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食卓エピローグ(東京喰種:月カネ)
ピクリと瞼が痙攣して、ゆっくりと目覚めた。春の木漏れ日が深海に届く光のように部屋を照らす。月山習は深呼吸のように瞬きをした。長い睫毛がふわりと空気を振動させて、それはいっそ文句のつけようがないほどに優雅な瞬きだった。
月山が思考をまともに働かせるのにたっぷり30秒は要した。
ここは教会ではない。レストランでもない。どこかの一般家庭の食卓だった。テレビがあって棚があって電話機があって、どこからか小さく流れてくるジェヴェッタ・スティールの『コーリング・ユー』。そんなごく一般的な特徴のない部屋に、月山の身体にはやや窮屈に感じる椅子に一人ぽつんと座っていた。誰かを待つ子供のように。
目の前のテーブルには野菜の形をした箸置きに、木製の箸が置かれていた。
月山は敬礼をするように右腕を確認した。ある。存在している。顔も無事である。無事では、あるが。
「喰い損ねたか…」
負けて終わったのだ、何もかも。
月山は教会で金木を喰い損ねて力尽きた。
だけど、どうだろう。終わりの先には何もないと考えていた。それなのになんだろう、この茶番は。終わりにも先があるのか。それとも終わりなど実はないのか。月山はそこから動く気になれなかった。ここがどこかはわからない。生と死の狭間か、それとも審判を待つ場なのか。しかしもはや月山からしたら、どうにもならないことで、どうでもいいことなのだ。
テーブルに肘をついて眉間を押さえた。
金木研を喰べたかった。
でも、それは叶わなかった。しかし美食家らしい最期を飾れたのではないだろうか。
これから。
これから彼はどうなるのだろう。喰種でありながら、人間の匂いがした彼。喰種でありながら、美味しかった彼。彼はこれから生きていくのだろう、自分のいない世界で。
しかし彼がこれから平穏に生きていけるとは、とてもじゃないが思えなかった。11区で不穏な動きがあることは月山も耳にしていた。あの神代利世がー…大喰いが死んでから?いいや、違う。彼だ。金木研が現れてからだ。誰もが見当違いをしている。隻眼は変革の象徴だ。良くないことは必ず起こるのだ。彼は絶対にそれを避けることは出来ない。波はあらたなる波を巻き込んで彼に向かってくる。あるいは彼自身が渦のように周囲を巻き込んでいく。彼がそれに耐えられるとは思えない。何故なら彼は周知の通り世間知らずで、公平で、優しすぎる。
「可哀想だよ、カネキくん」
僕に喰われる方が楽だったのに。僕の血肉となってしまう方が幸せだったのに。君も、僕も。
「君を喰べたかった」
美食家の最期。最高のご馳走を食す。叶わない夢。
「……僕は君ー…」
ガチャ。
恐ろしく安っぽいドアノブの回る音が響いて言葉が途切れた。ドアを開けたのは金木研だった。金木研。
姿を認めた瞬間、嚇子を出そうとした。そこには一秒ほどの呆然はあったが、月山の行動は決まっていたのだ。
殺す。喰う。
しかし嚇子は出なかった。ピクリともしない。
「…え?」
椅子を引っくり返すほど勢いよく立ち上がったまま、固まってしまった。水を打ったように静かになる。
「もうちょっとで出来ますから、待ってて下さいね」
「え」
月山の戸惑いに、いつもの人の良さそうな、遠慮がちとも言える表情で金木はテーブルにお茶の入ったポットを置いて奥に消えていった。パタン。
「………」
しばらく呆然としていた月山だったが、恐る恐る壁に掛かっている鏡に向き合い、嚇眼を発現させようとする。しかし失敗に終わる。呼吸をするように当たり前に出来ていたことなのに出来なくなっていた。金木の消えていったドアを開けてみた。狭い台所で忙しなく金木が動いている。肉の焼ける匂いが漂ってきた。おかしい。感覚が鈍い。それに金木が持っているフライパンから良い匂いがする。くるっと金木が振り向いた。にこッと微笑む。多分微笑まれたのは初めてだ。
「料理するのは久しぶりだから、手間取っちゃって…」
「……そうなんだね」
またくるっと回って調理を再開する。ザーッと水を流していた。
月山は所在無さげに立ったままだった。仕方ないので辺りを見回す。錆びていそうな古い食器棚に、茶色と黄色のレトロなラジオ。そして台所。フライパンにはハンバーグが乗っていて、ジュージューという焼ける音とともに香ばしい匂いが漂ってくる。その横のフライパンには3センチ程の人参とブロッコリーがバターに絡められて炒められている。鍋からはまろやかなコーンスープが、炊飯器からはご飯の炊ける匂いがした。
初めて嗅ぐ匂いではない。人間に紛れて生活していると嗅がないわけにいかないのだ。しかし、美味しそうと感じたのは初めてだった。
今まで少し嗅ぐだけで吐き気を催したのに、生まれて初めて人間以外で食欲をそそった。
そうか。これが人間の感覚なのか。
台所を行き来する金木を見る。
僕は人間になったのか。しかし何故?
ここが生と死の狭間で、例えば死んでいった者の未練や心残りを消す為に願いが叶う場所だとしたら、僕が何故人間に?
僕はカネキくんを喰べたいだけだ。こんなことをされても迷惑なだけだ。
これじゃ金木を喰べても相応の快楽は得られないだろう。
ぐつぐつ煮える鍋の音。ラジオから小さく流れるビーチボーイズの『素敵じゃないか』。小窓から眩しい陽光が目にしみる。神はどうやら気まぐれらしい。いや、そんなの今に始まったことではなかった。食物連鎖の頂点を喰らう者。神の気まぐれで生まれた異形。それが喰種。それが月山だった。ただその中でも月山は喰種であることに誇りを持って生きてきた。
さて、どうするか。月山はピクリと指を動かした。彼を殺そうか。嚇子など出せなくても、油断だらけの彼なら殺せるだろう。彼も人間になっていることが前提だが。
絞殺。刺殺。殴殺。撲殺。
右足をゆっくりと前に出した。ミシッとフローリングが軋む。金木は気にもせずコーンスープの味見をしている。
……………萎えた。
きつく握り締めていた拳を広げる。馬鹿馬鹿しい。彼を殺してなんになる。喰種としての誇りも、美食家としての誇りも、もはやここでは何の意味もない。
「うん、完成です。お皿とお茶碗を用意していただいていいですか?」
金木がしゃもじに水を浸けながら言う。暢気なもんだ。月山が何を考えていたかも知らないで。何だか不思議な気持ちになって、月山は言われるがままに金木の指示に従った。
*
食卓にはご飯とハンバーグとコーンスープと人参とブロッコリーのソテーが乗っている。
「以前言ってましたよね。僕らにとってチーズとは何だろうって」
金木は月山と同じように食卓について、少し懐かしむように目を細めた。
「覚えていてくれたんだね」
君にとっては思い出したくもない記憶じゃないのかいと、皮肉を込めて返すという選択肢もあったが月山はしなかった。目の前の金木は毒気を抜かれるほどにニコニコしているからだ。
「はい、チーズのない食事は片目の美女である―…」
「ジャン・アンテルム・ブリア=サヴァラン」
「そうです」
お互い目を合わせて、口元を緩めた。
あぁ、とことん不思議だ。こんな風に笑い合うことなどないと思っていた。彼は初めから自分のことをある程度警戒していたし(まだまだ足りない警戒だったが)、感情的な自分の対応に辟易さえしていたのだから。
「なので、チーズハンバーグにしてみました」
「いい匂いだ、美味しそうな匂いだと感じる」
「あんまり自信はないんですけど…」
「生まれて初めてだ」
焦るようにしていた金木がピタリと動きを止める。月山の目線は皿の上のハンバーグに注がれていた。
「人間以外を胃に送るのは」
湯気がふわりと舞って鼻腔に流れてくる。
「口にしたことはあったけど、消化する前に必ず吐き出したからね」
料理を見つめる月山から金木は視線を逸らさない。月山の空気、意識を逃さないように。そしてただ、自然の摂理のように言った。いや、確かにそれは自然の摂理だった。
「食べましょう」
月山は顔を上げて頷いた。そして二人はゆっくり手を合わせた。
「いただきます」
「いただきます」
箸をとってハンバーグに切り込みを入れた。肉汁がじゅわっと溢れだして、また湯気が舞う。上のチーズを軽く乗せて口元に持っていく。月山がやるとどんな動作も気品がある。本人の意思とは無関係に。
口に含んで口内に肉汁と旨味が広がっていくのがわかった。その肉の旨味にチーズのまろやかさが絡んで、また違う旨味を引き出している。
そうか、こんな味だったのか。
「信じられないかも知れないが昔の僕は臆病だったんだ」
月山からの意外な告白に金木は動きを止めて、ひきつった。正直な人間なのだ。
「人間を殺して喰うようには教えられていた。でもその度に頑なに拒否した。恐いし可哀想だと思ったんだ。幸い、家が裕福だったこともあり、自ら手を汚さなくても食事には困らなかった。親が用意してくれてたんだ」
「………」
「子供の僕には友達がいた。近くのアパートに住んでいたお婆さん。優しくて大好きだった。僕と彼女は色々な話をしたんだ。本の貸し借りもした。彼女は僕がお腹を空かせているように見えたら、おにぎりを握ってくれたんだ。嬉しかった。吐き気がしても食べたんだ。だって不味くても………美味しかったんだ」
「……はい」
わかるよというように金木が頷いたので、月山は堪らない気持ちになった。堰を切ったように喋り出す。
「でも、ある日彼女と会う約束をしていたからアパートに向かったんだ。インターホンを押しても誰も出ないから不思議に思ってドアノブを回すと鍵はかかっていなかった。ドアを開けて愕然としたよ。だって、そこには首を吊っている彼女がいたんだから!」
月山は鼻息を荒くして、口を動かす。拳は強く握り締められていた。
「遺書には要約すると、こう書いてあった。『娘夫婦にも息子夫婦にも厄介者扱いだ。疲れた。寂しい。死のうと思う。私の死体は月山くんに喰べてほしい』。あれを読んだ時の気持ちなんて、君には絶対にわからない!!僕はっ…だって、気付きもしなかったんだから、彼女が孤独だったなんて!彼女が疲れていたなんて!でも彼女は僕が喰種であることに気付いていたんだ!気付いていて一緒にいてくれたんだ!!わからないっ、わからないよ、他にどうすれば良かった!?彼女を喰う以外に、どんな選択肢があった!?それから僕は美食に傾倒したよ!!谷底に落ちるみたいに!!だって本当に美味しいものを食べるとあんなにも幸福な気持ちになれるんだから!それが間違ってたっていうのかい!?」
ダンッと机を叩く。はぁーっ、はぁーっと荒い呼吸を繰り返した。月山は沸き上がる熱が腰から、抜けていくのがわかった。言ってしまった。月山の悪夢。ずっと精神を蝕んでいた毒。それを生まれて初めて吐き出した。
「…僕には、わかりません。多分間違ってないんだと思います」
「……」
「でも、あなたは本当はお婆さんを喰べたことで深く傷付いたんでしょう?」
「……うん」
「あなたは本当は彼女ではなく、彼女を苦しめる何もかもを喰ってやりたかったんでしょう?」
「……」
カチャリと箸を持ち直して、月山は勢い良くハンバーグをかけ込んだ。ご飯もスープも、ソテーも。まるで初めて食事をした子供のように。
「カネキくん」
「はい」
「君は料理が上手だ」
「えっ…そうですかね?普通だと思いますけど」
照れを隠すように、頭をかく金木。
「いや、上手だ。僕が言うんだから間違いないよ」
金木はにっこり笑った。
「ありがとうございます。おかわりありますよ、食べますか?」
「いただこう」
金木は席をたって、台所に消えていった。気をきかせてくれたのだとわかる。月山は目尻を指で拭った。もちろん、優雅な仕種だった。
月山は憂慮する。
彼は死ぬだろうか。カネキくんが死ぬ。亡くなる。無くなる。失う。最期の最後で月山の心臓を満たすのは殺意などではなく、金木に対するどうしようもないほどの情愛だった。しかし、それにどれほどの意味があるだろう。もはや、どんなに強大な敵が金木を襲っても、月山では守ってやれないのだから。そして今更、殺すこともできないのだから。
せめて誰にも心を許さないでいて欲しいと月山は思う。それが無理なことぐらいわかっている。彼は愚かなほどに博愛主義者だ。彼はこれから地獄を見ることになるかも知れない。それも相を改めるほど。自分は彼の為に何ができるだろう。一体何が。あぁ、全て今更だ。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
今度は静かにゆっくりと食べた。味わうように。惜しむように。優雅に。
チュンチュンと鳥の鳴き声が聞こえる中、二人は話をしながら食事をした。友達、家族、信念について、果ては愛用の歯磨き粉の種類から服のサイズというどうでもいい話まで。時間を取り戻すように話をした。
そして月山と金木はほぼ同時に食べ終えた。それがどういうことか月山にはよくわかっていた。静かに箸を置く。金木もただ黙っていた。
「カネキくん」
「はい」
「……すまなかった」
「…いいえ」
金木は少し苦しそうに目を伏せた。月山を必死で許そうとしている。どこまでも正直な人間なのだ。
「…どうか気をつけて」
「はい」
「最初で最後の食事が君と出来て良かった」
「そうですか」
胸に込み上げてきた感情を、言葉を、口にしようとして月山は躊躇した。言葉にするとあまりに軽薄で、さらに美食家の自分が言うと滑稽に感じたのだ。
しかし、最期。
こちらの世界とあちらの世界の境目。自分が永遠にここに留まることは不可能なのだ。ちょっとの間があった。けれども金木は急かさない。雪が溶けるのを待つように、月山を待っているだけだ。しんしんと。
ラジオからはいつの間にか音がしなくなっていた。月山は唇を軽く舐めて、震わせる。
「僕は君と食事がしたかったんだよ」
金木が微笑んだ。
「信じてくれるかい?」
「はい」
また信じるのかい、馬鹿だね。でも、それでいいと思った。金木研はそれでいいのだ。
月山は考える。自分はこれからどこに向かうのだろう。彼の傍を離れたくないなと思った。時間という概念がこの場所であるのかはわからない。しかし予感がするのだ。彼は自分のことなど容易く忘れてしまうと。自分は絶対に彼を忘れられなどしないのに。そして自分が彼を喰らおうとした忌々しい記憶だけが残るのだ。今更悔悟したって仕方ないのだが、自分はそれを恐れている。
月山は腕を伸ばした。食卓の上に置かれた小さな金木の手に被せる。すると金木は掌を上に向けて月山に応えた。どれぐらいそうしていただろうか。
「カネキくん、また会えるかい?」
「はい、またご飯食べましょう」
名残惜しむように月山は手を離し、二人は同時に胸の前で手を合わせた。金木が眠るようにゆったりと瞼を伏せた。月山は金木の動作の一欠片も逃さないように見送って、彼もまた目を伏せた。その言葉の後どうなってしまうか、半ば予想した上で。
「ご馳走様でした」
「お粗末様でした」
その瞬間から綿毛のようにふわふわと、自分の輪郭がぼやけていくのが、わかった。
あぁ、カネキくん。今でも君を喰べたいと少し思うんだ。人間とはどうしても相容れない喰種がそれでも人間を理解する方法。それはやはり喰らうことで血肉にする以外にないんじゃないかな。
わかってる、間違いだって。もうそんなこと出来ない。だって僕は君と生きていきたいと思ってしまったんだから。理解することに意味などなく、理解したいと思い続けることに意味があるのだと気付いてしまったんだから。
ずっと君の傍にいたいんだ。
風がどこからか吹いて、砂が崩れるように思考がぼやけていく。それでも月山は微笑んだ。
*
首筋が熱く感じて、瞼を開けた。ソファからわずかにはみ出た爪先が、ピクリと揺れる。
あんていくの事務所で金木はブラインドの隙間から伸びた陽に暖められて目を覚ました。
「……?」
未だにぼんやりした意識のまま、金木は空中の埃を見つめて首を傾げた。
なんだかすごく気だるかった。疲労からくる気だるさではなく、一日中泣き明かした後のような気だるさだ。
「月山さん」
慈しむように言葉は金木の口から無意識に零れ落ちた。金木は自分の発した言葉に気付かない。言葉を発したことにすら気付かない。
金木はそのままのそりと裸足で床を踏みしめて、窓を開けた。どこかの家から朝御飯の匂いがして「お腹空いたな」と呟く。
あれ?と金木は首を傾げた。朝御飯の匂いがいい匂いに感じたのだ。人間の時のように。試しにもう一度深く匂いを吸う。胸に重りを沈められたように気持ちの悪い匂いだった。急いで窓を閉めた。窓が閉まる直前、滑り込むように風が吹いた。その風が擦るように、撫でるように金木のうなじに触れたことに金木は気付かない。ただ心地良さげに目を細めただけだった。
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