「お前さぁ、本当にいいの?」
「何が」
「高校。武蔵野、受けないの」
学ランのボタンを留めながら、同級生のチームメイトは言った。
俺は何も返事をしなかった。
いい加減、返答を考えるのが面倒だと思った。
【もう傍にはいられない】
「お前、しつこい。受けないって言ってるだろ」
「だって、榛名さんとバッテリー組めなくなるだろ。勿体無い」
「お前よくそんな事言えるな」
投げ捨てるようにそう吐くと、そいつは顔を強ばらせて口を噤んだ。
あー、またこんな言い方。でも、しつこいこいつも悪い。
「だって……あの球捕れるの、すげぇ事だぞ。俺、お前らバッテリーがあと三年組んだらどうなっちゃうんだろって……思うもん」
消え入るようなか細い声で、そいつは言った。
期待する方はそりゃ、良いだろうよ。
その結果しか、知らないんだしさ。
「俺、あの人の球捕るために生きてんじゃないんだけど」
ほら、まただ。
俺は榛名の話題になると、いくらでも酷い言葉を吐き出せる。
自分が受ける側になれば堪えられないくらいの、胸にえぐり込む言葉。
どんなに傷つけても構いやしないっていう、自分勝手な感情の塊。
終わりにしたいから、こんな話。
俺はどんどん性格が悪くなる。
「阿部、ごめん」
そいつもぐるぐる自分の中で考えての結論か、それだけ小さく口にした。
怯えているのか、傷付いているのか、それでもまだ何か言いたげなそいつの表情は、酷く俺を苛立たせた。
自制心を精一杯稼働させて、かつがつ頷いてみせる事だけは出来た。
更衣室の切れかけた電灯のせいで、目がちらつく。
目頭を少し揉んでから、俺は重たい鞄を肩に掛けた。
まだ隣に立つそいつは、いつか見た誰かに似ていた。
外に出ると、冷たい北風が頬を叩いた。
一人の帰路。頭上で鳴くカラスの嗄れた声の他に、音は何もなかった。
野球道具一式の詰まったエナメルバッグと、教科書と参考書で膨らんだ鞄の重さが肩にのし掛かる。
正捕手はもう既に後輩に変わった。
シニアももうすぐ引退だ。
これから受験があって、卒業して、高校に上がる。
そこで出会った投手とバッテリーを組む。
毎日毎日そいつの球を捕る。
全部全部無くなる。
あの人との接点が、無くなる。
不意に涙が溢れてきた。
絶対に零すまいと、目に力を込める。
思い出が溢れ出す。
痣だらけにされた投球。
取っ組み合いの喧嘩。
壁になって、ボロボロになって、ホームに置き去りにされて、まるで俺がそこに存在しないみたいに。
でも何より色濃く記憶に残っているのは、頭を撫でて褒められた事。
どんなに辛くても、苦しくても、心の底から嫌いになれない。
いつまでも信じてる。
たった一回の、あの人の、ずるいずるい思い出。
俺だって、思ったよ。
あと何回あの人の球を受け止めたら、辛い思い出より、良い思い出の方が上回るんだろうって。
でも、俺はきっともう駄目だ。
いつの間にかこんなにも、あの人に入れ込んでいる。
涙を堪える為に顔を上げると、カーブミラーに映った自分の姿が見えた。
そこに映る自分は、いつか見た誰かに、酷く似ていた。
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