02



『あら、たけちゃん結婚するの?』


 受話器を両手で握りしめながら、お母さんは笑っていた。リビングに広がるお母さんの『そうねえ、適齢期よね。いいひとそうなの?』という声は、耳から遠く離れていった。


『あら、そんなこと言わないで。もう決まったも同然じゃない! ……あら、真夏。たけちゃんが真夏の携帯繋がらないって、家に電話くれたわよ?』


 たけちゃんという存在はおれの生活の軸だったけれど、たけちゃんにとっておれは生活のごく一部でしかない。分かっていたのにどこかでおれはたけちゃんについてすべてを知っていると思い込んでいた。おれと会ったときにたけちゃんが見せているものが、すべてだと。

 だから、油断していた。

 おれの前で女の子の話をしないたけちゃんに、恋人がいるという説を、心のどこかでないがしろにしていた。たけちゃんが「彼女なんていない」と口にしたことなんて、一度もなかったというのに。

 胸が、いたい。

 たけちゃんが、また一歩、遠くへ行ってしまう。



 ラムネがすっかり空になった頃に、目的の場所についた。花火大会に来た人々がこぞって集まるスポットからは離れた、たけちゃんとおれだけの場所。

 すぐ近くの柵の下は海だ。その海の柵を沿ってずっと向こうを辿っていくと人々の集まる気配とぼんやりとした屋台の明かりが見える。その向こうは港だ。

 花火は海の向こうから上がる。おれとたけちゃんがいるところは、打ちあがる真正面ではないのだけど、木々と建物の隙間を縫って奇跡的によく花火が見えるところだ。だれの睦まじい話し声も聞こえない、喧騒もない、静かな場所だった。


「おいおい、そのまま座るな。浴衣汚れるだろう」

「分かってるって。お母さんが持たせてくれたシートあるもん」


 すこし固いコンクリートの上に三人分程度のシートを引く。シンプルなブルーシートはありませんと駄々をこねるおれに言ったお母さんは、小さい頃遠足に行くのにおれが持って行っていた子どもアニメのものを用意していた。

 おまえこれすきだったよなあ、と懐かしむたけちゃんは無視だ。恥ずかしいし。


「コンクリートに座った汚い服であの高級車に乗るなんてだめって言われたから」

「気にしないよ、俺」

「たけちゃんはよくてもお母さんが気にしないの」


 そうかいそうかいと、たけちゃんはめんどうくさそうに相槌を打った。


 子ども向けアニメがでかでかと映るシートにだるそうに腰掛けているだけなのに、たけちゃんは、本当に、とびきり男前だ。


 おれの手の中で、空のラムネの中に入っているビー玉が、ころころと音を立てていた。


「花火、今年も綺麗かなあ」

「去年も見てるだろう。一緒だ一緒」

「なに言ってるのたけちゃん。花火はね、年ごとにどんどん技術が進歩してるんだよ」

「なに花火師なの、真夏」

「ちがうけど、なんとなく綺麗になってってるからそうなのかなって」


 花火師冥利につきる言葉だなあ、たけちゃんがふっと笑っておれの頭を撫でた。


 シートは三人用だ。だから、おれは端っこ。だけどたけちゃんは真ん中。それほど空いているわけではない、ふたりの距離。


「また、子ども扱い……おれ、今年でじゅーはち」

「俺は今年でにじゅーはち」


 たけちゃんはおれを子ども扱いして、パーソナルスペースに闖入する。うれしくて恥ずかしい、そして今日はすこしだけこの近しい距離が切ない。

 そよそよと風が流れている。空に雲はかかっていない。この分だときっと、花火は綺麗だしうまく煙が流れるに違いない。


「おまえさ」


 不意に、前を向いていたおれの片頬に、たけちゃんの指がすべった。


「わっ」


 予測もしなかった突然の行動に、ぴくりと体が固まる。たけちゃんは気づいているのかいないのか、構うことなく綺麗な指を頬に滑らせてくる。すこしだけくすぐったい。触られた頬も反対の頬も、か、と熱を持つ。


「汗、かかないよなあ」

「かくよ! 今日は涼しめだからだよ……っ」

「そうかあ?」


 うう! ばかだたけちゃん! 手を離して! いややっぱり離してほしくはない!

 なんていう葛藤を繰り広げていたけれど、その手は案外あっさりと離れていった。


「俺は今だってかいてる。汗くさくない? なんか、ベタベタしてるかな……」

「してない! たけちゃんいつも涼しげだし。顔が」

「顔か」


 花火、もうそろそろかなあ。

 横を向くと、丁度こっちを見ていたのであろう、たけちゃんと目が合う。あ、今日、初めて目が合った気がする。


(なんだろう、緊張しているのかな、おれ)


 やっぱりなんだかんだいっても、どきどきしているのだ。当たり前だ。こんな日だもん。

 心臓の音とか、たけちゃんにはすべてが聞こえてしまってそうだ。

 たけちゃんの真っ直ぐな双眸に射抜かれて、目が離せなくなる。漆黒の瞳にはきっと、とんでもなく情けない顔をしているおれが映ってるんだ。


 ――心が、さらわれてしまいそう。


「たけちゃん」

「なに」


 無意識のうちに伸びた手が、たけちゃんの方に伸ばされる。

 もうすこしで、おれの恋は散る。それなら。


「汗、かいてないなら」

「なに」

「さわっていい?」


 いいよ、と言われる前に、たけちゃんの頬に触れた。汗のしずくやべたつきからはほど遠い、精悍な顔立ちにふさわしいなめらかな肌。


「まだ、いいよって言ってない」

「たけちゃんもおれに許可取ってない」


 おれの目の前にある大きな体は、もう、だれかのものになるんだ。きっとおれが無断でさわっていいものじゃ、ないのに。

 さわりたい、さわってほしい、なんて、無邪気で若い欲は、留まるところを知らないみたい。

 視界が、ぱっと、明るくなった。続くその音を聞くか聞かないか、それくらいのうちに、おれの手ははっとしたようにたけちゃんの体から離れる。そのまま、静かに下ろされた。


「ごめん」


 なにやってるんだ、おれ。未練たらたらじゃないか。

 たけちゃんと目を合わせられず目の前を向けば、最初に続くように一気に数々の色の花火が打ちあがっていた。


 ひゅるるる、なんていう喉を空気が通るみたいな音と、ぴくりと肩が跳ねるようなぱん、という音。それが、重なるようになって、空を真昼みたいに明るく照らす。

 左にそびえる高層な建物が、花火の光に当てられてキラキラと輝いているみたいで、綺麗だ。


「今年も、ばっちりだな」

「うん」


 赤、青、緑、まばゆい黄色――。ちらりと一瞥した先には、そんな花火の色に照らされたたけちゃんの顔がよく見える。


「たけちゃん、綺麗?」

「そりゃあなあ。花火なんて今日くらいしか見に来ないし。やっぱり年一回は見に行くもんだなあ」


 来年から、おれは、きっと一緒に見られないよ。だってたけちゃんはきっと来年、新婚で奥さんと来るんだ。ここじゃなくてもっと大きくて都心の五千発くらい上がる大きな花火大会に、来るんだ。再来年とかその先とかは、小さな子どもも連れて来るんだ。

 おれはそこにいない。

 ぎゅ、と唇を噛みしめた。


「たけちゃん、あの」

「ん? どうした」

「今日おれ、たけちゃんに言わなきゃいけないことあって」


 たけちゃんが花火から目を離して、こちらに顔だけ向ける。言うって決めたのに、台詞やシチュエーションまでちゃんと考えたのに、おれは顔を上げられなかった。

 ぎゅう、と浴衣の袖を握りしめる。


「あの――」


 はじめて会ったときから、おれは、たけちゃんに恋をした。

 告白さえ出来ずに言い逃げするおれを、だれかが責めるだろうか。


「あの、えっと」


 男を見せろ。おれ。今だろう。

 顔を上げてたけちゃんを見ると、たけちゃんのほうは花火に顔を移していた。その横顔が、明るい花火の光に色づく。


「けっこん、おめ――」


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