犬とチョコレート・1 アカギが人非人
「あ、あの、伊藤さん」
バイト帰り、店を出てしばらく歩いたところで名前を呼ばれ、カイジが振り返ると、見知らぬ少女が緊張した面持ちで立っていた。
歩みを止めると、小走りでカイジに近づいてくる。
肩掛けのスクールバッグにキーホルダーでもついているのか、少女が走るのに合わせ、微かな鈴の音がチリチリと鳴った。
軽く息を弾ませながらカイジに追いついたその少女は、見た目から想像するにたぶん高校生なのだろうが、明るい灰色のピーコートを、きっちりとボタンを閉めて着込んでいるため、どこの学校の生徒なのかはわからない。
ひかえめな茶色に染められた、くせのないまっすぐな髪が、口許を隠すほどぐるぐる巻きにされたアーガイルのマフラーの中に仕舞われている。
膝上五センチのプリーツスカートから覗く、細い素脚が寒そうだ。
紺色のソックスとぴかぴかの黒いローファーが、真面目そうな印象を与える。
目を眇めてその顔を眺めていたカイジだが、どうにも見覚えがなく、内心首を捻りながら口を開く。
「……オレに何か」
出した声が思ったよりずっとぶっきらぼうに響き、カイジはしまった、と思った。
自身の耳にすら無愛想に聞こえたその声に、少女が一瞬、びくりと身を竦ませるのを見て、なにか取り繕わなければと焦ったが、いったい何をどう繕うのかと逡巡している間に、少女は意を決したように唇をきゅっと引き結ぶと、喋りだした。
「わ、私、明日都外に引っ越すんです……それでもう、このコンビニには来られないから……だから、せめて後悔しないように、自分の想いだけでも伝えようって思って……」
「はぁ……」
まくしたてるような早口で喋る少女に気圧され、カイジは気の抜けた返事をする。
想い? なんの? 伝えるって、誰に?
そんな疑問を頭に渦巻かせるカイジを余所に、少女はスクールバッグのファスナーを開き、中からなにかを大事そうに取り出す。
そして、ひとつ大きく深呼吸してから、両手で持ったそれをカイジの方へずいっと突き出した。
「ずっと、好きでした……受け取って頂けますか?」
カイジの目が、まん丸く見開かれる。
パステルブルーのリボンが十字にかけられた、てのひらサイズの、四角くて茶色い箱。
真剣な面持ちで少女が差し出しているものは、まごうかたなき、正真正銘の、チョコレートだった。
自慢じゃないが、生まれてこの方、バレンタインチョコなど母と姉以外から貰ったことのないカイジは、予想だにしていなかった展開に、ただただ呆然と立ち尽くしていた。
しかし、沈黙の時間が過ぎ去るにつれ、少女の顔が不安そうに曇っていくのを見咎めて、カイジは慌てて口を開く。
「あの、オレ……実は……」
「知ってます! つきあってる人いるんですよね?」
もごもごした呟きに被せるような少女の明るい声に、カイジはさらに面食らう。
「な、なんで……?」
「ずっと見てたから……それくらいわかります」
すこしだけ痛みをこらえるような、切なげな表情で少女は笑う。
ずっと見てた? オレを?
コンビニの常連だったということなのだろうが、いつも客の顔をほとんど見ずに接客しているカイジが必死に記憶を手繰り寄せたところで、やはり少女に見覚えなどあろうはずもなく、カイジは少女に対してひどく申し訳なさを感じた。
「今日は本当に、これ渡したかっただけなんです」
そんなカイジを許すかのような、慈愛に満ちた表情に背中を押され、カイジはそろそろと手を延べて茶色い箱を受け取る。
ほんのすこしだけ触れた少女の手は、氷のように冷たかった。
カイジがチョコを受け取ると、少女はものすごくほっとした顔で深く息を吐き、憑き物が落ちたかのような明るい笑顔を見せた。
「受け取って下さって、ありがとうございました。これからもお仕事、頑張って下さい!」
そしてくるりと踵を返すと、軽やかな足取りで走り去っていく。
小さな鈴の音とともに、暗闇の中遠ざかっていく背中を、カイジは突っ立ったまま、ずっと見送っていた。
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