を伏せた。沙羅はそれっきりまた前を向いて今度こそほんとうにちょっかいかけるおれを無視した。ひどい。



 授業が終わる頃、雨が降り始めた。


(この間は雨予報が晴れで、今日は晴れ予報が雨、と)


 なんというこったい。ついていない。

 なんとなくチャリの里央と鉢合わせるのがいやで今日はチャリを持ってこなかったのがまたなんというこったい。家まで三十分以上歩くことになる。チャリだと十分ちょいで家につくというのに。


 みっちゃんからの呼び出しも当然ないので、おれはぼんやりと帰り仕度をはじめていた。授業がすくなくなり進路によって帰宅時間がバラバラになる中、教室には既に半数以上の人数しか残っていなかった。


「帰るの? 傘は」

「歩いて帰る」

「あーわたし傘持ってるけど、一緒に帰る?」

「いいよー沙羅は逆方向でしょ」


 それにもう一時間分生物の授業が残っているはずだ。このお人よししまいには貸そうかなんて言い出しかねないので、さっさと移動教室に行かせた。

 鞄を持って昇降口へと出る。どうせなら、走って帰る。七月独特の、生温かい雨の匂いがした。


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