04
*
耳の奥で水音を聞いている。陽の光のあたる浅い、温かい湖に体を浮かべながら、今日もお使いのぼくは暇をしている。南方さまに暇を出された。拗ねるには十分な、時間の穏やかさ。
風もなく木々の間から照らされ続ける水面は、ぼくにとってお湯のように温かい。
(ぼく、自分がお使いだと思ってるけど、ほんっと自称だよね。絶対自称)
――今日も出かけてくるから、森とお留守番、よろしくね。私がいない間、しっかりと森を守っているんだよ。
ぼくよりも半分くらいしかない人間の子どもでも分かるような、へやくそな言いくるめ方。もうぼくがちょっと拗ねているのも分かった上で、南方さまはぼくの頭をさっとひと撫でして森を出ていった。いつも思うけど、南方さまってどこまでどうやって行っているのだろう。歩き?
どんな仕事をしているのだろう。人間のお願い、どんなお願いなんだろう。
(ぼく、ほんとう、あの祠を拠点にする南方さまの顔以外知らないんだな)
やさしくぼくを甘やかすだけの南方さま。絶対に怒らないし、ぼくには「掃除をお願い」しか言わない。
風の音も木々のこすれ合い揺れる音も森の住人の鳴き声も聞こえない、静謐な水の中。たまに聞こえるのは、耳をくすぐる空気音と、移動するたび水を分ける音だけ。きらきらと差しかかる水面を見上げながら、はあ、とため息を吐いた。
(やっぱりぼく、まだ体が南方さまみたいに大きくないから頼りないのかなあ)
そうはいってもぼくの体は、南方さまのそばにいたときからずっとこのくらいのような気がするのだけど。あんまり良く覚えていない。
なぜか、その辺の記憶はおぼろげ。
(そろそろ、祠に帰ろうかな。南方さま、帰ってくるときにはいたいし)
昨日嘘を吐いた罪悪感から、普通に接しようとしながらもどこかぎこちなくなっている自分がいる。南方さまが帰ってきたら、あくまでも普通。普通に接するんだ。
そもそもあの意味の分からない迷子の人間が悪いし。……もう来ることもないけど。
そんなことを思っていると、波紋で揺れる水面に、ふわ、と昨日と同じような人間の顔が現れる。水の中からだからぼんやりとしか見えないんだけど、そうそう、あんな顔だった。
(なんかノーテンキっぽくて……って)
えええ!?
考える前に足で水を蹴って、あっという間に水面を突き破るようにして静謐を破る。勢いの良い、バシャ、という音がした。
「な、な、なんでいるの!」
随分水に顔を近づけてこちらを見下ろしたせいか、生温かい水しぶきを浴びて頭から雨に降られたように濡れた人間――多岐は、「驚いた。ほんとうにおまえ人間じゃないんだな」と意味不明なことを呟いた。
ぼくが上がってきたせいで咄嗟に水を避けようと思ったのか、地面に尻もちを吐く形で、人間がこちらを見ている。鼻先から、ぽた、と水が垂れた。
「この水、……温かいな」
「それは太陽の光を浴びているからでしょ。……って、そんなことはどうでもいいよ! なんで来たのさ!」
森には来るなっていった!
突っかかるように水から上がって、人間に近づく。ぼくの堪忍袋の尾が勢いよく切れたというのに、人間はへらへらと邪気のない笑顔で笑っている。
「いや、ちょっと」
「ちょっとじゃないよ! 今すぐ出てって! ここから、ぼくが村まで送るし!」
ていうか、ほんとう強運だよね。南方さまが今日はいないんだから。いるときに来たら、罰当たりだよ! 南方さまだってきっと怒るんだから!
(ただでさえこの馬鹿面の人間のことで、南方さまに後ろめたい嘘吐いてるんだから!)
「そ、そんな怒るなって……! 今日は、迷ったんじゃなくて、雨衣に会いに来たんだ」
すこしだけあまりのある袖でぐい、と顔を拭いた人間。……て、ぼくに?
「村の名主さまに言われたことなんだけど、……なあ、おまえ神さまのお使いなんだろう?」
「ぼく? うん、そうだよ」
お使い――他の、しかも人間から言われると、なぜだかすこしだけ誇らしい。くすぐったい。咄嗟に怒るのをやめて返事をしてしまったのは、そのせいだ。
「名主さまの奥さまが、なんだかちょっと困ったことになっているみたいで。この際神さまの手でもいいから借りたいんだって……あ、違うって違う睨むな! 神さまの手が借りたいほどどうしようもないらしいんだよ!」
この人間は、鎮守の森の近くに住む人間だ。その村のことといえば、南方さまがどうにか出来る範囲なのだろうか。たぶん、南方さまを祀っている村なのだろう。
見たところ人間は神さまを信じていないらしい。だから南方さまの神社は閑散として埃でもかぶっているのか。なんとなく、む。
「神社には、行ったの?」
「うん、たぶんおれに相談持ちかけてきたくらいだから、行ってんじゃねえかな」
(ここで南方さまに、困っている人間が、なんて報告が出来たらぼくも、すこしは認めてもらえるかもしれない。新しく仕事をもらえることになるのかもしれない。けれど)
タイミングが悪い。今、南方さまは絶賛出張中なのだ。
「おれが森に迷って神さまのお使いに会って、帰りの道を教えてもらったって話を聞きつけた名主さま、いつもの冷静さが嘘みたいに焦ったみたいにおれに頼み込んできたんだ」
「……そんなこと、言われても……」
悩むぼくの目の前で、びしょ濡れで胡坐をかいたままの人間が、ぱちん、と目の前で両手を叩いて「この通り!」と勢いよく頭を下げた。
「おれも状況がまだあんまり分かってないし、今すぐに神さまになんとかしろとは言わない! ただ、一回だけ村の名主さまのところに行ってやってくれよ! 様子見だけでいいし! ……おまえ、どうやら見えるみたいだし!」
「ぼく、あやかしとかじゃないから」
「分かってるって!」
人間のふさっとしたつむじを見ながら、知らず知らずのうちに顎に手を当てて首をひねる。困った。
神社で神だのみをしたとすれば、名主さまの願いはまぎれもなく南方さまの元にあるはずだ。だけど、その南方さまが不在とあれば、願いを叶えてやることもできない。もし、ひと時の遅れがそのまま散りとなってしまうような急な願いだったら……叶えてやれなかった南方さまは、ひどく思い悩んでしまうかもしれない。
ああ見えて、きっと回りは気にしているはずだし。
まして、一番近くの村のことなら尚更だ。ただ村から神社への願い事が今までなかったから手づまりだったのだけど。
「……様子見、だけなら」
「ほんとか!」
「ぼくは、神さまじゃないから、見て神さまに言うことしかできないけど」
見た様子をいち早く教えることができれば、南方さまが解決してくれるかもしれない。そうしたら――。
(ああ、いやだ)
地面に向けていた顔をぱっと上げて笑顔を作る人間を一瞥しながら、心には黒々とした感情が流れる。
そうしたら、南方さまはお使いとしてもっともっとぼくを頼りにしてくれるかもいしれない。ぼくが考えるのは、結局ぼくのことだけだ。
「そんなのいいよ! とりあえず様子見だけでも頼む! 名主さまが、喜ぶな!」
無邪気な笑顔の先に、名主さま、という、きっとその人間にとって憧れである人間がいるのだろう。
同じだ。ぼくが南方さまのおそばにいて、その力になりたいと思うのと、この人間が名主さまとやらのためにここまで来た、ということは。
「よし、じゃあ早速村に!」
「……あんたどっち行くの。そっちは奥だよ」
「ええ!?」
ほんとう、よくその方向音痴で、この湖まで来れたなと思う。
ぼくの活動領域は、南方さまと過ごす祠と湖。その間の森。それだけ。だけどこの森に暮らすぼくにとって、行ったことはなくとも、どうしてか森の道はすべて分かる。この人間が暮らす村も、どうしてか。それが、神さまのお使いなのだろう。
「おまえ、年、いくつ? おれ十六なんだけど、多分同じくらい、だよな?」
「知らないし。……物心ついたときから、ずっと森にいる」
そうだ。ぼくは、この森から、一歩たりとも外に出たことはない。ほんとうは、きっと、いけないことだ。だけどどうしても、この人間を無情に突き放すことは出来なかった。
「なあまあ、ほんとうにこっちで合ってる? お使いって、そういうの分かるわけ?」「うるさいし。さっさと歩きなよ」
「ええー!? 折角また会えたんだからさあ! 神さまのお使いとか! たくさん放しておきたいじゃん! あ、好きなものとかあるか!?」
好きなものなんて、ない。ぼくにあるのは、南方さまだけだよ。
それを言ってもよかったけど、どうせまた変な目で「やっぱ神さまってほんとうにいるのな」ってばかにされそうだからやめた。
森の匂いが薄くなってきた。もうすぐ、ふもとだ。……この人間の、村。
(なんだか、やっぱり行きたくない、かも)
ぼくが生活しているところよりも、自然の空気がどんどん薄くなっていく。息苦しいみたいに。拒絶反応からか、頭が痛い。
南方さまもこんな頭痛を抱えて、人里に行くのだろうか。
お使いの動物や植物の気配も忽然と消えている。やっぱり、人間が住む場所の近くはぼくたちにとってあまりよくないのかもしれない。
だから南方さま、いつもぼくにあまり人間の地へは近づきすぎないように言っていたのだろうか。
「なあ雨衣、聞いてる!? ……雨衣?」
「なに」
「大丈夫か、おまえ。なんか、気分でも悪いか?」
「……うん。そうみたい」
「あ? まじか、どうした? えっと……人間じゃないやつには、何が効くんだ?」
「いいよ、ほっといて。動けないほどじゃないし」
こうなったら、さっさと様子見をして、南方さまのところへ戻ろう。
狭い祠なのに、その中でも更に近くにある南方さまのそば、光に照らされた水面の見える湖の中、木々の生い茂る森の深く。ぼくが住んでいた場所は、どこも心地よい。
今更だけど、ぼくはほんとうに呆れるくらい過保護に、南方さまに守られていたのかもしれない。
(しっかり、しなきゃ)
様子見が終わってあの祠へ帰ったら、昨日ついた嘘も含めて全部南方さまにお話して、謝ろうかな。やっぱり、嘘を吐くのはいやだ。
頭痛から、抜け出して――。
「お! おれがさっき入っていったところだ! おまえ、やっぱり森のお使いなんだなあ! 方向分かるんだ!」
「だから、そう言ってるじゃん……」
「あ、うん! 信じてるぜ!」
あの場所以降の気配が、なにも感じられない。森の出口だ。信じられないくらい靄がかかっている。やっぱり、怖い、かもしれない。
あの向こうが、なにも分からない。
「……おい、雨衣。どうした?」
ぴたりと、足元が止まる。これ以上は、やっぱり行けない――。
振り返った人間が、不思議そうにぼくを見下ろす。
「気持ち、悪いか」
首を振った。違うんだ。たしかに頭痛もあるし、気持ち悪い。体が重くなった。あと息苦しい。だけどそうじゃなくて、心の奥でなにかが暴れている。行ったら、だめだ、と。
「多岐」
これは、なんだろう。
ぐるぐると逡巡する頭の中を遮るようにして、確かに聞こえた低い人間の声。目の前にいる明るくて邪気のない少年の声とは違う、老成した威厳のあるそれ。
吸いこまれるように踵を返して声の方に向き直った人間が、あ、と声を漏らす。
「名主さま、どうして」
顔を上げて、目の前の人間越しに、後ろでこちらへ向かって佇んでいるひとりの壮年の人間を見上げる。すこしだけ、離れた位置にいるようだ。目を凝らして、強い瞳を携えるその人間を見た。
視線が、しっかりと合う。時が、止まったように。
人間の皺が深まって、眼光はさっきよりも鋭く光った。まるで、ようやく獲物を見つけた鷹のように。
「――……」
呟かれた名前に、息を飲む。
それまで鉛のように重くなっていた足が、一歩、また一歩後ろへと下がっていく。
そうだ、ぼくはあの瞳を知っている。今よりもすこしだけ皺のすくなかった、鋭くて恐ろしい――。
唇が重く動く。つかまえろ、と。
刹那、どこからやってきたのか。さっきまで草や木の陰に隠れていたのだろう数人の人間たちによって、逃げる間もなくぼくの体は自由を奪われる。
「……っ」
「雨衣、おい! ちょ、名主さま、どういうことですか!」
羽をむしられた鳥みたいに、ぼくは暴れた。だけど、ぼくよりもずっと力のある大人の人間に抑えこまれれば、もうどうしようもなかった。
とん。
という柔らかい音が聞こえた。ぼくの意識は、呪術みたいにそこで途切れた。
昔、あの人間はいつも低くぼくを見下ろしながらあの唇の動きをした。
『――……』
あの名前は、ぼくだ。ぼくのものだったんだ。
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