02



     *



 くしゅ、という声が後ろから聞こえた。おれに靴を履かされていた風太も、無邪気に不思議そうな顔で先生を見上げる。


「うう……」

「先生って、花粉ですか」

「うん。だから、外はいやなんです。鼻がむずむずして」


 先生と過ごす春は、初めてだ。ガラ空きのメモリに「先生は花粉症」を上書きする。それでもまだ書かれた情報は驚くほどすくない。


 年齢と性別と、誕生日とおおよその人柄。敬語がすきなこと、風太を愛していること、わりとやきもちやきなこと。先生という姿は、おれのなかで、まだおぼろけに輪郭をかたどったままな、そんな気がする。


「だからって、外に出るのをやめていたらだめですよ」

「そうだよお。パパニート!」


 楽しげにパパニートを繰り返しながらぴょんぴょんと跳ねる風太。ニート呼ばわりされた先生が、情けない顔をする。


「こおら。パパは可愛いおまえのために働いているんです」

 そんなことを言いながらも、風太にせかされて家の玄関を開ける寸前、ちらりと見上げた先にあった随分近くの先生の瞳は、すこしだけいやそうに細められた。


「いってきます!」


 風太がだれにともなく、そういって、玄関を抜ける。外はぽかぽかと日だまりが温かい。玄関を閉める先生に「鍵、忘れないでね、先生」と呼びかける。

 以前十八になってすぐの頃に先生に「免許を取りたい」と言ったが、とりつくしまもなく却下された。運転は先生、後ろの席におれと風太。

 それでいいでしょうと、いつもの先生らしくなくすこし強めに言われて、すごすごと引き下がった。いつも運転する先生に悪いと思ってのことだったので、すこしだけへこんだ。


 そのときも風太は「ぼく、すみちゃんといっしょでドライブがいい!」ときゃっきゃ笑っていた。あとで先生には「気を使わなくていいです。僕、運転するのすきですし」とこっそり宥められた。

 先生が運転席に乗り込む。


「風太、シートベルトしなさい」

「もうしたよ!」

「すみちゃんも、しましたか」

「したよ! なんでおれまで子ども扱い!」


 エンジンをかけた先生が振り向く。その顔には、フレームのついた眼鏡。運転のときだけはつけるように言われるくらいの、先生の視力。悪くなく、しかしよくもなく。


「それで、今日はどこへ行くのかな。小さな王子様」


 風太の目が輝いた。あのね、ときらきら笑みをたたえる。



 小さな数台だけの無料の駐車場に、驚くような早さでぱっぱと車を止めた先生は、どこかぼんやりとしながら辺りの景色を見ていた。

 風太が告げた行き先に、先生はカーナビの操作をしなかった。オーケー、と読めない声の調子で行ったあと、どこかそわそわしはじめた風太とおれを連れて、迷いなく車を走らせていた。それくらい、鮮明に覚えているということなのだ。


 近くの大きな公園のような場所。

 入場料はないが、主張しすぎない小さな募金箱が置かれている。そこには資源の管理のため控えめに協力を求める文字が、つらつらと並べてあるらしい。


 車のロックが解除されるなりぴょんと跳ねるようにして外に踊り出た風太は、どこかそわそわしている。おれも反対側からドアを開けると、ふわりと花の匂いが風と共に舞ってくる。

 気のせいか。いや、違う。


 たくさんの種類の花が一様に交じり合った、ほんのり甘い匂い。春の、匂い。

 歩きだす風太に続いて、先生がその後を困惑したように追っている。先生の混乱が、手に取るように伝わってくる。きっとなぜ今更と、そう、思っているのだろう。


 先生は考えている。


 昔のこと、そしてなぜ風太が今更ここに来たいと言い出したのかについて。


「まいったなあ」


 何気なしに言ったのだろう、不安を滲ませた先生のひとりごとが、風に寄せられて不思議なほどはっきりとおれの耳に入ってくる。きゅ、と拳を握りしめた。

 胸が不規則に音を立てる。だけど、落ち着かせるようにすう、と息を吐いた。


 先生や風太があの家にかつていたのだろうもうひとりの存在を、そしてその匂いを、すこしもおれに気づかせようとしたり語ったりすることがないのは、暗黙の了解だ。それはもう、不自然なほどに。

 だからおれは、先生の奥さんに対する愛の深さを目にしたことはない。

 惚れた欲目で見なくたって、先生の容姿はひどく整っている。風太がどちらに似ているのかはよく分からないけれど、可愛らしい顔立ちをしているところを見ると、きっと奥さんもきれいなひとであったのだろう。


 そう、奥さんに対する先生の思いは知らない。二人がどんなふうに愛し合い、どんなふうに愛を誓い、暮らしていたのか、おれはなにも知らない。

 だけど、いつまで経っても埃ひとつ立てず綺麗に整う部屋の調度類や、時間をかけて色々な店を探し回った末ここへ置くことを決めたのだろう壁時計や本棚、そしてそれらのひとつひとつが未だに時を止めたように残されているという事実が、全てを物語っている。


 先生に必要とされながら、時々震えるように寂しくなる。一番近くにいながら、泣きたくなる。

 先生の愛はもう、かつてあの部屋で暮らしていた女性に全て吸いとられて、なくなってしまったのではないのかと。

 不思議なほど濃く残るそのひとの影が、おれを惨めにさせる。


 わかっている。


 男で、年下で、やさしい先生を半分強引にたぶらかすようにしてちゃっかり家へまで転がり込むようになっただけの存在のおれが、勝てるひとじゃない。そんなの。


 先生はやさしい。壊れ物を扱うようにおれに触れ、話しかける。だけどその内側は、ガラス細工のように繊細だ。

 大きい図体して、ただほしいものをなくした子どものように、おれに癒されたくてしょうがないだけなのかもしれない。


「すみちゃあん! おはないっぱいだよ!」


 入り口を抜けると、一面にそれぞれが赤や黄、青、紫を彩る花々が映し出される。奥まですこしずつ坂のように上がる丘のようなそこは、上りきる先までが花で溢れ返っている。

 さすがに、春はすごい。

 追いかけようとすると、いつの間にか隣にいた先生に腕を掴まれる。見上げると、いつもよりもすこしだけ笑顔を崩した先生が、おれを見下ろしている。


「すみちゃん、この場所のこと――」

「すみません。風太に聞きました」

「……そっか」


 先生の手は、力なく離れた。なぜだか風太のそばにいたくて、すぐに小さな背中を追いかけるように踵を返した。


 赤、黄、青、紫の花が、それぞれ一直線で丘の上を目指している。驚くほど整備された美しい花畑に、なるほどと頷いてしまう。

 さっきの庭の入口にあった募金箱が、設置されるわけである。


 こんな素敵なところに昔、先生と奥さんが来たんだ。いや、もしかしたら風太が生まれる前にふたりで来たかもしれないなんてこともあるんだ。



 開けた視界の中、強さを増した春風が、ふわりとおれの横を通り過ぎていく。

 そんな風に運ばれるようにして、不意におれの横を小さな、小さな風太がおぼつかない足取りで抜かしていった。


 ふうた、そう呼びかける前に、今よりももっときらきらの顔をした風太が、おれの後ろに視線をやる。


 ――ママ、こっちだよお!


 続いてふわりと甘い香りがする。風に髪をなびかせた細身の女性が、慌てたように風太の後を追った。


 ――ふふ、風太はせっかちさんね。それで、パパはのんびりさん。

 ――待ってって、もう。


 微笑みあいながら丘を目指して、風太を挟んで三人手を繋ぐように横並びになって歩きだした後ろ姿、耳を襲ったびゅ、という風の音とともに一瞬で儚く消えていく。

 だけど脳裏に焼きついてしまった幻影は、今のおれたちよりもずっとずっと、自然で、愛おしい日々。


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