ラストオーダー
オーダー1




ああ、今日も綺麗な人だなあ。


いつもと同じカウンター脇の窓際の席を陣取って、その人を眺めた。

賑やかで活気が溢れる商店街の外れ。自分が通う大学の近くにある、小さな喫茶店。
白と黒のモノトーンで統一したレトロな雰囲気の店内には、使い込まれたレコードの再生機が置いてある。大きな静かな静かな店内に流れるのは、再生機から流れる落ち着いたジャズのBGM。
物静かで穏やかな笑みを崩さない優しげな老年のマスターが営む小さなオアシスに、漂う香ばしい珈琲の香り。珈琲豆を手動のミルで挽く音が、レコードのクラシックに合いの手を入れるのが妙に心地良い。

静かで、素朴な印象のあるその喫茶店で働くバイトの男性が、本当に綺麗だ。

地毛なのか染めてるのかはわからないけれど、陽に当たるときらきらと朱色に輝く細い赤毛に、少し冷たくも見える切れ長の瞳。長い睫毛は下目蓋に影を落として、たまたま触れてしまった肌は滑らかで冷たかった。薄い唇から流れる低めの声は落ち着いていて、この小さな喫茶店の静かな雰囲気に良く合っている。
白いシャツに黒いネクタイ、腰から踝までを隠す長い丈のソムリエエプロンというスタイルが、この喫茶店の制服らしい。店長と同じ格好だけど、その人はまるでモデルのように似合っていた。

一時も変わらず優しい表情のまま珈琲豆を煎る店長の隣で、ただ黙ってグラスや食器を拭くその人を、読み掛けの文庫本を開きながら見つめた。

通い詰めるうちに、何も言わずとも頼んだ珈琲にミルクがたっぷり淹れてもらえるようになった。
この喫茶店に初めて来た時、良い香りはするけれども自分にはまだ大人すぎる苦い珈琲に顔を顰めていたら、その人は何も言わずにミルクを差し出してくれた。咄嗟にありがとうございます、と言えば、その人は一礼して去っていく。
二度目に来た時、珈琲を頼んだら他の人よりも多めにミルクをセットしてくれた。
すべて使い切ってみれば、丁度良い甘さで、思わず笑みが零れてしまっていた。初めて珈琲を美味しいと思った瞬間だったけれど、その瞬間を見ていたその人は、少しだけ目尻を緩めて、一礼して去っていった。
三度目は、ミルク多めでいいですか、とオーダーの時に言われた。驚いてしまって、こくこくと頷くしか出来なかったけれど、覚えてくれていたことが嬉しかった。


その人の名前は、カナタさんというらしい。
前に店長さんがそう呼んでいた。

カナタさんは自分より二つ歳上で、自分とは違う大学に通っている。
これは、噂に敏感な友人から聞いた。


カナタさんは、ほぼ毎日足を運ぶようになったこちらを覚えてくれたらしく、店に入ると軽く会釈してくれる様になった。
喫茶店の扉を開いて中に入ると、こちらの姿を捉えた切れ長の瞳がゆっくりと瞬きしてから、頭を下げる。慌ててこちらも深々と頭を下げ返すと、いつも座る窓際の席にカナタさんが先導してくれる。
椅子に座って見上げたカナタさんの目はどこか嬉しそうに緩んでいて、「すっかり常連ですね」と優しい声で言われた。
オーダーや珈琲の事でしか話したことが無かったカナタさんが、仕事以外のことを話してくれたことは初めてで、嬉しそうな声を聞くのも初めてだった。


その時は飛び上がるくらい嬉しくて、あれ? なんかこれは脈有りか! なんて突発的に思って、あんな事を言ってしまった事を、今は後悔している。

つい二日前。
いつもの様に珈琲を頼んだ自分は、ポロリと言ってしまった。


「今日も美人っすね」


いや、心の中で言ったつもりだった。
何故か口から出てしまっただけだ。

でも、その瞬間、目に見えてカナタさんは固まった。
切れ長の目が真ん丸になり、ジッとこちらを見つめていた。

暫し射るように見ていたカナタさんが不意に目を逸らして、「ミルク多めでしたよね」とだけ呟いて去って行った。

いつもはカナタさんが珈琲を運んできてくれるのに、その日は店長さんが持ってきた。




やっちまった。男が男に対して、美人、はねぇだろ。
カナタさんの引いている表情が頭から離れなくて、その夜は眠れなかった。

次の日、恐る恐る店に入ると、カナタさんは会釈してくれなかった。

終わった……嫌われた……
どん底の気分で頼んだのは、いつもと違ってメロンソーダ。
やっぱり、店長さんが持ってきた。




今日。自分は覚悟を決めて店に来た。
今日もカナタさんが運んできてくれなかったら、もうこの店には来ない。
カナタさんに引かれて無視されていることを肌で感じるのが、もう辛すぎたから。

店の扉を開いても、カナタさんとは目が合わない。カウンターの向こうで食器を洗うカナタさんの姿を確認して、胸が痛くなった。カナタさんは、こっちを見なかった。
席に着くとふらりと近付いて来た店長さんに珈琲を注文して、下敷きが挟まった参考書をテーブルの上に置いた。
深く長い呼吸をしてから窓の向こうを眺めると、店長さんがせっせと手入れしている小さな花壇が見える。
色とりどりの花の横に苗を植えていたようだけれど、花が咲く様子が無い。いつか、野菜か何かが生るんだろうか。

たまにその花壇の前でカナタさんがぼんやりしているのを、自分は見ていた。
何考えてるんだろう、とか、何の花を見ているんだろう、とか思うと目が離せなかった。
春の白い陽射しの下に立つカナタさんの背中が華奢で、少し寒そうで、何度も声を掛けたくなった。
でもいつも声を掛けられないまま、店を後にする。
お会計の時に、ごちそうさまでした、と告げるのが精一杯で、そんなこちらに、カナタさんは少しだけ目許を緩める。その表情も、綺麗だと思った。


もっと知りたいなー、話してみたいなー。
毎日通って、いつか、いつかきっと……
そう、信じてたのになぁ……


今日でこの花壇も見納めかね。
そう思うと、少し寂しいこじんまりとした花壇も、輝いて見えるから不思議だ。


店内に流れるジャズも、蔓延する珈琲の薫りも…・・・
カナタさんを見つめて飲む珈琲の甘くて少しほろ苦いあの味も、今日で最後か…・・・

そんなことを考えていたら柄にもなく涙目になって、鼻をすすった。
ポケットティッシュを探して、ごそごそと鞄の中を漁ってみても、いつもは入っているはずのティッシュが見当たらなくて、それでまた少し泣きそうになってしまう。

両端がふるふると滲んでいたその視界に、湯気の立つカップが入り込む。
かちゃん、とソーサーの音を鳴らしてテーブルに置かれたカップには、店長さんがにこにこと煎った豆から抽出した珈琲が並々と注がれていた。
ミルクが多めに淹れられた、白と深い茶色が混ざり合ったカップの中身は紛れもなく、「いつもの珈琲」。
恐る恐る視線を上げると、視線の先にはカナタさんが眉を寄せて立っていた。


「……何で泣いてんだ」

不機嫌そうな低い声で問われ、慌てて服の袖で目と鼻を拭う。
それから一呼吸置いてから、口を開いた。

「カナタさん、俺…・・・」

カナタさんは眉を寄せたまま。
そんなカナタさんに、思わず気が抜けてヘラリと笑った。

「ここの珈琲、大好きです」
「……あっそ」

大袈裟に視線を逸らして、足早にカウンターに戻って行ったカナタさんに、ふへへとだらしなく笑って、カップに口をつけた。

ミルク多めの甘くてほろ苦い珈琲はまだ、飲み納めしなくてもいいみたいだ。



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あきゅろす。
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