01



 春の朝だ。昨夜から開けっぱなしのカーテンから覗いた風が、おれの髪の毛を無邪気に揺らす。やさしい光が隙間をぬうようにして、ぽかぽかと照らしてくれる。そんな、日のすっかり上がりきった時間に、目が覚める。

 まどろみの中ですり寄った先には、昨夜よりも随分小さくなってしまった体。すうすうと上下する体から発される熱は、まぎれもない子どものそれ。

 慌てるように意識が覚醒する。


 体に手を這わせると、昨日の夜寝る前に着ていたパジャマとは違う、すこしぶかぶかのティーシャツとズボン。この分じゃ、パンツもきっとおれのではないだろう。洗濯機でぐるぐると回っているだろうおれの服を想像して、はあ、とため息を吐いた。

 温かい風太の子ども体温にすり寄る。まだ春先だというのに、風太は呑気におなかをだしたまま深く眠っている。寒そうな素振りすら見せない。

 蹴飛ばされたタオルケットを引き上げるようにして、そうっとその体を抱きしめようと手を伸ばす。



 ――と、背後からぐいぐいと引っ張られて、背中が大きな体にぶつかる。風太に伸びていた手はそのまま、目の前に回ってきた両手に折り畳まれるようにして通せんぼされた。


 せんせ、と掠れた声はそのまま、被さってきたすっかり目を覚ましたようなしゃっきりした声にかき消された。


「ずるいなあ、風太。僕は放置ですか、すみちゃん」

「先生、子どもみたいなことしないでよ」

「いたいけな大人の嫉妬を甘く見ない方がいいですよ」


 もう、すぐ風太の方に行こうとするんだから。

 そんなことを言いながら、おれの首筋に顔を埋める先生。拗ねるみたいに。


 そういうところが、実年齢よりも子どもに見えるんだって言いたいけれど、可愛いから別にいいやなんて思うおれは先生にとびきり甘い。


「いつ風太入ってきたの」


 タオルケットを肩までかけてやって、ぽんぽんと撫でてやる。


「夜中。僕の足を踏んでわざわざ奥側に行って、すみちゃんのそばで丸くなってました」

「それは……可愛いな」

「まあそれはそうなんですけどねえ」


 変なところ、僕に似ちゃったな。ぽつりと先生が耳元で零した。どういう意味だろう。


「ていうか先生」

「うん?」

「このまま二度寝決め込むつもりですか」

「え、バレました?」


 ぐるりと体を反転して、先生を見る。ほんとうに二度寝する気だったらしい、すっかり力を抜いたような顔をしている先生が目の前いっぱいに映る。近い、離れようと思うよりも先に先生の足がおれの足に絡む。


「きょ、今日は出かけるっていったじゃん。放してよ」

「えー。やだなあ、ずっとこうしていたい」


 ぎゅうぎゅうと抱きしめられる所為で、古いダブルはぎしぎしと重量オーバーを訴える。その音が安眠を妨げるには十分だったのか、背後で「んう……」という可愛らしい唸り声が聞こえる。



 首だけ後ろにやると、風太がぐうっと伸びをして、目をこする。それから、ぼんやりとおれを見た。


「あ、すみちゃんだあ。おはよう」

「おはよう風太」


 風太がおれの方へすり寄ってくる。そこでやっとおれの背中に頑なに回されている手に気づいたらしい。おれの肩の向こうを見て、あ、と思い出したように呟く。


「パパもいたの」

「む。なんだそのおまけみたいなのは」


 本気で拗ね始めたらしい先生が、おれの体の向こうにある風太の顔に手を伸ばして、その鼻をぎゅっと摘まむ。風太がふがふがと、抵抗するように転がった。スプリングが、いっそう軋む。

 いたあい、やっと放してもらえたみたいで、風太が甘えた声でおれにすり寄ってくる。背中に回された先生の手を邪魔といわんばかりにどけようとするが、先生は相変わらずおとなげない。


 風太のパパは正真正銘、先生だ。

 おれは風太のパパじゃないし、まして風太のママでもなく、先生の奥さんでもない。


「風太。今日出かけるって行ったのに、先生がいやなんだって」

「そなの?」

「うん。だから風太助けて」


 そう言うと、風太の目はさながら日曜日になると張りついて見るテレビの奥にある戦隊ヒーローのように輝いた。まるで、悪者でも見つけてしまったみたい。


「パパああ、かくごしろお!」

「うわあ……参りました」

「先生早過ぎだから」


 先生の拘束が緩まった隙に、腕の中から身をかわすように逃げる。ほぼ同時くらいに、成長期は遠い先らしい風太の小さな体が、先生の大きな体に飛びかかる。


「ぱんち! きっく!」

「いたいですー風太さんー」

「へっとろっく!」

「うわあもうしませんー起きますー」

「らりあっと!」

「……ちょっとちょっとどこで覚えてくるのその技の名前は」


 いつも戦隊ヒーローがやっている必殺技が出てくると思っていた先生は、面食らったように意味も知らないまま名前だけを連呼してくる風太に目をひんむいていた。

 朝(もうきっと昼近いが)から騒がしい親子を置いて、おれは寝室を出た。奥ではまだじゃれついている。なんだかんだいって、仲いいんだから。


 リビングのカーテンを開けると、春の青空が広がっている。絶好のお出かけ日和だ。

 風太もきゃはきゃはと楽しそうに笑っている。そう、今日も笑っている。


 数日前、初めて風太の泣き顔を見た。


 『すみちゃん』と小さく震える声でおれを呼んだ風太の泣き顔は、我慢の限界を超えて溢れたような痛々しいものだった。不安げで、それでいてなにかを切々と訴えるような。

 怒られる寸前の、子供のような顔。

 それでも言い訳なんて一切なしに、どこまでも馬鹿正直におれに放つ告白。


『ぼくのせいで、ママいなくなっちゃったの……』


 奥さんと別れる前の先生を、おれは知らない。先生と出会った一年前、かれは既にバツイチ子持ち、それなのに自分の身の回りのことすら自分でできないで途方に暮れた大きな子どもだった。

 先生と奥さんが別れたのは二年前。

 もう記憶も風化してしまってよく覚えていないんだと、いつも先生は奥さんの話題を避ける。だから風太も小さいながらそんな空気を感じ取って、おれに自分の母親の話をすることはなかった。たったの一度だってなかったのに――。


 飽和状態もぶち破って溢れた涙とともに、風太の話を聞いたのは数日前。


 先生と風太は、未だにえぐられたままむき出しになったそれにただ殻を付けただけの傷を持っている。


 先生のパジャマ。先生が用意したお客様用のマグカップ。いつも使い捨ての歯ブラシ。先生が使っていたエプロン。

 この家に溢れるのは先生と風太の生活だけ。よそ者のおれのものは、なにひとつ置かれていない。

 薄々感づいていた違和感が、風太の涙声と共にはっきりと浮き彫りになる。


 先生は風太と自分と同じ距離に、ほかの誰も近づけようとはしない。



『じゃあ、こうしようか。風太』


 すこし考えて思いついたおれの誘いに、出しっぱなしの蛇口のように止まらなかった風太の涙が、わずかに勢いをなくした。やがて、赤い目が期待するようにおれに向く。

 ほんとう?と、首を傾げた。


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あきゅろす。
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