03
「すみちゃん、ねえねえ」
ぐいぐい、と袖を引かれた。黒目がちで、真っ直ぐな風太の瞳が、こちらを上目づかいで見上げている。その奥には、隠しきれない不安が広がっている。大丈夫、と笑って、つるつるとした髪の毛ごとその頭をひと撫でした。
「ごめん、ぼーっとしてた」
「ぼーっとしたすみちゃん、怖かったよお」
「ごめんごめん。それでね、風太。すこし先生とふたりで遊んでいて。おれ、ちょっとあそこに行ってくるから」
風太の体を引き寄せて、小さく耳打ちする。顔を放すと、さっきとは打って変わって満面の笑みを浮かべた風太が、白い歯を見せて頷いた。
小さな背中をぽんと叩いて先生の元へ行かせたおれは、素早く目立たないように踵を返して、さっきの入り口付近まで戻る。入り口のゲートに隣接するように立っていた花屋には、だれもいない。それはそうだろう。公園で散々花を堪能したあと、その花を買っていく客なんて酔狂じみている。
奥のカウンターで肘をついて本を読んでいた店員が、おれを見て、あっと声を上げる。
「すみません、先日お電話させていただいた澄田というものですが」
「あ、ええ。聞いていますよ、お花、ご注文の方ですね。ちょっと待っていてください」
よほど客が訪れることがすくないのだろう。おっかなびっくりだなあ、というような感じで店員が奥に引っ込んだ。
小ぢんまりとした店内には、よくもまあこれだけ置いたなあというくらいたくさんの花で溢れ返っている。そして、売れている感じも全くない。
ガサガサという音と共に店員が現れる。
「注文、こちらですよね。白いチューリップ」
「はい」
「一本でいいんですか」
「はい」
店員が不思議そうに、財布を漁っているこちらをしげしげと見てくる。
「あのお……これは、誰かにプレゼントですかね」
「あ、えっと、はい」
「そのひと、白なんですか」
歯切れの悪いそのひとの声に、はあ、と答える。店員がチューリップを包む手つきは、やや重たい。
「白のチューリップは、贈りものには不向きなんですよ。えっと、売っているこちらがいうのも僭越ながら。花ことばがちょっと、味気なくてねえ。……そこのへんにある黄色や赤だともうすこし前向きというか情熱的というか、そういう花ことばなんだけど」
――ぼくのせいで、ママいなくなっちゃったの……。
風太の泣き顔が甦る。嗚咽で上手く口が開けないながらも最後まで教えてくれた、そのこと。きれいに咲いていた白のチューリップを、ふたりにあげてしまったこと。
――ママ、すごくおこった。ぼくかなしくて、ないたらまたおこって。おこりたいのはママだよって。パパはおれをなだめてくれたけど。ぜったい、ママ、だからぼくのことおいていっちゃったんだ。
「『失われた愛』なんて、だれがつけたんだかねえ」
「知ってるんです」
店員が、へ、と、思わず手を止めておれを見た。千円札を出しながら、もう一度繰り返す。
知っているんだ。だからこそ、この花じゃなきゃ、風太の心を元気にしてあげられない。
札を出す指先が、震えた。
「そう、ですか」
風太の心を、癒してあげたい。きっと昔、何百回も風太の「ママ」がしてあげたことを、すこしでもいいからおれがやってあげたい。なんて、浅はかな考え。
思いのほか遅くなってしまった。さすがに先生も不審がっていることだろう。すこし小走りでチューリップを持ちながら丘の方へ上がっていく。丘のてっぺんに続く辺りには、ちらほらとひとが歩いているだけだ。
緊張で、指先から体が真っ白になってしまいそうだった。
風太の目の前で、先生と一緒にいることを約束する。それが、おれが風太とした計画だった。ばかばかしいおれの誘いに、信じられないくらい素直に風太は乗ってくれた。
(風太のせいじゃない)
教えてあげたかった。小さい体でなにもかも溜め込んで我慢していた風太に、おまえのせいじゃないって、ただそれだけ教えてあげたかった。
「すみちゃんっ」
トリップしていたのだろうか。
どん、という衝撃音。おなかにぐるりと回った手。ひっついているのは。
「ふ、うた?」
ぎゅう、と子どもながら驚くほど強い力でしがみつくように抱きつくのはいつものことだが、風太の顔が押し付けられているおなかは、すこしだけ湿っぽい。
「どうした」
片っぽの手で、あやすように撫でてやる。そういえば先生は――。
どうやら風太はおれのいるところまで走ってきたらしい。先生が、向こうからのろのろと追いかけてくる。その顔はさっきと同じく困惑に満ち溢れているが、すこしだけ――。
「すみちゃん」
すこしだけ、暗い。笑みを浮かべているのに、口元はいつもみたいにしあわせそうじゃない。ちっとも。
「探しました。こんなところにいたんですね」
いつもよりも沈んだ空気を纏う先生と、目の前でおれに向かって顔をくっつけたまま動かない風太。
「先生、えっと、風太は――」
「すみません。すみちゃん」
おれのお中に手を回したままの風太が、弱々しく首を横に振った。なにか呟く。聞き取ろうとする前に、先生が追い打ちをかけるように言った。
「悪いのだけど、今日はもう帰りましょう」
「え――……」
風太にもそう言ったんだけど、この通り、ちょっと手がつけられなくて。先生が能面みたいな顔で苦笑する。その奥に、たしかにここを去りたいという意志が宿っている。
ああ、先生はほんとうに。
ペラペラといつものように、だけどいつもと全然違う明るさで喋る先生に、風太の頭に置こうとした手がこわばる。一気に体が冷えきっていくみたいだった。
「お、おれ、……ない」
「風太?」
くぐもった風太の声。もう一度、と促すように肩をぽんと叩くと、温かい子ども体温があっという間に離れていった。
「ぼく、おれかえらないよ! すみちゃんとパパがいっしょになるまで、かえらない!」
おれと風太の間に開いた距離に、すぐに風があざ笑うように通りすぎていく。先生に向けて言うや否や、目を見開いて動きを止めたその体躯の横を、素早く走り去っていく。手を、伸ばすのも忘れてしまった。
はじめて、だった。
まだ七歳とは思えないほど思いやりに満ちたあの穏やかな風太が、何かのために激昂するなんて。
子どもながら一生懸命なのか、どんどんまめつぶのように小さくなっていってしまう風太に、手を伸ばす。追いかけようと走り出そうとして、未だに茫洋としたまま視線を彷徨わせている先生に気づく。
その表情に、さっきまでの作り笑いはどこにもなかった。
「先生」
「……」
「先生は、肝心なところで鈍感過ぎる。それに、……弱虫」
風太のために言った最初のひとことと、他でもないおれのエゴのために言った、蛇足。
それでも、今は、あんな先生のそばにいたくはなかった。きっと、きっと風太も同じ気持ちだったんだ。
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