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人間ブラインド(東京喰種:ウタカネ)
蟻の巣のように暗かった。ウタの自宅は店と同じように薄暗く、不気味だった。自宅というより根城と表現する方がしっくりくると言ったのは金木だった。
そのウタの根城で、ガサゴソと衣擦れの音がする。その音は打ちっぱなしコンクリートの冷たい壁に吸い込まれていく。
「カネキくん?」
腕の中の金木が突然、背を向けて動き出したので、ウタは怪訝な声を出した。
「すみません、水が飲みたくて」
テーブルの上に乗っているペットボトルを取ろうしているのだ。しかし裸で寒いのでベッドからにょっと腕だけ伸ばしているが、ギリギリ届かない。ウタは上半身を軽く起こして、金木の上にやや被さりながら、長い腕でペットボトルを掴んだ。金木に渡してやる。
「あっありがとうございます」
横着せずにちゃんと取ればよかったと、金木は頬を掻いた。
「どういたしまして…」
ウタは口元を緩めた。
そのままゆったりと水を燕下する金木を眺める。金木がウタの視線に気付いてペットボトルから口を離す。
「何ですか?」
「かわいいなーって思って…」
「………ウタさんって…」
「ん?」
「……何でもないです…」
真っ赤に頬を染めた金木が目線を逸らしながら首を振る。恥ずかしいのかぼふっと布団に潜った。
「何で隠れるの…」
「隠れてません…」
「じゃー顔見せて…」
ウタが布団を剥ぎ取ろうとするのを金木は押さえる。
「嫌ですよぉっ」
ベッドの中で、猫のように二人はしばらくじゃれていた。
ウタはふと思い出したように眼帯をしていない金木の左眼に手を沿わせた。もう嚇眼は発現していない。金木は性行為をしている時に嚇眼が発現することが多かった。それは食欲と性欲が密接に関わっている為ではないかとウタは考える。でも今は右眼と同じ茶色い眼があるだけだ。
「……ウタさん?」
「…君が人間だった時に会いたかったな」
さぁっと金木が青くなった。
「た、喰べる気ですか?」
声が震えている。
そんなつもりはなかったのだが、そういえばそういう選択肢もあったなとウタは思った。
「違う、もし君が人間だったら」
金木の眼は赤くない。
「人間で、ぼくが喰種だと知ってもぼくを好きになってくれたなら」
それはまるで西尾と貴未のように。
「そしたらぼくは君の為に何でもしてあげるのに」
くすりと金木は笑った。ウタは首を傾げる。何故笑うのだ?
「今でも充分、何でもしてもらっていると思いますけど」
それこそが罠だったことをウタは金木に教えてあげない。
競争率の高い彼を手に入れた罠。策。それはただひたすら甘やかすことだった。彼は人間と喰種であるが故に誰にも甘えたり、頼れる立場になかったのだ。皆、彼のことを本気で想って鞭ばかり与えた。飴を与えたのはウタだけだった。必要以上に、作為的に与えた。結果、彼はもたれ掛かるようにウタの手に落ちてきた。
でも、もちろんそんなことは金木には秘密だった。ウタはもう金木を手離す気はないのだ。
「カネキくん」
ウタが呼ぶ。
「ウタさん」
金木が応える。
あぁ、満たされてるなとウタは思った。
*
さっきまで薄暗い部屋にいたのに、今度は明るい外だった。
身体が固まる。ここはどこだ?キョロキョロ辺りを見渡す。知っている。ここは4区だ。汚くて、猥雑で、自分の根城がある4区だ。ただいつも嗅いでいる空気ではない。なんだか懐かしい。泥臭くて、黴ていて、淀んでいる空気。ウタはふとショーウィンドに映る自分の姿に気付いて足を止めた。
そこには若かりし頃の自分がいた。
服装のセンスは変わっていない。が、肌が収穫したてのトマトのように張っていて、水を弾くようだった。食べたことないが。
髪の色はしょっちゅう変えていたからわからないが、おそらく16から18歳ぐらいの時ではないだろうか。そう、間違いなく自分は若返っている。何でこんなことに。
しばらくウタは顎に手を当てて考えていたが、途中で思考を放棄した。
まぁ、いいか。
なってしまったものは、しょうがない。それよりこれからどうするかと、首に手を当て関節を鳴らした所で、はっとした。
カネキくんはどうしているだろう?どこにいるんだろう?そして自分が若返ったってことは向こうもそうなのでは?ということは今、遭遇したら小中学生くらいのカネキくんに会えるんじゃないだろうか?
そして子供のカネキくんは眩しいほどに愛らしいに違いない。だって今ですら、あんなに可愛いんだから。よし、会いに行こう。
ウタの行動は5分で決定した。月山のようには死んでもなりたくないが、金木が絡むとウタも少しバカになった。でも、仕方ないとウタは自分を納得させる。
だって、今は10代なのだ。バカで一体何が悪い?
しかし、はたして金木は昔から20区に住んでいただろうか。そういえばお互い過去の話はしなかったなと襟に掛けていた奇抜なサングラスを取って耳に掛けた。
とりあえずウタはこんなことになる前にいた自宅に向かった。でも案の定、そこに金木はいなかった。というか自宅すらなかった。当然だ、10代の頃はそこに住んでいなかったのだから。
なので、予定通り20区に足を向けた。街は様変わりしていたがウタはちゃんと覚えていた。懐かしみながら、迷うことなく足を動かす。
しかし、遠い。
4区から20区はそこまで遠くなかったはずだ。それなのに何時間歩き続けても4区から出ることすら出来なかった。知らない内に道を間違えた?いや、そんなはずはないとウタは頭を振る。地図や標識を確認したが間違ってなどいないのだ。
あぁ、カネキくんに会いたい。逢いたい。
彼の首筋に鼻を埋めさせてほしい。そして「くすぐったいですよ、ウタさん」と笑いながら咎められたかった。
途中、イトリに会った。彼女もまた若く、幼く、可愛かった。そして元気よく挨拶をしてくれた。
「やっほー!どうしたのウタ?こんなとこで」
「あのさ、カネキくんがどこにいるか知らない?」
「…誰よ、カネキクンって?」
だよねと、ウタは頷いた。それでも歩き続ける。あぁ、カネキくん。
さらに途中、腹が減ったから人間を殺して喰べた。満腹になるとまた歩き出した。四方にも、昔の仲間にも会った。でも誰も金木を知らなかった。また人間を喰った。男もいたと思うし、女もいたと思うし、子供もいたと思うし、老人もいたと思う。しかしウタはまるっきり覚えていなかった。
何日歩き続けても金木に会えなかった。路地裏でまた人間を殺して喰った。口元の血をキレイに拭って公共のトイレに入って顔を洗うと自分がひどくやつれていることに気付いた。元々顔色の悪い方だが、蒼白な上に頬が痩せこけている。使い古しのコートのようだった。こんな顔をウタは見たことがあった。棺の中の人間だ。火葬される前の人間は大抵こんな顔をしているのだ。知識として知っているし、数回、何かの機会に見たことがあった。
「愛に飢えているんだ」
人間を喰ってさえいれば飢えることがないと本気で思っていた当時の自分には、考えもしなかったであろうことが、今のウタにはわかるのだ。
「このままでは死んでしまう」
あぁ。
「会いたいよ、カネキくん」
荒い足音がした。
こっちに向かってくる。その勢いのまま入り口のドアを押して人間が入ってくる。その人間は強面のウタを一瞥することすらなく、ウタの横の洗面台で勢いよく顔を洗った。時々嗚咽が聞こえた。泣いているのだ。その人間、背丈からして子供だろう。その子供は何故かウタの琴線に触れて、子供がトイレを出た後もウタは付いていった。子供はずっと泣いている。後ろのウタには気付かない。
そして子供がついた先は黒と白で閉じられた式場だった。斎場。葬式をしている。
この時点でドクンドクンとウタの心臓は高鳴っていた。冷たい汗が背筋を流れていく。嫌な予感がする。周りの人間達のヒソヒソとした話声が聞こえた。
「喰種に殺られたって?」「そうらしい」「可哀想に、まだ小さかったのに」「最近横行してる喰種が殺ったんだろ?」「頭部しか残ってなかったらしい」「だから4区になんて行ってはいけないの」
ウタの目線は棺に上半身をもたれかけ、腕に顔を埋めて泣き喚いている先ほどの子供と、棺に埋まる死者に釘付けになった。
「うぅ…どうして…」
子供がひゃっくりをしながら、泣いて棺から離れない。そして言った。
「なんでだよ、カネキぃっ…」
まさに今の自分と同じ顔色をした人間の頭部が、棺に埋まっていた。
その人間が金木かどうか、ウタにはわからなかった。
記憶している金木を思い出そうとする。でもわからない。棺に納まっているのが金木かどうか。大学生の金木を小中学生くらいにしたら、こんな感じだろうか?わからない。
深い井戸の底に落ちていくような息苦しさがあった。溺れているような。
ウタはこれまで喰べた人間達の顔を必死で思い出そうとした。その中に金木はいなかったか。しかし、どうしても思い出せなかった。いや、思い出せないというよりはわからないという感覚に近かった。わからない。
何故ならウタは人間を判別することが出来なかったからだ。
今、この瞬間になってウタは自分のこの病気のような、癖のようなものを思い出した。
昔からウタは一目で人間と喰種を区別することができた。何故かはわからない。匂いや、仕草や、雰囲気で判別しているのかも知れないが、明確には言えない。
そして当然、喰種と喰種の個を区別することも出来た。しかし、その当たり前は対人間においては通用しなかった。何故かはわからないが、人間と人間を区別することは出来なかったのだ。明らかに顔が違っていてもそれを個人として認識出来ない。人間は男も女も子供も老人も一緒に見えてしまう。
人間にはフェイスブラインドという病が存在する。人と人を区別することが出来ないため、同一人物でありながら毎回初対面と認識してしまう病。
ウタは自分がその病に患っているのではと昔から考えていた。それでも自身が人間ならともかく喰種であるが故に重くとらえてなどいなかったのだ。人間と喰種の判別さえ出来れば結構。そう考えていた。
人間だって数多くいる豚の区別なんてつかないでしょ。
そう吐き捨てたのは、はるか昔だ。
自分にとっては当たり前すぎて、ずっと忘れていた。そうだ、自分は人間の区別がつかない。そして。
自分は最愛の人間を喰ったのだ。
「カネキくんッ…!!」
間違いなく、間違えたのだ。
頭に血が上る。
ウタはあらんかぎりの声で叫んでいた。
*
「ウタさんッ…!!」
こめかみから冷たい汗が流れた。
「ウタさんッ…僕がわかりますか」
金木が目の前にいた。ウタを覗きこんでいる。ウタはわかるという意味で首を縦に振った。喉がはりついて声が出なかったのだ。それに放心していた。
「ウタさん…」
抱きついてきた金木を受け止めながら辺りを見渡す。いつも通りのウタのテーブル。上に乗ったペットボトル。打ちっぱなしコンクリートの壁。冷たいステンレスのベッド。金木研。
「ウタさん…すごい魘されてましたよ、大丈夫ですか?」
ウタのびっしょりかいた汗を金木はタオルで拭った。
「うん…ちょっと…かなりイヤな夢を見た」
「イヤな夢?」
「うん」
「どんな夢ですか?」
訊きながら金木はウタの目の端を拭った。泣いていたのかとウタは自分で驚いた。泣くというより汗をかくというのに近い生理的な涙だったが。
「カネキくん…」
「はい?」
「君が喰種でよかった」
質問には答えず本心を言った。金木は身体をずらして、ウタの頭を抱いた。ウタは金木の心音を聴いた。もうずっと聴いていたいとすら思った。段々胸の昂りが落ち着いてきた。
あぁ、これではいつもと立場が逆じゃないか。
「眠る前と言ってること違いますよ?」
金木は少し可笑しそうに笑った。うん、とウタは返事をした。
「ちょっと若かったんだよ、あの時は」
ウタの冗談に金木はまた可笑しそうに笑ったが、ウタの背中を撫でる手を止めることはなかった。
「君が喰種でよかった」
ウタは確認するように、もう一度言った。
「ウタさんが喰種でよかった」
真似をするように金木も応えた。
その言葉はウタの身体にすっと染み込んで飽和する。それは人間を喰べた時の満腹感と似ていた。
ウタは嬉しくなって、金木の首筋に鼻を埋めた。
金木の笑い声が聞こえた。
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