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ふ明


「こわ」
「何が?」

18階ベランダ。突き抜けるビル風。鉢植えポトス。
隣の奴が震えてる。

「怖え」
「何が怖いの?」
「…お前にはわからない」

彼は自分の体を抱きしめて、弱々しい声でそう言った。
濁った瞳は、苔まみれの排水溝に吸い寄せられている。
何かに追いつめられている背中が、実際の質量を失って小さく見えた。

「…クショオ、なんでこんなに」

奥歯の隙間から絞り出した声は、急激に小さくなっていって、こんなにの後はほとんど聞こえなかった。
しばらくすると、やけに彼の呼吸が乱れ始めた。
すすり泣いているようだった。

「大丈夫?」

手を伸ばしたら振り払われた。うずくまって、彼はか細く声を上げた。ポトスの葉がこすれて、かさかさ言った。平手をくらって、じんじんとしびれる手を、反対の手でそっとなぜた。

そうだ。多分俺には分からない。
彼が泣いている理由。
彼を脅かすものの正体。

彼はいつだって饒舌で、その話題は一人の人間の頭から出ているとは思えないほど多岐にわたっていた。
それは時にとんでもないひらめきだったり、俺の頭じゃ到底考えられないほど 知性的だったりして、その一言一言に俺は感心したり同調したりした。
でも時々こういう風に、訳も分からず感情を爆発させたりする。
『世の中に溢れる不純や欺瞞から押し寄せる波が、自分を犯している』のだそうだ。
その話をされた時、俺があまりに鈍い反応をしたから、以来彼はそれについて話したがらなくなった。
多分、その選択は正解だ。
頭のレベルが違う俺に話しても、理解なんか得られないんだから。

俺は何もすることがなくなって、彼の髪を見つめた。痛んだ長髪が震えながら、ビルのすぐ下から広がる外灯の光を反射して、ちらちらちらちら。ちらちらちら。

「髪、綺麗だね」

ダメージボロボロだけど、それは冬に細かく組まれた電飾のように輝いていた。
俺は尻のポケットから煙草を出した。彼は俺の言葉には応えなかったけど、煙草だけは受け取った。
明るい夜空に、それでも幾つか揺れている星に向かって、俺は、ぷうっと煙を吹きかけた。今夜は月が見えない。ビルの反対側に移動しているのか。それとも都会に飲まれちゃったのか。

「キスして良い?」

短絡的というのかも知れない。俺は、頭を使って何かを生み出すことができない。体から発せられる信号を、欲望を、ただただ満たしていくだけ。
そんな俺を、時に彼が蔑み、哀れんで、優越感を感じていることを、俺は知っている。彼の心の余裕を、健康的じゃないやり方で生み出す存在として見られてる。だからこそこうして一緒に暮らせていることも、知っている。
でも俺にはそんなこと関係なかった。彼に触れること。それだけが、今の俺の全て。

彼は絵空事を追いかける旅人。ラリったヤンキーまがいの商売人。

俺は手近なものを食い尽くす雑食者。茫洋と光に向かって伸びていくだけ。

二人の関係は、どこをとっても一方的で、でもきっとそれでよかった。
18階ベランダはいつまでも夜。
この中で、俺たちは手探りにお互いをつかみ合って、どうせ一人じゃ立てないから、二人でもたれあっているの。

「キスして良い?」

もう一度言うと、彼はゆっくりを顔を上げた。前髪をゆるく掴んで、引き上げた唇にかみつく。

ねえ、俺達お互いの顔を、本当に見たことがあるのかな。
そんな疑問が浮かんだけど、声に出さないまま彼の喉の奥に押し込んだ。

言ってみれば、手放せない毛布。捨てられないおもちゃ。
それがないと眠れない。
それをなくすと何かが壊れる。
俺の暗い暗い胸の底に、ひどく抽象的に彼が爪痕をつけたの。それをちゃんと言葉にするのは俺には無理で、きっと彼ならできるだろう。
けど言葉にしたところで何だって言うの。結局灰色の日々は変わらない。彼の涙が止まるわけでも、この距離が縮まるわけでもない。

彼を脅かす、広すぎる夜。それを感じさせるビル風が、吹かなければいいのに。二人の間の、ほんの僅かな隙間にさえ、それは無遠慮に入ってきてしまうから。

「ツバキ」

「こえぇよ、ツバキ」
「何が怖いの?」
「…オレにもわかんない」

俺がどれだけ彼を犯しても、彼を取り込んで離さない空想の世界。
ねえここは18階ベランダ。お前の中にいる俺だけを感じて。

星だけが輝いて月のない夜空は、ひどく奇妙だった。


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