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詩集
泣く
寝息が
はっきりとした声に
聞こえるくらい
静かな部屋の中を
その日いちにち
飛び回っていた蚊が
とつぜん
ぱたんと落ちて
浴室から
何かが絶望的に
崩れる音がしたので
台所のかどを曲がり
浴室の扉をあけると
そこから先が崩れていた

なめらかな夕立に似た
ノイズのすくない
水の帯のようなものが
崩れた先にあるべき
海なり
地べたなり
突きあたりを
消そうとしていた

足もとに
たぬきの顔をした
スポンジが貼りついていて
こちらを
飽きずにじっと
見つめているので
つまさきで軽く
たぬきの右耳あたりをこづくと
とびらの桟の
レールにぶつかって
たぬきは
おかしなくらい跳ねあがり
崩れた先へと落ち込んでいって
思っていたよりも浅いところで
ふと消えてしまった

いま
世界中で
この部屋のバスルームだけが
くずれてしまっているのだろうか
と思ったのだけれど
夜も明けないような
こんな
うす青いあかつきに
こんなことに悩むのは
私しかいないのだろうと
どうしてだか
とてつもなく
さびしくなって
床を這う
蚊をちり紙ごしにつかんで
すこし力をいれて
そのまま
浴室のとびらに投げいれた
紙切れと
つぶれた蚊は
たぬきと同じように
あるときとつぜん
奥のほうで揺れるなり
唐突に消えてしまった
くずれたはずの
浴室のパーツは
消えたきり
浮いてはこなかった

わたしはしばらく
浴室のくずれたさまを
どこを見るともなく
眺めてから
寝床に戻り
寝具の布地の
空洞に充満する
寝息を聞きながら
覚えのない明日のなかを
眠った

目をさますと
南中した日が照っていた
何の音もなかった
寝息は消え
窓ガラスは
川の音を遮り
薄赤いカーテンは
ほこりを絡めとっていた
誰も動かなかった
わたしがひとり
身を起こしたまま
あたりを見回していた

浴室を見に行くと
くずれた浴槽も
シャワーヘッドも
ノズルも
フックにかかったタオルまで
元どおりにもどっていた
何も崩れてはいなかった
ただ
静かだった
寝息の消えた部屋で
わたしはただ
ひとりだった

靴を穿く気も
窓を開ける気も
足音を出す気にもならなかった
足もとには
直方体のスポンジが転がっていた
わたしはそれを
つまさきで軽く
浴槽へ向けて突いて
浴室のとびらを閉めた
静かだった

わたしは
とびらの前で
声を殺して泣いた
静かだった
りいんと
耳鳴りがしていた
それも消え
私は世界の中で
孤独に泣いた
ただ静かだった



あきゅろす。
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