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彩雲の緋
面影

ふとした折に聞こえる女官たちの談笑。官吏たちの交わす声。その中によく知った響きが混じっている気がして、陽子は後ろを振り返る。

――当然そこに求める彼らの姿があるはずはない。振り返った翠の双眸に映るのは、言葉を交わしたこともない人物の見知らぬ横顔ばかり。
 
これは反射のようなものだ。理性では分かっている、この世界にあちらの人間がいるはずがないのだと。振り返ると同時に、その一拍後には冷たい失望を味わうことを既に分かっている。

だから、彼の姿を初めて見たときには――本当に、心臓が止まるかと思った。



「――浩瀚!?」
 
突如として府庫に響いた声に男は驚いて声の主の方を向いた。

書架の前で男と会話をしていた邵可も、扉の側に立つ少女を見つけて不思議そうな色を浮かべる。

「どうしたんだい? 陽子」
 
柔らかく問いかけられるも、陽子の眼は男に釘付けになって離れない。
 
三十前後に見える文官。切れ長の眦に、怜悧な面立ち。

似ているなどというものではない――瓜二つだ。あの冢宰に。
 
男は一歩前に進み出ると袖を持ち上げて拱手する。

「蔡 苑慈と申します、中島陽子殿」

「蔡……苑慈」

長年傍にあった声で紡がれた、聞いたこともない名。当然か――ここは彩雲国なのだから。

陽子は軽く目を伏せると自分を落ち着かせるために深く息を吐いた。
 
この男は浩瀚ではない。似ているだけのただの別人だ。そう、蓬莱には世界には同じ顔の者が三人いるという話まであったではないか。
 
陽子はゆるりと瞼を上げ、再び男の姿をその瞳に映した。

「すまない――あまりにも知り合いとよく似ていたものだから、驚いてしまって。大声を出して悪かった」
 
いいえ、と男は微笑んだ。浩瀚よりも少しだけ柔和な印象を与える笑み。それを見て、やはりこの男は浩瀚ではないのだと確信した。

「会うのは初めて……だよな。前に会っていたなら、私が忘れられる筈がない」

「そうですね。こちらから一方的にお見かけしたことはありますが、顔を合わせたのはこれが初めてかと」
 
しかしそこから互いに続ける言葉もなく、二人の間に静寂が流れ始めたところで、いつの間にかその場から姿を消していた邵可が府庫の奥から書物をいくつか携えて戻ってくる。

「苑慈殿、さっき話されていた書というのはこれですか?」

「ああ、これです。かたじけない」

「しかしあと一冊は数年前に奥の書庫に仕舞い込んでしまったようで。出すのに手間取りそうなので、また明日来てもらえると有り難いのですが」

「そうですか。では明日また伺います」
 
それではこれで失礼を、と府庫を後にしようとした男を引き止め、陽子は一言だけ言う。

「――また、見かけたら声を掛けても良いだろうか」
 
いつなりと、と短く帰ってきた応えに陽子は小さく胸を撫で下ろす。

きっと自分は、明日から無意識にのうちにこの男の姿を捜し求めるようになるだろうと、確信めいたものを感じていた。



「彼は冗官だよ」
 
蔡苑慈がいなくなった後の府庫。彼の所属を知らないことに気が付いた陽子に、邵可はそう教えた。

ここは邵可の私室のような部屋なので周りに他の官吏は一人もいない。

「冗官? 官位がないということですか」

「うん。官位が無く、どこの部署にも属していない官吏のことだね。それでも一応は官だから一定の禄はもらえるけど、きちんと役職に就いている官よりは少ない」

「働かせないのに禄は与えるのか。妙な仕組みですね」
 
思えば、特に当てもなさそうにふらりと外朝を出歩く若者を幾度か目にしたことがある。暇を持て余したような風の彼らはその冗官とやらだったのだろうか。

「だけどね、冗官であることには利点もある。それが何か分かるかい?」
 
陽子は少し考えてから答えた。

「組織の束縛を受けないこと、とか?」
 
思いつきで言ったのだがどうやら正解だったらしく、邵可は糸のような目を更に柔らかく細めて頷いた。

「そう。冗官はどこの部署にも属していないから、自分の行動に関して許可を取る必要もないんだね。当然、官位がないのだから何かをする権限がある訳でもないけど、冗官には仮配属制度があるから」

「仮配属、ですか」
 
邵可はまたひとつ頷いて言葉を続ける。

「仮配属というのは文字通り、一時的に配属される制度のことのことだね。まずは各部署が一時的に使いたい冗官に対して申し入れをする。その冗官が申し入れを受け、期間や報酬なども決まったらそこで契約成立だ。吏部を通す必要もない。契約期間はその部署に所属し、期間が終わったら働いた分の報酬をもらって去る。仮配属は最長でもふた月までとされているから、それ以上の期間となると正式に配属されないといけなくなるけどね」

「仮配属されている期間は官位が与えられる?」

「いいや、やはり無冠のままだよ。だけど求められた仕事をこなすための権限は与えられるから、行動に支障が出ることはないかな」
 
成程。そうやって短期の仕事をこなしながら様々な部署を渡り歩けば、収入も得られるし人脈も広がって一石二鳥という訳だ。しかしその制度を実際に活用している冗官が一体どれほどいるというのか。

「うーん、実を言うとほとんどいないんだ。まず声がかからないと契約を結ぶこともできないし、逆に声がかかるほど優秀な人物なら冗官のままでいることもないからね。――ああでも、さっきの蔡官吏はその数少ないうちの一人だよ」
 
それはつまり、蔡苑慈がその声がかかるほど優秀な人物≠ナあるという意味なのだろう。

「しかしそんなに優秀なら、どうして未だ何処にも正配属されていないのだろう」

素直に疑問を示すと、邵可は微笑んで目の前の陶器の茶器を手で包み込んだ。先程陽子が茶を淹れたばかりなのでまだ細く湯気が立っている。

「そうだねえ。祭官吏ほどの人ならあちこちから声が掛かっているはずだから、今も冗官でいるということは、本人の意思なのだろうね」

「本人がどこにも配属されたくない、と?」
 
それは随分と無欲なことだ、と陽子は思う。実際がどれだけ優秀であろうと、冗官でいるうちは官位はいつまでも白紙のまま。つまり出世の道を望むこともできないのだ。

「でも彼が冗官でいてくれることで、皆は助かっているみたいだよ。彼の能力を一つの部署にひとり占め≠ウれずにすんでいるのだから」

「へえ……そういうものなのか」


* * *

 
気にかけてさえいれば人の噂などというものはいくらでも耳に入ってくるもので、幾日もすれば蔡苑慈という男を周囲がどう認識しているかが大体見えてくるようになった。

聞こえてくる噂話の中には蔡苑慈がなぜ冗官に落とされたのかなどの情報も含まれている。

――親族の罪を被せられた、か。ありがちなことだ。
  
あれからというもの、陽子と蔡苑慈はそこらで会えば軽く言葉を交わすような間柄になっている。見かけるのは最初にあった時のように府庫だったり、六部のいずれかだったり、他の省だったり――そう、一度は劉輝の執務室でも顔を合わせたことがある。彼がどこの用でも請け負って動けることは聞いたが、まさか王までもが彼を使っているとは思わなかった。

だが彼があの声で劉輝のことを主上、と呼びかけるのを耳にして、小さく胸が疼いたような気がしたのは――きっと気のせいだ。



「近頃、蔡苑慈と親しいそうだな」

御史台から借りた、過去に反逆罪で捕えられた者たちの調書を読んでいると、不意に清雅がそんな話題を向けてきた。
 
陽子は壁際の椅子に座ったまま、書から視線を上げずに答える。

「別に親しいというほどでもないと思うが。それにしてもよく知っているな」

「知らないのか? 一部では噂になっているぞ。留学生の女が冗官に恋をした、とな」
 
冷徹を絵にしたような男の口から思いがけない単語が飛び出してきて、陽子は目を丸くする。

「恋だと?」

その単語をはっきりと認識すれば笑いは遅れて込み上げてきた。

「それは傑作だな。なんだってそんな出鱈目が出回っているんだ? 私が言葉を交わす男は何も彼だけではないのに」

女だということが知れ渡り、自分がいま秀麗とは少し違う意味で注目されていることはよく承知している。一つ一つの行動に非難を向けたくもなろう。しかしよりによって蔡苑慈と浮いた噂を立てられることになろうとは予想外もいいところだ。
 
調書を閉じて窓辺の几案に料紙を広げている清雅の方を見やると、清雅は筆を置いて嘲笑めいたものをその口元に浮かべた。

「自分で気付いていないのか? 俺も一度お前があいつと廊で話しているのを見たことがあるが――随分と、切なげな眼をしていたじゃないか」

「私がか?」

「あんな様子を晒していては、そう思われるのも当然だと思うが」

「……そうか」
 
それは気付かなかった、と陽子は呟いて深く溜息を吐いた。

「だったらそう思われても仕方ないかもしれないな。だけどあれはそういうのじゃない。ただ、あの蔡苑慈という男が――」

「国に置いてきた知り合いにでも似ていただけだろう。違うか」
 
陽子の言葉を遮り清雅がそう言い放つ。
先の言葉を失った陽子は二、三度目を瞬かせて、心底不思議そうに首を傾ける。

「いや、まったくその通りなのだが……何故分かった?」
 
清雅がフンと鼻を鳴らす。

「取引相手のことを調べるのは基本中の基本だろうが。この国に来た当初から随分と仙洞省に入り浸っているとは思っていたが――まさかこの世のものでなかったとは、恐れ入った」
 
恐れ入ったという顔には全くもって見えないが、その口振りからするとあらかたの事情は知った後なのだろう。

「少し探りを入れただけで随分とあっさり出て来たが、一体何を考えている?」
 
眼を眇めて疑るような表情になった清雅に陽子は、勘ぐりすぎだ、と一笑する。

「最初から隠す気など持ち合わせてはいないよ。だからと言って、わざわざ自分から素性を言い触らすかどうかはまた別の問題だろう。――言ったところで理解してもらえるか怪しい話では尚更な」
 
だから陽子はまだこの国の誰にも自分の全ては明かしていない。清雅が探ったという陽子の情報も、恐らくは綻び≠ノ関することが主だろう。それ以外のことを陽子が未だ誰にも漏らしていない以上、どこをどう調べようと出てくる訳がないのだから。

清雅は軽く舌打ちすると陽子から視線を外してまた筆を取った。

「――まあいい。別の世界の話など俺には興味がない。それよりも明日、お前の犬を借りるぞ」

「ああ、構わない」



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