*落書き置き場*
─V (前)
────溜め息が聞こえた気がした。
ゆるゆると眠りから覚めていく。
小さな格子窓から入り込む月明かりで青白く照らされた体育倉庫内に、静かな低音が響いた。
「…ごめん、起こしちゃったか…?」
その低音が随分と至近距離で発された事に、一気に覚醒した。
視線だけを動かしてみれば、左斜め上には柳瀬の優しげな笑みが見えた。
ドクンと一度大きく跳ねた心臓が、秒を刻むよりも速くとくとくと脈打ち始める。
体育の授業以外に使う事が無い、埃を被ったマットの上に柳瀬と並んで座っていた。
すっかり寝こけていた自分の頭は柳瀬の右肩に乗り、柳瀬はこちらの体を抱く様に引き寄せ、ピタリと隙間も無い程に寄り添った体から彼の体温が伝わる。
先程までの心地好い眠りなど何処へいったのか。
身体中が熱さと戸惑いを持て余していた。
柳瀬は呆然と見上げたままのこちらに対して、何でも無いように笑った。
左の手首に嵌められた黒い腕時計を見下ろす。
「今、八時半過ぎたところ」
そう呟いてから、こちらの肩に掛けられている柳瀬のスーツの上着を引き上げて掛け直した。
少し動いただけでも、柳瀬から香る爽やかなコロンの匂いが鼻孔を甘く刺激する。
それだけで体を襲う激しい熱さが増す様で、慌てて柳瀬から体を離した。
柳瀬の腕から離れてマットの上に座り直せば、もう柳瀬の体温も香りも届かない。
少しだけ冷静になった頭で、静かに回想した。
何故、柳瀬とこんなにも近い距離に居るのだろうか、と…………
事の始まりは、卒業式で使った造花の片付けをしていた自分に、柳瀬が声を掛けに来たことだった。
所属する生徒会へと持ち掛けられた雑用は、最年少だからという理由で全て自分一人に課せられ、黙々と大量の造花を箱にしまう作業をしていた時だった。
「本当に一人で片付けしてる」
ちらりと顔を見せた柳瀬が目を丸めて言った。
柳瀬の姿を確認した途端に速くなった鼓動を誤魔化す様に、黙々と作業を続けた。
「香椎が帰ろうとしてたから、片付けはどうしたか聞いたんだけど。
あいつら本当に高宮に押し付けて帰っちゃったんだな」
苦笑して話を続ける柳瀬が背後に立つのが解った。
香椎は、自分を生徒会に勧誘してきた張本人だ。
中学の頃、部活で世話になった一学年上の先輩で、今は生徒会の会長をしている。
そういえば、香椎は柳瀬が顧問を務める弓道部の部員だった。
仲が良いのだろうか、と考えてから慌てて首を横に振った。
ほんの少し過った嫉妬の様な感情が恥ずかしかった。
体育倉庫内に閉じ込められたと気付いたのは、倉庫の一番奥にある棚に造花が入った重い箱を仕舞い終わった時だった。
途中から柳瀬が手伝ってくれたからか作業が思ったよりも早く終わったと喜んで振り返り、異常に気付いた。
開いていた倉庫の扉が閉じている。
顔を引きつらせた自分の横を柳瀬が通り過ぎて扉に手を掛ける。
何度かグッと力を入れて扉を開けようとした柳瀬は、不意に扉を叩いた。
「誰かいますか?鍵が掛けられてるんですが」
柳瀬のよく通る低音が倉庫内に響いても、返事は無い。
一度顔を見合わせた閉じ込められた本人達は、次の瞬間には固く冷たい扉を必死に叩いていた。
暫くの間、助けを求めて声を上げ、音を立てたのだが、全ては無駄に終わった。
昼過ぎに卒業式が終わってから、三時間が経過している。
卒業生は疎か、在校生も下校してしまっただろう。
教師陣すら残っているのかも怪しい。
そんな状態で、誰が倉庫内に人が居ると気付くだろう。
柳瀬に促されてマットの上に座れば、唐突に寒気が襲う。
三月の初旬。まだまだ冬の冷気は治まらぬ時期だ。
くしゅんと一つくしゃみを溢せば、すかさず柳瀬が上着を肩に掛けてくれた。
慌てて礼を言えば柳瀬は笑う。
寒い体育倉庫内に閉じ込められたというのに、柳瀬は冷静だった。
「今日の見回りは吉田先生だったな…
俺達に気付かないで鍵を締めちゃったのかもしれない」
吉田先生。
反復した。
古文の担当である吉田は、定年間近という年齢のせいかは解らないが、どこか抜けている。
吉田なら、人が居ることにも気付かずに鍵を締める事も充分有り得た。
それからゾッとした。
見回りが終わってしまったのなら、校内には自分達以外は居ないのではないのだろうか。
慌てて制服のポケットを漁った。
鞄やマフラーと一緒に、携帯電話を生徒会室に置いて来てしまったらしい。
助けを求める様に柳瀬を見上げれば、柳瀬は眉を下げて首を横に振った。
「ごめん。俺も携帯置いてきた」
あからさまに肩を落とした自分の隣に柳瀬が腰を下ろす。
「明日は振替休日だ」
「……誰にも気付かれなかったら、明後日まで人が来ないっていう事ですか…」
「明日はどこも部活休みだからな…
高宮、家の人が心配するだろう」
日が落ち始めて薄暗くなった倉庫内で、柳瀬が声を落とす。
首をゆっくりと横に振れば、柳瀬は眉を寄せた。
「両親、共働きであまり家に帰って来ないから」
「……そうか」
それから、柳瀬は黙り込んだ。
言わなければ良かった。
そういう後悔が押し上がるのを堪える様に目を伏せた。
体育座りで膝を抱え、額を膝に押し付けた。
片付けで疲れていた体が重くなる。
そのままその重みに耐えていれば、気付けばふっと眠りの淵へと落ちていた。
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