03



     *



 ――あなたは、だれ?


 舌っ足らずな、幼い子どもの声。大きく首を上げて太陽を背に向けたその人間の顔は、強すぎる日の光のせいで濃く影を作っていたみたい。その人間のくちびるが、小さく動いた。

 それなのに、声が聞こえない。ぼくは知っている。その声が、やさしさに満ち溢れたものであることを。だから手を伸ばして、耳を寄せるのに、いっこうに聞こえない。


 もっと、近くに行きたい。


「んう……」


 もっと。


 ぎゅう、と、なにか柔らかいものが手の中にあって、気づいて、ちょっとだけ目を開いた。ピントが合わない視界のなか、ぼんやりと握りしめた柔らかい着物を見つめる。薄色のそれは、さっきまでなかったぬくもり。


「みなかた、さま?」

「うん? あれ、起きたの」

「おかえりなさい……」


 夢は幻。砂みたいにさっと消えて、風に呑み込まれていくみたい。さっきまで大切なものを見ていたはずなのに、すでにもう、思い出せなくなってしまった。

 珍しくうつらうつらと眠くなる頃になっても、南方さまが帰ってこなかった。基本的に暇な神さまだから(とか言ったら変な顔をされるだろうが)、ちょっと心配になって起きてたのに……いつの間にか眠ってたんだ。


 ふかふかの毛布にくるまるぼくは、なぜか手だけを出して目の前でやさしげにこちらを見下ろしている南方さまの胸元を、ぎゅう、と掴んでいる。はて、と首を傾げる。


「なんで、ぼく南方さまの服掴んでるんだろう」


 南方さまが呆れ顔でぼくの額を小突く。


「聞きたいのは私のほうなんだけどなあ。雨衣を起こすのも悪いし、どうしたらいいか考えていたところだよ」

「別に引っぱたいて起こしたらいいじゃん」

「そんなことしたら罰が当たるよ」


 だれから罰が当たるのさ。……ほんとう、変なぼくの神さま。

 するすると壁際に寄ったぼくを一瞥して、南方さまも横になる。ぼくが壁際に行きすぎると南方さまは、「壁の方は風が通って寒いよ」と引き寄せてくる。結局自分が寒いだけじゃん。


「今日は、神さまのお仕事?」

「そうだよ。珍しく、私も忙しくて」

「ふうん」

「雨衣は」


 南方さまの手が、横になったぼくの頭を、触れるか触れないかぐらいのところで滑る。そのまま、いつもみたいに柔らかい手つきで撫でてくれる。南方さまの長い指先が、ぼくの髪の毛に絡んだ。


「雨衣は、今日、なにもなかったかい?」


 ――なあなあ、おまえ名前は? おれ、多岐っていうんだけど。……お使いってのは、名前ないの?


 明るくはきはきと喋る昼間の人間を、急に思い出す。


(南方さま、いつも、森に人間が入るのはだめだって……)


「なにもないよ」


 いつもみたいに、しっかりと南方さまの目を見て、言う。大丈夫、邂逅は、続かない。きっとあの人間はもう森へは来ないのだから。

 南方さまに余計な心配をかけたくない。


 ただでさえ、ぼくは南方さまからきっと信用されていないから。仕事ひとつ任されないお使いだから。きっと、バレたらぼくは、南方さまに呆れられる。


 それは、絶対にいやだ。

 どんなにふわふわのんびりしていても、どんなに暇を持て余してばかりでも、どんなに変でも、南方さまは、ぼくの神さま。


 ぼくにとって、南方さまは絶対なんだ。


 無意識に緩めていた手をふたたび南方さまの胸元に当てて、皺になるくらい、南方さまの服を掴む。明日になったら胸元だけくしゃくしゃになって余計だらしない神さまになるっていうのに、南方さまはなにも言わない。


「なにもないなら、よかった」

「うん」


 痛い。ほんのすこしの嘘だけなのに、こんなにも痛い。南方さまにつく嘘は。


「おやすみ、雨衣。よく眠りなさい」


 額に、南方さまの唇を感じる。一瞬くっついて、今度は唇に深くするみたいに、長くくっついた。目を瞑って、甘い疼きに耐える。



 南方さまが、すきだ。ぼくの絶対。



 だから仕事を任せてもらえないのが、不安で、不安で、怖くて仕方がない。


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