あそぶ





 虎をこの部屋に閉じ込めておける、最後の日。

 相変わらず律儀に鎖に繋がれたままの虎が、オレに向かって言った。
「で? 今日はなにをする?」
 オレはすこし、考える。
 べつに、なにもしなくてもいいんです。ただ、あんたといられれば。

 虎は眉を上げて瞬いたあと、口角を持ち上げた。
「それなら、トランプしようぜ。昨日の勝負の仕切り直しだ」
 誘うように光る目つきに、ギャンブラーの血が擽られる。
 いいですよ。なにを賭けますか?
 虎は、そうだな、と言って、しばらくオレの顔を眺めていたが、
「……たまには、なにも賭けない、ってのはどうだ? 実はお前と一度、なんの気兼ねもなく、こういう遊びがしてみたかったんだ」
 そう言って、穏やかに微笑んだ。

 その笑みに、胸が引き絞られるような気持ちになる。
 お互い、賭けるものなどなにもない、戯れみたいなゲームが、虎とオレの、最後の遊びになるのだ。

 ゆっくりと目を閉じて、戦慄きそうな唇で笑う。
 とても、オレ達らしい最後だと思った。
 いいですよ、やりましょう。
 そう言って目を開くと、虎は微笑したまま、深く頷いた。






 トランプをしながら、オレは虎と、色々な話をした。
 昔の話や、今の話。とりとめもなく、他愛ない話を。

 虎の昔語りが面白くて面白くて、オレはつい前のめりになって聞いてしまう。
 質問もたくさんして、いつまでも聞いていたいと思うのに、区切りのいいところで、虎は決まって、オレの話を聞きたがった。

 つまらないバイトの話や、昔やったギャンブルの話。
 もともと、面白いエピソードではない上に、話の下手さが相俟って、たどたどしくてとても聞けたものじゃないと、自嘲せずにはいられない。
 それでも、虎はオレの話にじっと耳を傾けて、大袈裟に驚いたり笑ったり、くるくると表情を動かしていた。



 虎と話すのは、楽しかった。
 トイレに立つすこしの暇さえ、惜しいと思うほどに。
 飯を作る時間も勿体ないと思ったけど、約束だったから、ちゃんと作った。

 朝飯には、実家から送られてきた鮭を焼いた。昼飯は、卵とレタスのチャーハンにした。
 夕飯のカレーを口に運ぶころになると、次第に、オレたちは無口になっていった。
 というより、オレの口数が減るのにあわせて、自然と虎も、喋らなくなっていったのだ。
 テレビも点けていないから、オレたちが黙ると、部屋は水を打ったようにしんとした。

 時計を見ないでいようと努力しているのに、つい、目端で机の上のデジタル表示を確認してしまう。

 見えている終わりが、着々と近づいている。
 そのことを意識すると、言葉がなにも、出なくなってしまう。












「……あの人は、本当に強かったなぁ。初めて、俺はここで死ぬのかもしれないと思ったぜ。死ぬのが怖いなんて、ただの一度も思ったことがなかったから、やたら冷静だったのが、今思い返すと、無性に可笑しくてなーー」

 扇形に広げたオレの手札の中から一枚選び取りながら、懐かしそうに目許を緩める虎の顔を、ぼんやりと眺めていた。
 じりじりと時間が経つにつれ、面白くて仕方ないはずの虎の話が、徐々に頭に入らなくなってきた。
「どうした? お前の番だぞ」
 そう言われて、慌てて虎の手札から一枚抜き取ったが、どうにも時間が気になって、勝負に身が入らない。

 時計のデジタル表示が、九時を示した。
 うわの空なオレの様子に気がついたのか、虎が軽く目を眇める。
「どうした。ぼうっとして」
 ーーなんでも、ありません。
 そう返事をしたが、次第に視界がぼやけてきた。

 もうすぐ、今日が終わってしまう。
 この夜が明ければ、虎はこの部屋から出ていき、そして二度と戻らないのだ。

 虎の輪郭が、滲んでくる。
 だが、オレは意地になって目を拭わず、ただひたすら、虎の顔を眺め続けた。

 そんなオレをしばらく黙って見て、虎は軽く息をつき、手札を伏せて床に置く。
「……なあ、カイジ。俺はどこにも逃げやしねえよ。だから、この鎖を外しちゃくれねえか?」
 静かな言葉に、オレは問い返す。
 どうして、ですか。
「目の前で恋人が泣いてるってのに、抱き締めてもやれねえろうが、このままじゃ」
 そう言って、虎は両手の間の短い鎖を、チャラチャラと鳴らしてみせる。
 おどけたようなその仕草に、ふっ、と笑みを漏らした瞬間、涙が一筋、細めた目から熱い雫となって千切れた。
 ーー自分で、外せるでしょう?
 笑いながらそう言うと、虎は急に真面目な顔つきになる。
「時間が惜しいんだ。なあカイジ、早くこれを外してくれ」
 真摯な瞳に打たれ、息が止まりそうになった。

 震える手で鎖を外してやると、虎はすぐに、オレをきつく抱き締めた。
 その力の強さに、耐えていた涙が、次から次へと溢れ出してくる。

 タバコのにおい。それに隠れるような微かさで香る、虎自身のにおい。
 それらを胸いっぱいに吸い込んでから、ぐす、と鼻を啜ると、虎の腕にいっそう力が籠もった。

 ……ちょっと、痛いです。
 泣き笑いみたいな声でそう言うと、虎はオレを抱き込んだまま、ふふふふ、と笑い声を上げる。
 そしてそのまま、オレの体ごと、床に倒れ込んだ。

 思わず虎の名前を呼ぶオレの体にのしかかり、虎は愉しげに笑う。
 そして、涙に濡れたオレの頬をぺろりと一舐めすると、唇を重ねてきた。

 そうだ。
 虎は、肉食の獣だったのだ。
 この虎があんまりやさしいから、そのことをすっかり忘れていた。

「抵抗、しないんだな」
 唇を離したあとで、虎は音を消した声で囁く。
 もう何度もしておいて、今更でしょう。
 そう返事をすると、ぎゅっと鼻を抓られた。
「多少、嫌がってくれた方が燃えたりするんだぞ? 今後の参考に、覚えとくといい」
 くすぐったく笑いながらその手を避けて、オレは言う。
 嫌ですよ。あんた以外とはぜったいにこんなことしないのに、覚えててなんの得があるっていうんです。
 虎はきょとんとしたあと、ぽつりと呟いた。
「そうか」
 そうです。
「ははっ……! そうか、そうか」
 虎はなんだか嬉しそうに笑いながら、オレの頬を両手で包み込み、噛みつくように口付けてきた。






 年老いているのに、虎の力はオレよりずっと強い。
 あれよあれよという間に、オレは頭から丸かじりにされ、つま先までぜんぶ余さず、食らいつくされてしまったのだった。





 仰向けに寝転がった虎の胸に額を押しつけて、吐息の熱を逃していると、虎はもぞもぞと身じろぎして、オレの顔を覗き込む。
「大丈夫か……?」
 頷いてやると、額に張り付いた髪を掻き上げ、唇を寄せてきた。

「……ごめんな、カイジ。ずっと一緒にいてやれなくて」

 まるで独り言のような言葉に、おさまっていた涙がまた、じわりと膨らんでいくのがわかった。
 あやまら、ないで、下さい。
 しゃくり上げながら、きれぎれに叫ぶ。
 どうしようもないやる瀬なさが募って、怒っているみたいに口調が烈しくなる。
 飽きもせず流れ落ちる涙を拭おうとすると、やさしく手を押さえられ、目許に唇を落とされた。



 こんな時でも、虎の瞳は乾いている。
 思慮深いその双眸は、オレを通り越して、まっすぐに自分の選んだ未来だけを見据えているみたいに、揺るぎない。


 憎かった。自分を置いていこうとする虎が。
 どんな未来でも、迷うことなく自分の力だけで選び取る、その強さが。

 本当はその胸に縋りついて、喚き散らしたい。
 なんどもなんども胸板を殴りつけて、悪し様に罵ってやりたい。
 だけど、いくらそうしたところで、虎の意思は決して翻らない。
 悲しいくらいにそれを知っているから、殴りつける代わりに、手を押さえる指に指を絡める。
 あたたかな手。強く握ると、握り返されてまた、涙が溢れた。


 虎は、泣かない。




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