プレゼント・5



 その後、こまごまとしたトラブルはいろいろあったものの、カイジはなんとか泣き出すこともなく、無事バイトを終えた。

「終わったぞ」
 どうだ! と言わんばかりに胸を張るカイジの頭を、しげるが労うように撫でてやると、えへへ、とカイジは照れくさそうに、でも誇らしげに笑った。
「それじゃ……行こうか」
 そう声をかけてしげるが歩き出そうとすると、カイジは「ん!」と頷いて、さっとしげるの右手を握った。

 しげるは思わず、カイジの顔を凝視する。
 カイジ自ら街中で手を繋ごうとするなんて、初めてのことだった。
 しかも、この年の瀬の夕暮れ時、人がいちばん多くなる時間帯に。

「……? どした……?」
 穴が空くほどまじまじと自分を見つめてくるしげるに、カイジはぱちくりと瞬きをして、小首を傾げる。
 その仕草は実に子供めいている。
 カイジは本当に昔、こんな風な、甘えん坊ですこし気の弱い子供だったのだろうか?
 クズでニートで、なにをするにも気怠げないつものカイジの姿からは、想像もつかなかった。
「……なんでもない。はぐれるなよ、カイジさん」
 こんなことが起こらなければ永遠に見ることのできなかったであろう、幼い頃の恋人と手を繋いで歩きながら、しげるは彼の生い立ちに、すこしだけ思いを馳せてみるのだった。






「えっ……? 晩飯って、ここで食うのか?」

 人混みの中を歩き、昨日、ふたりで立ち寄るはずだった百貨店の前に立つと、カイジは意外そうに瞬きした。
「そうだよ。最上階に、レストランあったでしょ」
『レストラン』という言葉を耳にした瞬間、カイジは大きな目をきらきらと輝かせる。

 そのわかりやすい様子にすこしだけ笑い、しげるは言ってやる。
「約束したからね。なんでも、好きなものを頼むといい」
「いいのかっ……!?」
 丸みを帯びた頬が、みるみる桜色に上気する。
 レストランごときでこんなに喜ぶなんて、いつものカイジならぜったいにありえないことだった。
 なにより、ふたりがいつも外食するのは専ら安い定食屋かラーメン屋くらいのもので、まさかデパートのレストランにカイジと足を踏み入れる日が来ようとは、しげるも想像だにしていなかった。

 回転扉は昨日と変わらず、延々と回り続けては人を飲み込んだり吐き出したりしている。
 中の混雑ぶりを想像して、しげるは憂鬱な気分になったが、興奮を抑えきれない様子で鼻息を荒くしているカイジを見ていると、すこしだけ気が紛れた。
 しげるはひとつ、深呼吸してから、仔犬のような瞳で『早く中へ入ろう』と訴えてくるカイジとともに、透明なドアを潜った。










 どうやら混雑の主な原因は、歳末セール目当ての客らしい。
 カイジとふたり、すし詰め状態のエレベーターに乗り込んだしげるは、背後でヒソヒソと交わされる主婦らしき女性の会話からそれを知った。

 しげるとカイジの手はしっかりと繋がれている。
 このエレベーターにたどり着くまでも、ひしめきあう人の波をかき分けるようにして進まなくてはならなかったが、しげるが子供と歩くのに慣れていないため、気がつくと隣にいたはずのカイジが、遥か後ろの方で人の中に埋もれてしまっていたので、はぐれないために手を繋いでやらなくてはならなかったのだ。

 ふたりの目指す十四階まで、エレベーターはぐんぐん上がっていく。
 しげるが隣を見ると、カイジは移り変わる階数表示を、熱心な眼差しで見つめていた。







 まだ時間も早かったためか、最上階のレストランはそこまで混んでおらず、ふたりはすぐに二名掛けのテーブル席へと案内された。

 席に着くと、カイジは早速メニューを開く。
「どれにしようかな……」
 うきうきと声を弾ませて薄い冊子を捲っていたカイジの手が、ある頁でぴたりと止まった。
 しげるがその手許を覗き込むと、そこにはハンバーグとエビフライ、それから山の形に盛られたチキンライスのてっぺんに旗が刺さったものが一枚のプレートに盛り付けられている写真が、でかでかと載せられていた。

 しげるはつい、声を漏らして笑ってしまう。
「なっ……なんだよっ……!?」
 笑われて顔をカッと赤らめたカイジは、しげるに見られないようにメニューを伏せてしまった。
 くっくっと肩を震わせながら、しげるは頬杖を突いてカイジを宥める。
「……ごめん、好きなもの頼みなよ。……それがいいの?」
 謝りながらも笑い止めないしげるに、カイジは唇を尖らせていたが、やがて細い首を折るようにしてこくりと頷く。
「決まりだな。じゃあ注文するぜ」
 そう言って呼び出しベルを押そうとするしげるに、カイジが慌てていった。
「やっ、やっぱ、べつのにするっ……!」
 真っ赤な顔のまま自分の手を掴んで止めるカイジを、しげるは怪訝な顔で見る。
「なんで? これが食いたいんじゃねえの?」
「そう……だけどっ……」
 ぽつりと呟いて、カイジは目線をうろつかせる。
 躊躇しているようなその顔を見て、しげるはようやくカイジの複雑な心中を理解した。

 周囲の人々には、自分達は元の姿のままに見えているのだ。
 つまり、しげるには小学生に毛の生えたような子供の姿に見えていても、他の客や店員の目から見るといい歳した大人の姿で、そいつが嬉々として旗の刺さったお子様ランチを注文し、ぱくつく姿は奇妙以外のなにものでもないだろう。
 それがわかっているから、カイジは注文を躊躇っているのだ。

 しげるはなんだかやわらかい気持ちになって、カイジに言ってやる。
「あんたがなに食ってるかなんて、誰も気にしてないよ。本当に食いたいものを頼みな」
 カイジは弾かれたように顔を上げる。
 そして、しげると目が合うと、唇を噛んで微かに頷いた。





 ほどなくして、頼んだ料理が運ばれてきた。
「お待たせしました」と言って、ウエイターはしげるの前にお子様ランチのプレートを、カイジの前にしげるの注文した日替わり定食を置き、立ち去っていった。
 チラチラと周りの目を気にしながらも、スプーンに手を伸ばすカイジに、しげるはほんの出来心で、先回りすると素早くそれを奪い取ってしまう。
 ぽかんとするカイジにニヤリと笑い、「いただきます」と言ってスプーンをチキンライスの山に突き立てようとすると、「あーーーーっ!!」とカイジが大声を上げた。

 他のテーブルから注がれる視線も気にならない様子で、カイジは頬を膨らませてしげるを睨みつけている。
 今にも立ちあがらんばかりの剣幕にしげるは苦笑いし、「冗談だよ」と言ってスプーンをカイジに渡してやる。
 それでも膨れっ面を崩さないカイジを取りなすように、目の前に置かれたプレートを押しやってやると、カイジも怒った顔のまま、定食の乗った盆をしげるの方へ押し出してきた。

 
 
 しばらくの間押し黙り、ヤケ食いのようのようにしてチキンライスをぱくついていたカイジだったが、やがて料理に夢中になり始めると怒りもすっかり忘れたようすで、
「うまい?」
 というしげるの言葉にも、大きく首を縦に振ってみせた。

 口の周りが、ケチャップとソースでくわんくわんになっている。
 あとでちゃんと拭くように言ってやらないと、と思ってから、すっかり『保護者』になってしまっている自分に気づき、しげるはふっと苦笑した。
「しげる……?」
 そんなしげるを、カイジはどこか心配そうな顔で呼ぶ。
 口許に笑みを刻んだまま、なんでもない、という風に首を横に振ると、カイジはスプーンを動かす手を止め、俄にその顔を曇らせた。
「あのな、しげる……」
 軽くうつむいたまま、カイジはぽつぽつと話し出す。
「も、もしも……だけどさ……」
 そう呟いたきり、うじうじと黙り込んでしまったカイジに、しげるは「うん、」と相槌を打って話の続きを促してやる。

 ひっきりなしに薄い喉を上下させて唾を飲み込んだあと、カイジはひどくか細い声で、心許なげに言った。

「もし……、このまま、元に戻れなかったら……」

 カイジの瞳からひとつぶ、ぽろりと涙が零れ落ち、そのあとはもう、声にならなかった。
 スプーンを強く握りしめたまま、またしても嗚咽を上げ始めたカイジに、しげるはぎょっとする。
 ついさっきまで上機嫌だったのが嘘のような豹変ぶりに、しげるの方が嘆きたいような気分になった。
 一応、場所を弁えているつもりなのか、泣き声を懸命に噛み殺しているようだが、そうするとうまく呼吸ができなくなるようで、真っ赤に腫れたその泣き顔は、見ていて痛々しいほど苦しげだ。

 体をぶるぶる震わせながらさめざめと泣くカイジに、しげるはとりあえず、そっと声をかけてやる。
「そう泣くなよ……あんた、中身は一応、二十一歳なんだろ?……」
 そこまで言って、はたと気づく。
 そういえば、この人は元からよく泣く人なのだった。
 子供に戻ったことで、多少それが強調されているだけなのだ。

 しげるは途方に暮れつつも、手を伸ばしてさっきみたいにカイジの頭を撫でてやる。
 しかし、しげるがいくら撫でてやっても、今度のカイジは一向に泣き止もうとしない。
 目の前でしゃくりあげる子供をなんとか宥め賺そうとするうち、「大丈夫だ」という言葉が、ふいにしげるの口をついて出た。

「大丈夫だって、カイジさん……明日になれば、きっとちゃんと元に戻ってるさ。それに……、そんなナリでも、あんたはちゃんとやれてるよ。バイトだって、最後まで頑張れたじゃない……」

 大丈夫、大丈夫だと繰り返して言い聞かせながら、そういえば大人のカイジも自分によく『大丈夫だ』と言っていたなとしげるは思い出した。
 なんのことはない。自分も図体だけは大人のそれだが、中身は昨日までと変わらない十三歳のままなので、結局、いちばん身近な大人であるカイジの真似をしているだけなのだ。
 今さらそんなことに気がつき、密かにショックを受けるしげるをよそに、カイジはぐすぐすと鼻水を啜ると、きれぎれに言葉を吐き出した。

「バイトとか……、そんなんどーだっていいんだよっ……! オレは……っ、オレは、まだまだこれから、お前をいっぱい甘えさせてやりたかったのに……っ、」

 唇を戦慄かせながら、叫ぶようにカイジが言ったその言葉で、しげるは初めて知った。

 しげるがカイジに追いつこう、追いつこうと懸命に背伸びしていた一方で、カイジの方も精一杯背伸びをして、しげるの前で頼りがいのある『大人』を演じようとしていたのだということ。
 頭を撫でようとする癖や、『大丈夫だ』という言葉は、大人に甘やかされることを知らずに育ってきたしげるを、カイジなりに目いっぱい甘やかしてやろうという、不器用な愛情の顕れだったのだということ。

 硬く結われた結び目が徐々に解けていくように、心がやわらかく緩んでいくのを感じながら、しげるは目の前で泣き続けるカイジを見る。
 流れた涙が、頬の傷を伝って落ちる。がむしゃらにそれを拭う手指にもやはり、一生消えないような深い傷痕があって、いつもは見慣れているそれらも、ちいさな体の上にあると、やたら痛々しく目立って見えた。

 それは、カイジが死に物狂いで生きてきた証だ。
 人を信じては裏切られ、それでも人を諦めきれず、惨めに泣き喚きながら、這いつくばるようにして生きている、やさしい人。
 いつだって、本当に甘やかされるべきなのは、自分じゃなくてこの人なのだ。

 しげるはようやく気がついた。
 心の底で、自分が本当に望んでいたこと。

 八年の壁を乗り越えて、自分は甘やかしてやりたかったのだ、このお人好しを。
 ベタベタに甘やかして、『よく頑張ったね』って頭を撫で回して、いつも言ってもらってるみたいに、『大丈夫だ』って言ってやりたかったのだ。
 自分が成長するのと同時にカイジが縮んでしまったのは、きっとしげるが無意識にそう願っていたからだ。


「大丈夫だよ、カイジさん」
 まるで子守歌みたいに穏やかな声で囁きながら、しげるは癖のないカイジの髪を撫で続ける。
 無防備な子供の泣き姿に、二十一歳のカイジの情けない泣きっ面を重ねているうち、いつの間にか啜り泣きの声が止んでいた。
 ベタベタに濡れた頬を拭いながら、ひどくバツの悪そうな顔でしげるの表情を窺うカイジに、もう一度「大丈夫だ」と言って、短い髪を梳くように撫でてやる。

 しげるなら邪険に振り払うはずの頭を撫でる手を、「ありがとう」と笑って受け入れることのできるカイジは、ガキの姿をしているのに、妙に大人びているようにしげるには見えた。





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