ラストオーダー
オーダー11
カランカランと軽く鳴ったベルの先。
カナタさんはいなかった。
それに気付いた瞬間、一気に力が抜けて、入り口に座り込んだ。
大学からひたすら駆けてきたから、息は乱れてはぁはぁと苦しく、ドクドクと耳に響く程心臓が五月蝿く鼓動する。
額から流れた汗を拭う気力さえも無く、床に置いた指が木目の線をなぞった。
不意に、視界の隅から水が並々と入ったグラスが差し出されるのが見え、反射的にバッと顔を上げてしまう。
カナタさんだと、思ったからだ。
しかし、視線の先にいたのは、カナタさんではなく店長さんだった。
何も言えず、息を乱したまま店長さんを見上げる。
そうしていると、店長さんは一度グラスをカウンターに置いてから手を差し伸べてきた。
いつもの優しいニコニコ顔に堪えきれず、唇を噛んでから目をそらす。
カナタさんがバイトを辞めると言ったのは、自分が原因なのかもしれない。
そう思うと無性に申し訳なくて、目を合わせることが出来なかった。
ギュウッと唇を噛んだまま動かない自分を眺めていた店長さんは、真正面で腰を屈め、突如こちらの脇の下に両腕を回してくる。
半ば抱きつかれている体勢にギョッと目を丸めていると、そのままグイッと引き上げられた。
店長さんの支えに甘んじていると、力が抜けていた足でも立ち上がることが出来た。
「…ありがとう、ございます…」
ふらふらと壁に寄りかかりながら言えば、店長さんはにっこりと微笑む。
さぁ、どうぞ。とでも言わんばかりに片手で奥に進むよう示した店長さんは、こちらが動き出すのをカウンター脇で待っていた。
壁に片手をついて体を支えてから、ゆっくりと店の奥に進んでいく。
いつもより断然重い足取りで辿り着いた窓際、いつもの席に座ると、どっと溜め息が溢れた。
後ろを付いてきていた店長さんがテーブルに置いてくれた水を、一気に飲み干す。
走り続けて渇いた喉に、その冷たさが染み渡るようで心地良い。
空になったグラスをテーブルに置いてから、ソッと店長さんを見上げた。
その視線に気付いた店長さんは、再度にっこりと笑う。
そして、ゆっくりと上げた片腕で、二階に続く階段を指してみせた。
カウンター脇にある階段から行ける二階は、小さな屋根裏部屋の様になっていて、専らカナタさんが休憩に使っていると聞いたことがあった。
―カナタさんは、二階にいるらしい。
店長さんはゆっくりと腕を下ろして、カウンターへと戻っていった。
空になったグラスを見つめ、随分整った息を大きく吸う。
一度は治まった五月蝿い心臓が、再度強く打ち鳴り始めた。
もう一度、息を吸う。
立ち上がって、初めて上がる階段へと歩み始めた。
カウンターの横。
普通なら、客である自分が入るべきじゃない場所。
それでも店長さんは、笑みを崩さない。
止めるつもりは無いらしい。
そっと、狭い階段の一段目に足を掛けた。
少し軋んだ音すらも敏感に拾い上げた耳から、一気に緊張が高まっていく。
一段。
もう、一段。
そして、あと、一段。
屋根裏部屋と聞いていたわりに広い二階は、大きな窓が開け放たれていて、爽やかな風が真っ白なレースのカーテンを揺らしていた。
そのカーテンに包まれる様に、カナタさんは立っていた。
窓のサッシに両手を着いて、外を眺める様に背を向けている。
ヒラヒラと風に揺れるカーテンが、カナタさんの体を見え隠れさせていた。
その見慣れた華奢な背中を見ただけで、胸が締め付けられるようだった。
きっと自分は、カナタさんを更に迷惑を掛けに来た。
何も言えずにその後ろ姿を見つめていると、カナタさんはゆっくりとサッシから手を離した。
振り返りはせず、カナタさんは俯く。
「…何で来たんだよ…」
不意に呟かれた低い声に、肩が跳ねた。
まさか、気付いているとは思わなかったから。
ドクンドクンと鳴る鼓動を押さえ付けて、息を吸ってから、真っ直ぐにカナタさんの背中を見つめた。
「…嫌だったからです」
カナタさんの細い赤毛が、風で靡いた。
「このまま、中途半端に終わらせるのが嫌だったからです」
「……中途半端…?」
振り返らずに反復するカナタさんに、ギュッと拳を握る。
嫌だったから。
まだ、伝えたい気持ちの半分も伝えられてないのに、終わってしまうのが。
自己中心的で、カナタさんを困らせてばかりの気持ちだったけれど、この気持ちが今までカナタさんと自分を繋いでいたから。
「カナタさんを愛しています」
好き。じゃ、足りない。
どんな言葉なら伝えられるのかがわからない。
カナタさんに対する賛辞の言葉を並べても、根幹にある一番伝えたい気持ちは伝えきれない。
「愛しています」
言葉にしても、まだ足りない。
自己満足ばかりの想いが溢れるばかりだ。
「……カナタさんを、愛しています」
何度でも伝えなければ、きっと届かない。
でも、もう、それは叶わない。
[*前へ][次へ#]
[戻る]
[小説ナビ|小説大賞]
無料HPエムペ!