05



     *



『だれが身寄りのないおまえを引き取ってやったと思ってる!』


 ひゅっと風を切る音に、幼いぼくは敏感だった。次に襲ってくる体のどこかへの痛みを、ぼくは痛いほど知っていたから。倒れたぼくに、続けざまに罵声が怒る。あの、名主さまの。


『それなのにおまえはまた村の掟を破って外へ出た! 何度言ったら分かるんだ、鎮守の森に近づくなと!』

『ごめん、なさい』

『おまえはそうやって! また繰り返すようなら、そうだな! そんなに好きならずっと森にいるといい! 今度同じことをやったらその体を森の深くに投げ入れてやる!』

『あの、名主さま。でも……』

『うるさい!』


 その頃名主さまは、領主への重い年貢に苦しめられていたという。だから、ぼくがひとり増えることがどれほどの自分への負担になっていたのか、それは測りしれない

 そのときぼくは、まだ小さな子どもだった。だから、ただ体に加えられる痛みにうめきながら、どうして自分は殴られるのかを、考え続けることしか出来なかった。


 そして、哀しいと足はおのずと、村のだれもが恐れる鎮守の森へと向かっていた。



 風の音で、目が覚めた。耳を裂くような鋭さだった。



「う……」


 畳の、匂い。懐かしい独特の草の匂いがやけに鼻についていることに気づいて、目をうっすらと開く。片方の頬が、畳にくっついている。両手の自由は、効かない。後ろ手でまとめて縛られているらしい。そのまま無人の部屋の床に転がされていた。

 辺りは薄暗い。それに、つんと香る、雨の匂い。それが、おかしい。


(雨が、降ってる)


 それも驚くほどに、はげしく。きっとあの森の深くにある湖も、大きく波を作っているに違いない。家の屋根を叩きつける音が、ここまで響いて来ている。それに、風もすごい。

 雨音以外は無音のそこに、ふと耳をすませると、小さな足音。た、た、と不規則に、そして遠慮がちに進んでくるそれ。小さい頃はいつもびくついていた名主さまの足音ではない。もっと軽い――。


「雨衣……!」

「あ、おまえ……」

「し! 静かにしろって!」


 そっと襖を開けて、猫のように狭い間をすり抜けるようにしてこちらへ来た人間――多岐が、こちらへ足音を忍ばせながらやってくる。ぼくのそばへしゃがみこむと、固く結ばれた後ろ手の紐を、さっと解いた。……いたい、紐の痕、絶対残る。


「なんで来た……」

「いや、なんか良く分かんないけど、ごめん!」


 湖でやったぱちんと手のひらを合わせる仕草、だけどそのときと違うのは、手のひらからぱちんという音がすこしも聞こえないということ。

 自由になった、やけにだるい体を起こしながら、多岐を見る。


「……なんで」

「いや、だってなんか、名主さまの話とか全部嘘っぽかったらしくて! なんかこっそり聞いた話によるとおまえのこと捕まえるのが目的だったらしくて! ……とりあえずここは危ないし、おまえの体調不良もいよいよやばそうだから、森まで送るし!」



 早口に、でも僅かな声のトーンでまくしたてた多岐が、手を放すと、また静かに立ち上がった。ぼくの手を取る。


「行こう、たぶんあんまり時間ないんだ。外は雨だし、今ならバレない!」

「……多岐」

「ほら、雨衣! 早く!」


 ぼくは、もしかしたら、もう森へは戻れないかもしれない。漠然とした予感が、胸の中に広がる。だって、ぼくは、ほんとうはきっと森のお使いなんかじゃなかった。どうして今まで森で住めていたのかは結局良く分からないにしろ、南方さまと同じ場所で生きるものじゃなかった。

 ふらつく体を多岐に無理矢理支えられながら、力ない足取りで畳を踏む。



 今なら、もう分かる。

 南方さまがぼくをほんとうの意味でお使いにしない理由。元々人間として生きていたぼくなんか、信用も放置も出来ないじゃないか。


「おい、雨衣しっかりしろ。おまえどんどん力が……」


 頭痛は長く続いたせいか、もう慢性みたいに痛みが鈍くなってきているみたいだ。それよりも、体に力が入らなくなっていくみたい。

 部屋を出て多岐に体の重みを半分以上預けながら、縁側を進む。すぐ横は、際限なく夜の闇の中雨が続いている。よっぽど長く降り続けているのだろう、地面は洪水になりそうなくらい水がたまっている。


「多岐……どうしてぼくを」

「……おれ、名主さまがおまえを狙うの、よく分からないし!」

「だけど名主さまは、おまえにとって大切な方だろう」

「それでも、おまえは神さまのお使いだろう! 会ったときからずっと言ってたじゃねえか! お使いは、森に帰るんだよ」


 言葉が、胸に刺さる。ぼくはもう、その自信が持てないというのに。ますます弛緩し始めた体を崩れ落ちさせないようにか、多岐が体に一層力を入れてくる。


「……雨衣、ここからは外だ。濡れるぞ」

「うん」

「……待ちなさい、多岐」


 バシャバシャと降り続く水に負けるような、くたっとした小さな声だった。それでもぼくにはたしかに届いた。それは多岐も同じだったようで、その肩はぴくりと震える。柱のように立ったままぴくりともしない名主さまの体は、雨の中にぽつんと浮かんでいる。

 目を凝らせば、後ろにはたくさんの人間がいる。


 ただ立っているのではない。構えてこそいないが、弓矢、だ、あれは。それに、前に多岐が背中に背負っていたモリのようなものを持つ人間もいる。


「名主さま、……雨衣を殺す気ですか」

「……その少年ではない」



 ――その少年ではない。じゃあなにを。



 鈍くなりつつある頭で考えようとした矢先、懸命に前を向いていたぼくのほほに、ひゅんと風が通りかかった。一瞬。雨の中を泳ぐようにしてぼくの元へ来たそれ。

 思わずあ、と声を上げた。

 重い手を動かして、頬を撫でる。この風は、知っている。まぎれもない、あの森に吹く風だ。どうして――。

 雨が一層激しくなる。そして、森が。


「なんだ……」


 森……違う。空が、空が悲鳴を上げたみたいに、轟音を上げる。間に強くなる雨と共に、その雨さえも一瞬あかるく照らす、眩しい光。

 カッとなにかを開くように輝いた雷光。それに、横の多岐がぼくを掴む腕に、力が増した。


 きらりと光るものが見えた。細長い、なにか。空の間から、それは突如として地上に向かって一目散に降り立ってくる。最初は見間違いかと思うようなほんの一瞬。それが、何回も続いてやがてひとつの姿をくっきりと現していく。


 だんだんと大きくなる影。


 息を飲む。雨に紛れて、忘れていたみたいな涙が、ぽつりと頬を伝った。

 どうして。



(どうして南方さまは、こんなぼくをいつも絶対に見捨てないの)



 こちらへおいで。


 と、あの日もっと地面に近い場所から顎を上げるようにして空を見上げた先のその影から、透明な声はぼくの頭に直接響くようにして降ってきた。



「おい、雨衣……雨衣?」


 その姿が、はっきりと浮き彫りになる。信じられないくらい巨大な体躯をして、漆黒と浅黄のいろに包まれたそれは、紛れもない。


「龍……だと?」


 嘘だろうというように、震え声で呟かれた、多岐の声。その声に顔を上げようとした瞬間、視界に、あまりにも多くの矢先が映る。それはそのまま空へ向かって仰ぐように向けられている。


 叫んだぼくの声は、あまりにも激しい雨にかき消される。信じられないスピードで放たれた矢が、しかしどれひとつとしてその美しい体に当たることもなく、闇の中に葬られていく。


 殺せ、名主さまの鋭い声が聞こえた。昔ぼくをなじったそれと全く同じ声で、いやそれよりも何倍も憎悪にまみれた声で、それもまた村人の耳に一瞬はいっては雨に溶ける。

 矢と共に放たれた炎は、すぐに水の力に消されていく。

 翼を持った大きな体が地面についてさえ、矢は一本たりとも体に触れることはなかった。鋭い目つきをしていたその紺碧の瞳が、ぼくを呼ぶ。声はないのに、雨が遮るというのに、はっきりと聞こえた。


 雨衣、と。


「みなかた、さま」

「おい……」


 体は重いのに、引き寄せられるように、こちらを見つめるその瞳の元へと、足を出す。

 ばかな、小さな声が聞こえた。村の人間が呟いた言葉だろうか。


 倒れてしまいそうな体を支えながら、南方さまに手を伸ばす。答えるように首を伸ばした南方さまが、ぼくを自分の体へ引き寄せる。すこしだけ、あんなに苦しかった呼吸が楽になる。


「……ごめん、なさい」


 また、南方さまはぼくを連れ去りにきてくれた。昔村の弾きものにされていたぼくをある日雨の中迎えにきてくれたのと、同じように。


 覚えている。

 今とまるで同じような、村の人間の唖然とした表情。凍りついた村。そして大きな体なのにすこしもぼくを痛くしないで、やさしく触れてくれたこの、龍の存在。紺碧の目が、柔らかく、ぼくを誘った。



「そいつを連れていってから」



 ぼくを雨から守るように翼で覆った南方さまが、声の主――名主さまに顔を向ける。


「あなたは必要以上に我々の生活に干渉しなくなった。雨が降ろうとも、逆に降らなくなろうとも、不作だろうとなんだろうと」

「……」

「たかがその小僧一匹ごときで、あなたは何年も恩恵を与えてきた我々をお見捨てになった」


 ビー玉みたいな紺碧の目が、表情を歪めた名主さまを見つめる。見れば、村の人間は身なりがぼろぼろだ。それに、全員が集まったにしては人数もすくない。

 ぼくを可哀想に思った南方さまが、それをしたのだろうか。それとも単に、人間の醜い部分を見せられていやになって、そんなことをしていたのだろうか。



 そうだ。昔はなんていうか、もっと豊かな村だったような気がする。鎮守の森といえども近くに緑はあるし、水はけもいいはずだ。なのに、今のこの状態はなんだか。


 ――雨衣。


 頭の中に、南方さまの言葉が流れ込んでくる。その姿じゃ言葉は届けられないから、ぼくに言えということなのだろうか。

 力の入らない体を支えられながら、遠くピントの合わない名主さまに顔を向けた。


「鎮守の森に入ることを一切禁ずる」

「え……」

「あと、願い事は神社にするとよい、って、南方さまが」


 ぼくは、自分が村の弾きものにされたこと、もう全然気にしていない。昔のことだから記憶もおぼろげだし。だから、南方さまに村人から矢を向けられるようなことは、もうしてほしくない。

 南方さまの体を、そう意味を込めて、とん、と叩いた。首を曲げてぼくの頬をつんと口元で撫でた南方さまが、すこしだけ頷いた。深い瞳がきらりと光る。いいだろうと。


 雨が、すこしだけ弱くなる。

 南方さまが、大きく翼を広げた。ぼくの体は巻き込まれるように南方さまにくっつく。さっきまでなりを潜めていた風が、ひゅう、とどこか爽やかにぼくの横を通って行く。


「……雨衣!」


 雨が弱くなったせいか、さっきよりも鮮明に聞こえた、ぼくの、今の名前を呼ぶ声。その名前で呼ぶ人間なんて、ひとりしかいない。

 こちらを見上げる多岐と目が合って、いつもみたいに多岐がへらっと笑う前に、今度はぼくが笑って見せた。多岐が、はっと目を見開く。


 多岐は、不思議な少年だった。おしゃべりで、明るくて、表裏なくて。ぼくが昔見ていた人間よりもずっとキラキラしていて。……まあちょっとうるさかったりもしたけれど。

 だけど、ぼくたちの住む世界は、やっぱり違う。違うんだ。

 ぼくを迎えに来てくれた。だから。


(好きなものなんてない。……ただ南方さまが全てだから)


 やっぱり、ぼくは南方さまに拒否されるまで、そのおそばでお使いをしたい。


 見上げる人間の姿は、その表情を読もうとする前に、小さくなってやがて星みたいに消えた。


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