02



     *



 キラキラと水面を反射する景色を地上からではなく、水の中から見ることが出来るってすごいなあ、といつも思う。この透明な湖で暮らす生き物たちは、贅沢だ。

 今日は南方さまがいない。仕事なんだって。

 雨が降っていないし、今日もいつも通り南方さまに任された仕事は「祠を掃除しておいてね」のみ。毎日掃除しているわけで。早々と終わらせた(というよりなにもやることがなかった)ぼくは、今日もこの湖に潜りにきたというわけだ。


「まったく、お使いも暇ねえ」

「いいじゃん。南方さま、仕事任せてくれないし」

「それにしても雨衣は呑気な暮らしだよお。俺たちだってもっと仕事あるわ」

「う……」


 生き物たちは優雅に泳ぎながら、堂々とぼくの悪口を吐く。あっけらかんとした言い草に腹が立つけれど、事実なのでどうしようもない。


「そうだけどさあ……」


 光の方向へ向かっていき、ぱしゃ、と水上に顔を上げる。顔を、濡れた水が伝うのが心地よい。今日は、天気がよくて、風が温かい。


(とりあえず、南方さまが帰ってくるまで、祠にでもいようかなあ)


 すい、と地面の方まで伝うように泳いでいき、茂みに上がる。散歩でも、してから帰ろう。

 ほんとうは、あまり祠から遠くに行かないようにやんわりと南方さまに言われているから、こうして南方さまが外出しているときしか散歩はしないけれど。


(遠くに行っちゃだめって、どんだけお使いのぼくが信用ならないんだろう)


 なんだか、思い出したらいらっとしてきた。

 南方さまの治める鎮守の森は、深い。南方さまは森の主だから絶対に場所が分からなくなったりしないけれど、お使いであるぼくは小さな頃よく迷ってしまっていた。そうだ、今よりもずっと小さな頃の記憶。



 ――一緒に、遊ぼうか。



 見上げた先にあった、幼い自分よりもすこしだけ大きな少年。あれは、きっと人間だった。残像のように絵だけが脳内に残るこの記憶は、ノイズがかかったみたいに曖昧で。

 やさしく微笑む口元、こちらに伸ばされた手。人間の、姿。

 ざあ、と風がぼくの隙間をぬって吹いて行く。ざわざわと音を立てながら。森の風は普段大人しいというのに、今日は妙に騒がしい。なんだろう。


 そう思って、後ろを向いた。


 また、大きく風がぼくの髪の毛を揺らしていた。


「え……」


 ぼくの素足が地面を叩いたときに響く、どこか鈍くて静かな音じゃない。履きものが草間を踏みしめる音がする。視線の先にあった二つの足元を見て、それから、流れるように上に向かう。唖然とした表情でこちらを見下ろすのは――。


「にん、げん」


 耳の奥で、まだ風の音が鳴り止まない。

 黒くサラサラと揺れた髪の毛に、すこし土のついた着物、こちらを見る驚いたような表情。ぼくとよく似た形をしながら、圧倒的に違う匂いがするそれ。


(これが、人間)


 鎮守の森の中でも、とりわけ最奥の祠辺りを生活の拠点としているぼくが、人間なんて見たことがないはずだ。それなのに、なぜだか、体の奥に湧く懐かしさ。まぎれもなくぼくは人間を知っていると、警報が響く。


「どうして、森に……」


 南方さまが言っていた。人間は決して鎮守の森に入ることはしないと。神さまである南方さまが、人間の侵入を拒んでいるからと。


「おまえはどうして、ここに……」


 あ、そうか。ぼくは人間と同じ形をしているから、人間だと、思われているのだろうか。


「きみは人間、だよね。ぼくは、人間じゃないよ。この森に住んでる。きみは、人間……?」


 他の従者やお使いが、言っていた。人間の住みかである“村”が、たしかに鎮守の森のふもとあたりにあるって。そこの、人間だろうか。

 それにしても、この湖の近くはその場所よりも深いはず。どうしてこんなところに人間がいるのだろう。


(頭が、いたい……)


 なんだろう。さっきから、頭が鈍い痛みを起こしている。堪えきれなくてその場にしゃがみ込む。


「お、おい。大丈夫か……」



 ――一緒に、遊ぼうか。きみは、どこから来たの。



 そうだ。小さな頃、ぼくの手を引いたのは、人間だった。


「頭、痛いのか」


 こんな風に、ぼくの肩に触れて、人間はやさしく遊んでくれていたんだ。でも、どうしてぼくは小さな頃人間に出会ってしまったのだろう。今みたいに、偶然?

 理由を思い出そうとするのに、記憶が途切れて、更に思考を半ば強引にストップさせるかのように襲う頭痛が邪魔をしてくる。


 寄せては返す波のように、大きく揺れる頭痛。


 なにかを拒絶して妨げるみたいな、不可思議な痛みだ。ぎゅう、と頭を両手で握りしめる。


 やがてすこしずつ収まると、随分近くで鎮守の森のものではないなにかの匂いを感じた。おそるおそる顔を上げると、今まで神妙な顔つきでこちらを見下ろしていた青年と、ぱっと目があった。


 これ、人間の匂いだ。

 なんだろう。森の匂いとは、違う。


「急に具合悪そうになるから、驚いた。おまえ……人間じゃないのか」

「……ぼくは、みな……えと、神さまのお使い」

「神、さま?」


 一瞬で訝しげな表情になるその人間。なにかをひどく疑うような目に、首を傾げる。神さまって、人間に祭られているんじゃないのだろうか。


「神さまって……なんだ、それは。そんなの、ほんとうにいるのか」

「い、いるよ! なんだ、きみ、人間なのに信じてないの!?」


 たしかに南方さまの神社はちょっと、いやかなりしょぼくて人が寄りつかないとは聞いていたけれど、まさか存在を疑われていたなんて!


 むうう! なにこの人間、すごく、すごく失礼なんじゃないの!?


「ちょ、なにおまえ怒ってんの!? ……しかし、仮にもおまえが神さまのお使いだとしても、俺には人間にしか見えないんだけど」

「ぼく、ちゃんとしたお使いだよ! 一番の側近なんだから!」


 ぽかんとこちらを見下ろす、人間。絶対、信じてない。


「それより、きみなんでこんなところにいるの?」


 たしか南方さま、この鎮守の森は人間が立ち入らないようにしているって、言っていし。特にぼくが南方さまと住みついている祠や、その近くにある湖は、かなり深い。


「うん。最初は入口にいたつもりなんだけど、すぐに方向が分からなくなっちまって」

「すぐ帰りなよ。神さまに怒られるよ?」

「神さま……なんかほんと、おまえと話してると色んな意味で退屈しないんだけど……」


 目を逸らしてひとりごちる人間。なんだか、ほんとうに、馬鹿にされている絶対。

 南方さま、たぶん今日は帰ってこないと思うけれど。万が一こんな森の深くに人間がいるところを見たら怒るかもしれない。南方さまが怒ったところ、見たことないけれど。


「とにかく、ぼくが行く方が祠であっちが湖ってことは……、こっち! こっち真っ直ぐ行けば帰れるから!」


 ぎゅうぎゅうと青年の背中を押す。ぼくよりも随分と大きい背丈だ。南方さまの方が大きいけれど。


「うわ、おまえ神さまのお使いなのに触れるんだな」

「ぼくも初めて知ったよ。人間なんて初めて会ったから、たぶん」


 語尾にたぶん、がついたのは、さっきのデジャブのような感覚がまだ抜けきっていなかったからだ。

 背中を押されながら、人間は不思議な顔つきで、ぐるりと首を回してこちらを見下ろしている。


「なあなあ、おまえ名前は? おれ、多岐っていうんだけど。……お使いってのは、名前ないの?」


 この人間、さっきすごく驚いた驚いたって言いながら、もう平然と話している。ぼくの方がきょどっているみたいだ。別に、びびってないけど。

 神経が図太くて鈍いのか、それとももっと他にすごい事態に遭ったことがあるのか。


(なんだか、調子狂うし……)


 南方さまの言葉を反芻する。あまり祠の近くから離れないこと、森の入口付近には近寄らないこと。だけど、確かに人間と接してはいけないなどとは言われていないし。


 ちらりと、人間を見上げる。


 人間はなぜか、すこしだけ顔を赤らめてそっぽを向いた。なにかぼそぼそと言っているがぼくの耳まで届かない。


「う、雨衣」

「……うい?」

「ぼくの名前」

「雨衣、か。へえ。名前、あるんだ」

「あたりまえじゃん! ぼく、神さまの側近のお使いだし!」


 全然そんな感じしないんだけどな、そんなことを呟いて、人間――多岐は、小さく笑った。南方さまよりもやさしくなくて、すこしだけ悪戯っぽい笑みだった。


「とりあえず雨衣が帰ってほしそうだから、村に帰るわ」


 やっぱり、村の人間なんだ。


 押していた背中が、急にふわりと軽くなる。手からさっと抜けるようにして、背中はぼくから離れていった。


(肩から下げている棒みたいなの、なんだろう)


 ひらひらと手を振りながらあっけなく離れていった背中を目で追いながら、ふとそんなことを思った。くるりと振り向いた多岐が、「また近いうちに会えたらいいな!」と大声で手を振る。


 慌ててしー! と人さし指を唇にあてながら「もう、会わないよ!」と言ったけれど、返事はなかった。背中は木々の間へ吸い込まれるように消えていった。


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