06
*
心地よい揺れと、チチチ、という小鳥の鳴き声。眩しい陽の光の闖入を錯覚して、目を開いた。そのくらい、開いた視界はまぶしい。くたりと弛緩した体に両手が回されて、しっかりと広い胸にもたれかからせられている格好が、とんでもなく恥ずかしいものであることに気づく。
あんなにもおかしくなっていた体は、いくらかよくなっている。
「……南方、さま?」
眠っていたのか、気を失っていたのか、そんなぼくを南方さまが見下ろして、いつもみたいにやさしく微笑んだ。
南方さまの後ろには、待ち望んでいましたといわんばかりにこぼれる木漏れ日と、涼しげにぼくと南方さまの体を覆う木々。
森、だ。
「目が覚めたんだね、雨衣」
「南方さま」
「うん?」
目が覚めたばかりだからだろうか、まだ幾分かだるい手を上げて、南方さまの頬にさわる。
「怪我、していない?」
「うん」
「矢が、たくさん南方さまに向けられていたけど」
「大丈夫」
おかしそうに、南方さまが笑った。
起きぬけ最初がそれか、って。雨衣は私の心配ばかりだねって。
やがてさあ、と気持ちよく風が通る湖のほとりまで来て、面している木に寄りかからせるようにして、ぼくの体を下ろしてくれる。
すう、と深呼吸する。やっぱり、森を出ていたときに感じた苦しみはなくなっている。
そばに腰を下ろした南方さまが、ぼくの顔を見下ろした。
「どこか、苦しいところは、もうないかい」
「うん……」
「そう、よかった。雨衣」
美しかった、大きな翼を持つ龍じゃない。瞳の色だけ同じ紺碧に輝いているいつもの姿の南方さまの顔が、すこしだけ柔らかく笑った。いつものへらっとした笑顔じゃなくて、ちょっとだけ元気がない、哀しそうなそれに、心が波打つ。
「嘘を吐いたね。なにも、なかったって」
あの夜、祠で言ったひとこと。やっぱり、南方さまは初めから気づいていたんだ。
「ごめんなさい。ぼく、あの」
言いかけたぼくの唇に、南方さまがやんわりと待ったをかけてくる。
「謝らないで、雨衣。私の方が、きみにとても大きな隠し事をしていたんだ。ぼくが悪いよ」
「……っ」
知っていたんだ。南方さまは、ぼくが村の人間だったって。
そうだよね。物心ついたときから南方さまのそばにぼくはいたのだから。
だけど、どうしてぼくを見つめる南方さまが、そんなに哀しそうな目で笑うの。
南方さまの手が、ぼくの髪にやさしく触れる。壊れ物でも、扱っているみたいに。ぼくの体はすこしだけ緊張する。
「私はきみがほしかった。どうしても」
え――。
「……あの、違う。ぼくが南方さまに連れていってって言ったんだ。村で、大雨の日」
「まだ全部は思い出していないか。……人間だったきみは入るたび怒られるのを分かっていながら鎮守の森へ遊びに行っていたよ。鎮守の森にいた遊び相手の人間の顔を、きみはもう覚えていないかな」
南方さまの手が、ぼくの顎を掴んで無理やり自分の方へと向けさせる。惚けるほど端正な顔立ちを眺める。人間離れした紺碧の瞳に――。
あれ。
――一緒に、遊ぼうか。
霧のかかっていた景色が一斉に晴れるように、急に鮮明に思い出す。今まで灰色がに塗られていた、幼少の小さなぼくの手を引いて、やさしく笑ったそのひとの顔の下は、紺碧――紺碧の瞳だ。
そのときだけは南方さまも苦しげな表情を消して、悪戯が成功した子どもみたいになった。
「私は神さまだからね。人間っぽくなることなんて造作もない。もっとも、龍になっても人間になっても、瞳の色だけは変わらないんだけどねえ」
「……なんで」
じゃあ、ぼくは人間のふりをした南方さまに出会っていたのか。そうして手ひどい暴力を振るわれて途方に暮れていたある日、嵐が吹きすさぶ中、その大きな龍に村から救われたのだろうか。
「だから、きみがほしかった」
「……っ」
……なんだろう、なぜだかすこしだけこそばゆい。恥ずかしい言葉なんて、いつも南方さまぽんぽん言ってくるから、慣れているはずなのに。南方さまがぼくを自分の意志で村から連れ出してくれたという事実が、――すごくすごく恥ずかしい。
木陰に座ったぼくの体に手を伸ばし、南方さまの手がぼくの顔に触れる。冷たくて、水のように心地よいなめらかなそれに、知らず知らずのうちに身をゆだねる。
「雨衣」
「……なに、近いし」
「ごめんね。……キスがしたい」
そのまま彷徨っていた手がぼくの後頭部にやさしく回った。哀しげな表情をにじませたその顔が、すう、と近づく。とっさに、顔を傾けて、よけた。
胸の中が、なんだかもやもやする。
「雨衣?」
「んで……」
「え」
「いやだ。今の南方さま、なんか怖い。したくない、やだ」
顔をそむけたまま、まくしたてるように言い放つ。するとぼくの体に触れていた手が、わずかにわなないた。
一瞬の間ののち、今度は目の前の大きな体にダイブするように吸いこまれる。
驚きと、沈黙。
「困った」
それは、ほんとうに困った、というような焦燥の色をした声で。
いつも余裕綽々と笑ってばかりの南方さまの手が、このときばかりは静かに震えていた。
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