彩雲の緋
対峙
この国に来てからというもの班渠が陽子の側から離れたことは殆どないから、今日のように清雅に貸し出した日にはいつもより無防備なようで少しだけ落ち着かない。
しかし大して時間はとらないということだったから、夕刻には戻ってくるだろう。
人の多い廊を避けて外朝を歩いていると、陽気な高い声が陽子の名を叫ぶのが聞こえた。
「陽子さまっ!」
陽子がその場に足を止めると、直線的な廊の向こうから侍童服を纏った幼い少年がこちらに向かってぱたぱたと駆けてくる。
少年は陽子の少し手前でぴたっと立ち止まり、袖を合わせてぺこりと頭を下げる。
「陽子さま、おひさしぶりです」
礼をした拍子に軽く束ねただけの髪が馬の尾のように跳ねた。
陽子は小さく微笑んでその朱色の頭を見下ろす。
「久し振りではないだろう、李経。つい三日前にも会ったばかりだ」
「三日も前ですよ!」
陽子は笑って自分の胸の下の高さまでしかない頭に掌を乗せた。李経は嬉しそうに口元を綻ばせる。
この李経という名の小さな侍童は何故だか陽子によく懐いていて、どこかで見かければ必ず傍に寄ってきて他愛のない話をしていく。
それは陽子の性別が城中に知れ渡ってから変わらなかった。
──陽子さまが本当は男でも女でも、ぼくにとっては理想の男≠ナすよ! 強くて、かっこよくて。
──ぼくもがんばって、大きくなったら陽子さまみたいな男になるんです!
慕われるのは純粋に嬉しいが、理想の男≠ニまで言われたのは流石に複雑な気分だ。
思い出して苦笑を浮かべた陽子に李経は小さく首を傾げたが、ふと何かを思い出すと懐に手を差し入れた。
「そうだこれ、忘れるところでした。さっき陽子さまにってあずかってきたんです」
小さく畳まれた文を取り出すと、陽子に両手で差し出す。陽子は目を細めてそれを受け取った。
「誰からだ?」
「えっと、礼部のひとです。誰もいないところで読んでください、って言ってました」
おじゃまになるといけないのでもう行きます、と言って李経はぺこりと頭を下げるとまたぱたぱたと足音を立てて去っていく。
すぐにその足音も聞こえなくなって。陽子は周りに誰もいないことを確認すると、手近な空室を見つけて中に入った。――言いつけ通り、一人になってこの文を読んでやるために。
* * *
外朝は広い。
いくら人が多いといえど、これだけの面積があれば滅多に人の寄り付かない場所など探せばいくらでも見つかる。
使われなくなった堂や、屋根の傾いた東屋。手入れのされていない繁み。
陽子が文で呼び出されたのもそのような場所のひとつだった。
周囲をまばらに樹々で囲まれた、屋根のない東屋。恐らく柱が腐って屋根が落ちたのだろう。もう長いこと誰も訪れていないような一画だった。
好き勝手に伸びている下草を踏みしめて、陽子は文に書かれていた場所に立つ。西日が木々と陽子の影を落とし、徐々にその長さを伸ばしていった。
遠くから鐘の音が響き、指定の時刻が来たことを知らせる。
同時に、鋭く風を裂く音が右の鼓膜を刺激した。
とす、と軽い音を立てて、陽子から少し離れた地面に矢が刺さった。陽子はそれを一瞥する。
「そんなことだろうとは思ったが」
そう呟いて、淀みない動作で温袍の下に隠していた水禺刀の鞘を払う。
間髪おかず四方から陽子に向かって矢が降り注いできた。
陽子は刃を閃かせてそれらを片端から叩き落とす。折れた矢の残骸が陽子を中心に放射状に散乱していく。
「ッ!」
矢の中に一本だけ混じっていた短い刃。それが手元をくぐり抜けて真っ直ぐに陽子に向かう。
肩に刺さるかと思われた刃はしかし衣服をかすめただけで通り過ぎた。続けて飛来してきた幾本かの短刀も同じように布だけを切り裂いて通過する。
――やはり冬器ではないのか。
陽子はフッと口元に笑みを漏らした。
試しに体の中心を捉えて向かってくる矢の一本をわざと取り逃がし胸の位置で迎える。矢は、まるで玻璃の壁にぶつかったかのように地面に落ちた。
陽子は剣を振るうのをやめた。
鈍く光る鏃と刃がまるで陽子に吸い込まれるように集まっていく。しかしそれは陽子の体に接触する直前で、少しだけ軌道を変えてすり抜け、もしくは何かに妨げられ勝手に地面に落ちていった。
肌を裂くものは、一つもなかった。
……一方的な猛撃がようやく止んだ。
気付かぬうちに髪紐が切れてしまったのか、後ろで括っていた赤い髪が解けて顔の横に広がる。
周囲に潜む複数の気配が動揺している。樹の背後に二人。樹上に二人。東屋の陰に一人。
陽子は水禺刀を鞘に収めた。
「無駄なのは分かっただろう。こちらから手を出しはしないから姿を見せたらどうだ」
一拍の間があり、次いで東屋の陰から下草を踏みしめるかさりという音がした。
「いやあ、お見事」
そう言って出てきたのは軽装を纏ったひとりの男。わざとらしく手を叩きながら陽子の方へと歩を進め、剣の間合いの外で足を止める。
「さっきのはどういう絡繰だったんだ? せっかく毒まで仕込んでやったのに全部ムダになっちまったじゃねえか」
「それは悪かったな。ついでに依頼主の情報も置いていってくれると有難いのだが」
「おおっと、流石にそれはできねえや。一応仕事だからな。つーか、実は聞かなくても知ってるんじゃねえか?」
男はニィッと笑みを浮かべた。
「しかしあんた、よくあんな呼び出し状で出てきたなあ。普通は来るにしても一人じゃ来ないぜ」
「一応殺されない自信はあるからな」
「ほーう。それがさっきのアレか。いやしかしアレで死なねえとは予想外だったぜ」
よく口の回る男だ。これが本当に金で雇われた殺し屋なのか。
陽子は胡散臭げに目を眇めたが男は取り合う風もなくカラカラと声を上げて笑う。
「でもま、こっちとしてもそう簡単に諦める訳にはいかねえんだよな」
背中に別の気配を感じた。この男の喋りに気を取られていて接近に気付かなかったのか。
身構えないまま振り返ると顔面に何かの液体を浴びせられた。陽子は咄嗟に目を閉じてそれをやり過ごす。
――目潰しか。古典的な手だ。
袖で顔を拭い、移動しようと足を動かしたところで足首を鞭のようなもので絡め取られていることに気付いた。
陽子は眼の粘膜が僅かに染みるのを感じながらも瞼を起こす。
恐らくは猛毒だったのだろうが、神仙である陽子にその効果は現れない。
水禺刀を抜いて足首に絡みつく鞭を断ち切る。上げた視界の隅で鈍色の切先がちらついた。
陽子は避けなかった。
次の瞬間、金属が折れた重い音が響き渡る。
カラン、と音を立てて、陽子の足元に折れた鉄の刃が転がった。
「……なんだ、あんた本当のバケモンかよ」
男は吐き捨てるように言うと、使い物にならなくなった剣の柄を放るように手を離す。
「やめだ、やめ。刃も通んねえ毒も効かねえ奴なんかをあれっぽちの金で相手してられるかよ」
男は軽く手を振って他の者に合図を送る。踵を返しかけて、陽子を振り返る。
「このまま逃がしてくれるんだろ? あんたついに一度も反撃してこなかったもんな」
「……他国の民をむやみに殺したくはないからな」
「はッ! よく言うぜ」
陽子は黙って背中を向ける。
行くぞ、という男の声がして、周囲の気配が遠ざかっていった。
東屋の近くにあった池は、長く手が入っていそうにない割にはよく澄んでいた。
陽子はその縁に膝をつき、両手で水を掬って目を濯いだ。ついでに先程毒を拭ってしまった袖も洗っておく。
陽子にとっては害のあるものではないが、うっかり誰かが触れようものならまずいことになりかねない。
一通り気が済んでから陽子は立ち上がった。
班渠はまだ帰ってこない。空を仰ぐと、日没までにはまだ少し時間があることが知れた。
「見―ちゃった」
不意に耳元で感じた声。同時に首を絡め取られ、ひやりとした感触を押し当てられた。
ここまで気配を悟ることができなかった不覚に心中で舌打ちする。
「……凌晏樹。門下省の次官が、人の背後に回り込むのが随分と好きなようだな」
聞き覚えのある声が背後でクスクスと笑いを立てる。
「人聞きが悪いなあ。たまたま通りかかったから、ちょっと驚かそうとしただけじゃないか。いいでしょ?どうせ刺さらないんだから」
その口ぶりからするとさっきからずっと見ていたということか。
陽子は溜息して首に絡んだ腕を掴んだ。
「だったらもう満足しただろう。いい加減に離せ」
「えー、どうしよう。――ねえ、このまま首を絞めたらどうなるの? まさか死にはしないんでしょ」
特に答えは求めていないのか、晏樹はなおも続ける。
「それにしても凄いねえ。これでも僕、結構力入れて押し付けてるつもりなんだけど。これ以上刃が進まないどころか、逆に跳ね返されてしまいそう――」
「――班渠!」
陽子が叫んだのは晏樹の体が地面に叩きつけられるのとほぼ同時だった。
「待て! 殺すな!」
喉笛を裂きかけた妖魔の牙が寸前で動きを止める。それでも剥き出しになった殺気は収まらない。
陽子は赤い獣の首に腕を回し、宥めるように囁く。
「ただの武器だ、冬器じゃない。大丈夫だから下がっていろ」
班渠は躊躇うように小さく唸った。
「いいから」
陽子はもう一度言い、班渠の体を軽く叩く。班渠は渋々、といった風に地面に姿を溶かした。
晏樹はようやく体を押さえつけていた重量から解放されて身を起こした。
「痛ったいなあ……ちょっと、凶暴すぎるんじゃないの君の飼い犬」
衣をはたくと小さく砂埃が舞った。その少しも取り乱したところのない様子に陽子は胡乱な目を向ける。
「そちらにも非はあると思うが、一応謝る。しかし随分と落ち着いているな」
「そんなことないよ? 久し振りに冷や汗までかいちゃったし」
そう言いつつも口元には余裕を表すかのような甘ったるい笑みが浮かんでいる。
予備の官服は置いてあったかなあ、などと着替えの心配までして。
「それじゃあ、僕は行くとこがあるから。もう行くね」
去り際に猫目を更に細めて囁かれた、また会えたらいいね、という言葉は聞こえなかったことにした。
* * *
日が落ちてすっかり暗くなった室に一つだけ明かりが灯り、少女と妖魔の赤色を浮かび上がらせている。
陽子は牀榻に腰掛け、後ろ手に体重を預けて深々と溜息をついた。
「もうその話は飽きた。何もなかったんだから良かっただろう」
「結果論です。御身を粗末になさいますな。いつかのように自ら捕らえられるようなことがあっては台輔に顔向けができません」
「いつの話をしているんだ。あれから何年経ったと思っている」
「ほんの十数年前の話です」
「それにあの時と今回とでは状況が違うだろう。相手が慶の民という訳でもないし」
「首筋に剣を突き立てられて抵抗もなさらない様子を見せられて、そのような言い分を信じるとでも?」
「……」
確かに、あの場面だけを見せられてはそう思われても仕方がないかもしれない。
「……まあ、少し自棄を気取っていたところはあったかもしれないな。こう平坦な日々が続いていると、たまにもどかしくてどうかなりそうになる。……刺激が、欲しかったのかもしれない」
「この国に冬器はなくとも、呪が存在するならばそれをかけられた武器もあるはず。それが御身を害すことがないとは言い切れません」
気を付けるよ、と陽子は疲れたように笑った。
卓の明かりを吹き消すと、牀榻に戻る前にわざと聞こえるようポツリと漏らす。
「……こっちに来てからの班渠は少し景麒に似すぎだ。悪い意味で」
返事は返って来なかった。
そういうところも似ているな、と陽子はまた微笑った。
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