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「真夏ー、ちょっとまなつー?」


 階段の下、一階の玄関付近から、いつも通りの声色でお母さんがおれを呼んでいる。遅刻するわよ、ご飯出来たわよ、あんた見たがってたテレビもうやってるわよ。

 だけど、おれの耳に、今日のお母さんの声はいつもと違うみたいに聞こえる。


「真夏、支度出来てんでしょー! 早く下りてきなさい!」

「わかってる!」


 部屋の一角。鏡を片手に髪の毛のセットを確認。二度。それから深呼吸。携帯と財布を持って、いつも通りを装いながら階段を下りた。

 ふくれっ面のお母さんが、玄関で腕を組んでいる。


「いつからそんなに準備に時間かかる子になったの」

「うるさい、忘れ物してたの」

「はいはい。もうたけちゃん来てるわよ? 高校生だから遅くならないようにね」


 おれの頭をぽんと撫でようとしたお母さんは、だけどすこしだけ考えるようにして、そっとその手を下げた。ふふ、と笑う。


「せっかく綺麗にセットした髪だもんね。浴衣も」

「う……いいじゃん。いってきます」


 笑顔のお母さん。踵を返して、玄関を出た。お母さんがどこまで知っているのかは謎だ。

 たけちゃんと毎年八月末の日曜日に行われる花火大会に行くようになったのは、おれが十歳、たけちゃんが二十歳のときだ。たけちゃんが彼女と別れた年にじゃあ行こうよとおれが誘って行くようになってから、毎年なぜか暗黙の了解のように八月末日曜日のたけちゃんはおれのものになった。


 結婚、おめでとう。


 三五〇〇発の花火の中、そう笑って伝えるおれを、頭の中に思い浮かべる。大丈夫。

 おれは今日、十八年間思い続けた恋に終止符を打つのだ。


夏 に 恋 い ろ 。



 一般庶民の家の前に止まるにしては随分ごたいそうな高級車(お母さんいわく)の中、ちらりと見えた先には、いつも通りだるそうに窓を開けて外を見ながら、たけちゃんが煙草をくゆらせている。


「たけちゃん!」

「おー」


 気づいたたけちゃんが煙草の火を消すと、助手席のドアを開けてくれた。乗り込むと、驚くほど柔らかいシート。これが高級車か。おれには、全然分からないけれど。


「煙草、別にいいのに」

「子どもに煙なんて吸わせませんよ」


 シートベルトをしているおれの頭を、たけちゃんがするりと撫でた。そのまま長い指がエンジンをかける。驚くほど静かに車は動く。

 たけちゃんはおれが幼い頃から懐いている王子様だ。王子様なんて乙女チックななんていつも思うけれど、その呼び名はあながち間違いでもないのだ。

 たけちゃんの家はおれの家みたいに庶民のアパートや古くさい一軒家がひしめく、昔からあまり景色の変わらない住宅地ではなく、ふた駅先の都会の一角にある。何度か行ったことがあるが、小さなおれにとってたけちゃんの家は迷路のように広く、触ってはいけないもののように綺麗だった。たけちゃんの両親は大きな企業グループのトップであり、たけちゃんは後継ぎとなる長男だ。

 とお母さんから説明を受けてはいるが、気さくなたけちゃんからあまりそんなごたいそうな空気は感じない。小さな頃から知っているからだろうか。

 運転席でハンドルを握りながら前を見るたけちゃんを、ここぞと言わんばかりにチラチラと見る。いつもあまり見ていると不審がられるだろうから。

 一度も染めたことのない黒髪は、傷みを知らずさらさらと流れている。面持ちは一見きつそうな目つき、というかすごく凛々しいのだ。すっとした鼻に、男らしい切れ目、薄く色づく唇。たけちゃんは今までおれが見た男の中で一番セクシー、一番かっこいい。


(今日のたけちゃんもかっこいいなあ)


 いけない、またたけちゃんの顔に穴が開くのではないかというくらい見つめていた。我に帰って、おれも前を向いた。空は薄暗くなってきている。


「宿題、終わったのか?」

「う……たけちゃんお母さんみたいなこと言わないでよお。もちろん終わった」

「エライエライ」

「褒め方もお母さんみたい」


 子ども扱い。

 そもそも高校に上がってからは、たけちゃんが「宿題終わらなかったら花火連れて行かない」なんておれを脅しているじゃないか。それで、おれが宿題を終わらせると思っているのだろうか。否、おれはその脅しのため昨日までひいひい言いながら数学のプリントを埋めていたのだけど。


(低い声も、すきだなあ)


 たけちゃんの低い声は、男らしいのに、どこか安心する。今日はすこし、どきどきする。

 そしてセンチメンタル。

 今日が終わったら、おれはもうたけちゃんとは遊ばない。

 元々小さな頃からたけちゃんたけちゃんとその後をついて回り、連絡を取ろうとするのはおれの方だった。たけちゃんははいはい、と応じていたのだ。


 だから、これで、終わり。


 結婚おめでとうって言うんだ。そうしたら、たけちゃんきっと、ありがとうって。やさしいから、しばらく忙しくなるけどごめんって言うのだ。たけちゃん、就活のときもそうだったから。

 だけどおれは首を横に振る。もうしばらく、会わないと。おれ、受験だしそろそろ頑張らなきゃ第一志望受からないから。模試の判定もよくなかったからって。


 何度も何度も、頭の中で反芻した言葉たち。


(おれ、大丈夫だ)


「ねえねえたけちゃん、ビール飲みたい」

「飲んだことないくせに、ある口振りで言うな」

「えー、なんか飲みたくなったんだもん」

「ビールはありません。真夏にはラムネ買ってやる」

「う。しょうがないから、買われる」

「すきなくせに」


 今日おれは、大人になる。たけちゃんとの恋に終止符を打って、一歩大人になって、次はこんな苦しい不毛な恋じゃなくて、女の子とのキラキラした恋をする。



 駐車場に車を止めてから、おれとたけちゃんはいったん人ごみの中に向かった。きっとおれにラムネを買ってくれるのだ。たけちゃんはいつもそう。

 いったん、というのは、おれたちが花火を見るのが人ごみの中じゃないということで。


「うわあ、浴衣の女の子、キラキラしてるなあ」

「おまえはいいよな。そうやってあらゆる女の子をじっとり見てても、向こうは犬に懐かれるかもくらいにしか思わないんだから」

「ねえ、ちょっとそれそういう意味デスカー」

「おまえが可愛いから対象にならないってこと」

「う……タラシはげ。たけちゃんは女の子見ちゃだめなの?」

「俺は年が年なので犯罪です。あとはげてねえから」


 たけちゃんはすごい馬鹿だ。おれがなにも思わないのだと思って、可愛いなんて言うから。

 どきどきするのに。嬉しくなるのに。もっとたけちゃんがだいすきになるのに。


「ラムネひとつ」


 並んだ屋台で当たり前のようにたけちゃんがおれの分も頼む。大きな氷水の中に浸かったラムネが取り出されて、大雑把に拭かれる。手渡されたそれはひんやりと冷たかった。毎年この場所で、たけちゃんは一本だけラムネを買う。

 夜はすっかり深くなりはじめている。真上にあるやけに明るいライトが氷水をキラキラと照らしていた。夏だなあ、と、こういうときおれは思う。

 夏の、終わりだなあ。と。


「ありがとー」

「はいはい。なんか食う?」

「んーいらない」


 数少ない屋台は人々の激戦区だ。ひしめき合うその中に入ろうとは思えない。それはたけちゃんも同感だったようで、「だな」とひと言だけ言いそこから離れる。


「おなかすいてないの?」

「おまえ屋台で買うの嫌がるだろう。だろうと思ったから食ってきた」

「そっかあ」


 それだけで、おれの胸はすこしだけ熱くなる。夏のうだるような肌をさすそれじゃなくて、心が満たされるようなあったかさ。

 たけちゃん、去年のことも一昨年のことも覚えていてくれた。うれしい。だいすき。


「ラムネを開けてください」

「ガキみてえ」

「おれがやるよりもたけちゃんがやるほうが上手い」


 ラムネを開ける小さなぷし、という音のあと、コトリという涼しげなビー玉の音がした。

 しゅわしゅわと音を立てるそれを受け取ったおれに、いじわるな顔をしたたけちゃんがちょいちょいと後ろを指さす。見ると、おれよりも半分以上小さな子どもが、お父さんであろう男の人におそらく買ったばかりのラムネを渡していた。

 ニヤニヤと笑うたけちゃん。


「ばか!」


 おれはもう、ガキじゃない!


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