虎を放つ









 眠る虎を見守りながら、まんじりともせず、夜を明かした。
 この寝顔も、もう見られなくなるのだと思うと、どうしても眠れなかった。

 この瞼が閉ざされて、それから二度と開かなくなる日が来るなんて、考えたこともなかったし、考えたくもなかった。
 虎もヒトと同じように、いつか死ぬんだってことを、忘れていた。


 馬鹿みたいだ。
 涙が零れた。


 雫は虎の頬の上にぱたぱたと落ち、その感触で、虎は目を覚ます。
 うっすらと眉間に皺を刻んで頬を触り、濡れた指先を眺めてから、オレの顔を見上げて虎はふっと笑った。
「……馬鹿。お前、眠ってねえんだろう?」
 起き抜けの甘い声。虎はゆっくりと体を起こすと、指の腹でオレの涙を拭ってくれた。
「すこし、眠れよ。お前が眠るまで、ついててやるから」
 虎はそう言ってくれたが、オレは首を横に振った。

『眠るまで』ってことは、オレが目覚める前に、虎はこの部屋から姿を消すつもりなのだろう。
 次に目覚めたときに虎がいなくなっているなんて、そんなの、辛すぎる。

 大丈夫です。
 そう言って、オレは虎の鎖を外し始める。
 ごめんなさい、こんなことしちまって。
 ともすれば止まりそうになる指を動かすため、オレは必死で虎に話しかけ続けた。

 オレの最後のワガママ……、きいてくれて、ありがとうございました。

 チャリ、と音をたてて、鎖は外れた。
 玩具みたいな鎖のたてる音が、胸を引っ掻く。
 こんなにも、小さくて軽い。そして、あっけない。
 オレたちの終わりそのものを、表しているみたいな音だった。



 ずっと繋いでいたためか、虎の手首にはうっすらと、輪っかの痕がついていた。
 虎はそれをしばらく眺めていたが、やがてベッドから起き上がると、立ち上がり、ゆったりと服を身につける。



 身支度が終わると、最後にもういちど、虎はオレを抱き締めた。
 抱き締め返そうとしたけれど、腕に力が入らなかった。




 玄関口に立ち、虎の背を見送る。
「なぁ、カイジ」
 虎はオレに背を向けたまま、ちいさな声で、ぽつりと呟いた。


「鎖なんてなくたって、お前は俺を繋げたよ」


 思わず笑みが零れ、その拍子に涙も一緒に、零れた。
 やっぱり、この虎はやさしい。そして、ずるい。

(……五日間だけ、でしょう?)

 その部分を、敢えて口には出さない虎が、やっぱり憎くて、そして、いとしかった。



 鎖なんかなくても、虎はオレの願いを聞き入れてくれる。
 そんなことは、わかっていた。
 だけど、オレ自身がそれを許せなかったんだ。

 これはあくまでオレが無理矢理やったことで、虎は鎖に繋がれて仕方なく、オレのワガママに付き合っていただけ。
 無理矢理にでも、そういう形にしたかった。
 そうしないと、オレはきっと、際限なく虎に甘えてしまう。
 虎とずっと一緒にいたいって気持ちが、抑えられなくなってしまうから。
 


「じゃあな。元気でーー」

 最後の挨拶にしては、素っ気ないその言葉。
 たぶん、オレが未練がましくならずに済むようにと、わざとそんな言い方をしているのだ。
 だけど、たいせつなものを慈しむようなその口調から、虎のやさしさが痛いほど伝わってきて、オレはまた、笑う。

 どんなことをどんなふうに言っても、同じことですよ。
 あんたは結局こうして、オレを泣かせちまうんだから。


 重い音をたてて、虎が扉を開いていく。
 これから虎を待ち受ける、虎自身が選択した結末に向かって、力強く、なんの躊躇も戸惑いもなく、扉を開け放つ。

 眩しい光の中に一歩、堂々と踏み出していく広い背中に、目を閉じ、そっと額をつけた。
 ほんの、一瞬だけ。
 すぐに離れ、ありったけの思いを込めて『行ってこい』と言うように、虎の背中を両手でぽん、と押した。


 やさしくて、
 かわいくて、
 かしこくて、
 残酷で、
 憎くて、いとしくて、
 好きで好きで好きで、たまらなかった。
 

 この寂しい檻から、虎を放つ。
 振り返らずに行ってくれ。あんたに、すこしでもオレを憐れむ気持ちがあるなら。



「さようなら、赤木さんーー」



 パタンと乾いた音を立てて扉は閉ざされ、この部屋には、鎖だけが残された。
 虎は、最後までいちども、振り返らなかった。




 赤木しげるが死んだのは、それから約一週間後の、とある秋の日のことだった。





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