01



 こぽぽ、と耳の奥に微かに残った空気の泡がはじける音がした。そんな心地よい音に誘われるようにして上を見上げると、わずかに翳った陽の光がキラキラと水の中を照らしている。

 水の中だと、ぼくの体は驚くほど自由になる。不思議と全身が弛緩して、まるで漂流するみたいに自在に泳いでいるみたいだ。

 ふと、水面にぽつり、一粒の大きな波紋が浮かぶ。また、もうひとつ、ぽつりと。


(雨だ)


 周りを泳ぐ魚たちを一瞥して、体を起こすように光の場所を目指す。全身を水が擦りぬける感覚。


 ぱしゃ


 思った通り、雨が降ってきたみたいだ。ぼくが潜っていたこの湖のほとりよりもすこしだけ冷たい雨が、濡れたままのぼくの体にもかかる。

 水の上に浮きながら、岸を目指した。



 くるりと見渡して辺りを見ても、すべての水面が見えないくらい、この湖は広い。ぼくが遊ぶには気持ちいい温度で、常に湖の周りに生える木々の間からさす木漏れ日をキラキラと反射しながら風に揺られて透明の波を揺らすこの湖の中で、ぼくが遊ぶことを許されているのはこの辺だけだ。他はもっと深いから、迷子にならないようにって。


(ぼく、お使いなのに)


 森の中だったら、迷ったりなんてしないのに。

 岸辺について手を土の上に置くと、そこに大きくぼやっとした影がさした。見上げようとする前に、ばしゃ、とさっきよりも随分豪快な音を立ててぼくの体が引きずりあげられる。その腕に任せて、ぼくの体は力を抜く。

 だって、近づいてくる気配は、あったし。


「迎えに来たよ、雨衣」

「分かってるし」


 濡れたぼくを抱えたせいで自分の服が濡れてしまうことなんざおかまいなしに、ぴたりと引き寄せられた。

 南方さまがついた足の辺りで、ふわりと一輪の花が咲いた。まるで自然とこの方を祝福しているみたいに。よく音を聞いてみれば風も祝いをしていて、水面もざわざわと歌っている。ぼくが入っても知らん顔してるくせに。



「ていうかさ、南方さま! ぼく自分で帰れるのに、なんで迎えに来るんだよ」

「雨が降ったからねえ」

「この森じゃ、雨降るのフツウだし」

「いいのいいの」


 南方さまは、涼しげな笑顔と共にぼくの濡れた頭をあやすように撫でる。たちまち髪の毛がふわりと乾いていく。南方さまがぼくの服に触れれば、さっきまで濡れて肌にぴたりとくっついていたそれが南方さまの体の中に吸収されていくみたいに水気を失う。そのまま、ぽん、と地面に下ろされた。

 足がついても、ぼくの足元で花は咲かない。ちえ、ぼくだって、南方さまの一番近くにいるお使いなんだけど、もうちょっと祝福してくれてもいいじゃん。



 南方さまは、ぼくが仕える神さまだ。他の従者によると、どんな人間もお参りになんて来ないような鄙びた神社で祀られているらしい。ぼくはその神社に連れて行かれたことはないけれど。

 顔立ちが整っている割にいつも口元がふわりと上がっている所為でややだらしのなさそうに見える表情や、すっきりとした目元なのにいつもだらんと細まっているだらしのなさそうに見える目元を見ていると、そんな鄙びた神社でもおかしくないなあと思う。

 だって、南方さま、神さまっていうにはちょっとほのぼの系すぎる。


「ほらほら、たくさん降ってきた、雨衣。帰ろうね」


 子どもにするみたいに大きな手で包み込まれながら、南方さまと一緒に湖を後にする。後ろを振り向いてぽつぽつと波紋を広げ続ける湖は、やはり南方さまのおかげかざわざわと嬉しそう。


「なんで子ども扱いなの、南方さま!」

「きみね、何百年も神さまやってる私からしてみれば、きみのようなお使いなんて小童だよ。ひな鳥だよ」


 全然納得いかない。最近すこしだけ背丈が伸びたのに。この間南方さま、大きくなったからって新しい着物を見立ててくれたのに。


「南方さま、おかえりなさいませ」

「あ、南方さまだ!」

「ついでにお使いもいるね」


(おモテなこって)


 南方さまが通る道の邪魔にならない程度に近づいてくるお使いの動物たちが、目をキラキラさせている。


(尊敬の眼差し、だし)


 今目の前の広い背中のど真ん中を力いっぱい蹴り飛ばしたら、そのまま顔から地面に突っ込んでしまいそうなほどふらふらと足取りの軽いこの南方さまが、なにを隠そうこの森の主なのだから。



 ここは、人間というものが到底入り込む余地がないような、深い深い、鎮守の森の奥。古びた神社に祭られた神さまは、その神社の人気の無さゆえに人間と関わることもなく、こんな広い森の中を自在に歩きまわりながら気ままに暮らしている。



「ふう。今日も森は静かだね、雨衣」

「……いんちき神さまみたいだよ、南方さま」

「失礼だね、きみほんとう」


 無邪気な子どもみたいで、かわいい。そういって、南方さまが笑う。

 ぼくは南方さまの一番近くにお仕えする従者だ。だから誰よりも南方さまのために生きて、誰よりも南方さまに与えられた仕事をこなし、南方さまのためならどこまででも飛んで仕事に参る有能なお使い。


 ……なんてことはなく。


 ぼくは誰よりも南方さまのおそばにいることが多いけれど、南方さまがぼくに与える仕事といえば朝はこのくらいに起こして、とか祠の掃除を頼むね、とかいういわゆる雑用じみたものばかり。それ以外、南方さまのおそばを遠く離れて大きな仕事をする、なんてことをまかされたことはない。


「うんうん、今日も祠はきれいだね」


 雨をしのぐ祠の中は、ぼくと南方さまの住まう場所。いつも二人寝る場所に腰を下ろした南方さまがぼくをちょいちょいと手招きする。


「いつも掃除するくらいしか、ぼくの仕事がないからだよ」

「なあに、不満? 他の従者は、仕事がないとすごく喜ぶのに」

「ぼくはもっと、南方さまのためになるような仕事、したい! もっと……!」


 誘われるまま南方さまの前にきたぼくの体を、大きな体が後ろにひっくり返して包み込む。はいはい、と大きな手であやされて、それ以上なにも言えずに押し黙ってしまう。南方さまはいつもこうやってぼくを黙らすからずるい。


(どうして、南方さまはぼくに仕事を任せてくれないんだろう)


 ぼくがまだ従者として成熟していないからだろうか。頼りなくて使えないなら、なおさらそばにいる意味が分からなくなる。もっともっと、南方さまのために役に立ちたい。


「どうしてきみは、仕事をしたがるかな」

「だって……」

「真面目さんだねえ。じゃあ、ちょっとだけ頼まれてくれないかな」


 南方さまの大きくて長いのに、どこか上品な両手が、ぼくの顔を後ろから包み込む。この後なにをされるのか早々と分かって、ちょっとだけ体が緊張した。


「み、みなかた、さま?」

「うん?」


 そのまま顎を引っ張り上げられるようにして上を向いた先に、南方さまのやさしい顔が映る。


「く、び、いたい」

「あら、そうか。じゃあ、こうしよう」


 ぱ、と顎に掛かっていた両手を放されて、無理な体勢から首が元に戻ったと感じた矢先、魔法みたいにあっさりと体の向きを変えられて、南方さまの膝の上に乗り上げたまま正面から向き合う形になる。


「ん。痛くない」


 満足げに微笑する南方さま。その笑顔はとろけるように甘いけれど、なんだか、むずむずする。


 近いし。


 そのまま綺麗な指先が、さらりとぼくの髪の毛に掛かる。きゅう、と目を瞑った。これからなにをされるのか分かっているだけに、恥ずかしすぎて南方さまの顔を直視できない。


「なにそれ、可愛いね、きみは」

「うるさ……んむ……っ」


 流れるように近づいてきた唇に、慣れた様子でぼくの唇が塞がれるように。ついばまれるようにやさしく馴染むと、すぐに深く重なる。甘美な口づけに、いつもぼくは眩暈を起こす。


「すこしだけ、力をもらうよ」


 重なった唇から、洪水みたいにぽかぽかした温かいものが溢れるみたい。いつの間にやらぼくの体からは完全に力が抜けきって、そのまま目の前の体躯に縋りつく形になる。

 しばらくして、響く水の音が消える。唇を離した南方さまが、ぼくの顔を見てくすくすと笑う。その表情はぼくと違って赤く染まっていなければ変なふうに歪んでもいない。


「ふふ、かわいい。だれにも見せたくないなあ」

「力……もら、た?」

「うん、ありがとう」


 息切れするぼくは、余裕な仕草で温かい胸の中に収められる。これだから、南方さまは口づけに慣れ過ぎていてきらいだ。ぼくなんか、何度したって慣れないというのに。ずるいし、なんか腹立たしいし。


「ていうか南方さまさ、ぼくの神力なんて南方さまにとってはペーペーのかすかすじゃん。そんなのがほしいの?」


 南方さまは、すこし力を使うといつもぼくの神力をほしがるけれど、全然意味分かんないし。じと、と下から飄々とした南方さまの笑顔を見つめていると、その視線に気づいたようにぼくと視線を合わせ、頬をつついてくる。

 湖みたいな、綺麗な紺碧の目が、くしゃっと歪む。


「ん、ほしくなる。元気が出るんだよ、雨衣の神力は」


 ふうん、とつつくのをやめさせながら、ふたたび南方さまの胸に頬をぴたりとくっつけた。

 ぼくの神力、すこしでも元気が出るくらい強いなら、仕事がほしいよ。


 きっと今のままじゃ、いつか南方さまがぼくの存在に飽きたときに、すぐにいらないって言われちゃうし。お役に立ちたいのに仕事ひとつまかせてもらえないなんて、かなしーし。……一番の側近としては。


(なにか、南方さまのために出来ること)


 そんな最近の目下の悩みを抱えながら、それでもぼくはこの狭い祠の中で、気づけば南方さまに寄りかかりながら眠りについていた。


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