犬とチョコレート・2




「……って、ことがあってだな……」
 照れ隠しのように咳払いをするカイジに、アカギは「ふーん」と気のない返事をする。


 あの後。ふわふわと落ち着かない気分のままカイジがアパートに帰ると、アカギが部屋の前で待っていた。
 咄嗟に手に持った箱を隠そうとしたけれど、アカギの目を誤魔化しきれるはずもなく、ものの数秒で見つかって、『これ、何?』と訊かれたわけである。

 件のチョコレートの箱だが、今はアカギの手中にある。
 隙をつかれて、あっさり奪われてしまったのだ。

 アカギは値踏みをするように、ためつすがめつ箱を眺める。
 その視線の不躾さに、カイジはちょっと、むっとした。
 そんなカイジを煽るように、アカギは顎を上げて言い放つ。

「その女、馬鹿だな」
「……はぁぁ?」

 仮にも自分を好いてくれていた少女をいきなり罵倒され、カイジの顔がさらに不愉快そうに歪む。
 アカギは箱で口許を隠すようにして、目を細める。

「犬にチョコレートやるなんざ、無知もいいとこだ」

 言葉の意味を一瞬、理解できずに固まったカイジだが、すぐに鮮やかな怒りに顔を染めた。
「だ、っ……! 誰が犬だコラ!」
 猛然と噛みついてくるカイジに、アカギは笑いながら言い募る。
「その女、あんたのこと殺そうとしたんじゃない? 中毒にしてさ」
「だから、オレは犬じゃねえっつーの! アホか! チョコ食って死ぬ人間がどこにいるんだよっ……!」
 完全にバカにされていることに激昂し、カイジはアカギに掴みかかって箱を奪い返そうとする。
「返せよ……ッ!」
 カイジの手が箱にかかる前に、アカギはひょいと腕を延ばして箱を遠ざけてしまう。
 それでもなんとかリボンの端っこを掴むことができたカイジは、力任せにそれを引っ張る。
 だが、リボンはするすると解けてしまい、カイジの手にはリボンだけが残って、本体は依然、アカギの手中にあった。

 アカギは相変わらず、挑発するような笑みをカイジに向けている。
 この箱をダシにしてカイジで遊んでやろうという意志が、その目からひしひしと感じられる。
 度が過ぎた悪ふざけに、カイジのイラつきはピークに達した。

 しかし、このまま正攻法で箱を取り返そうとしても、うまくいかずに苛立ちが募るだけだ。
 かろうじて頭の隅っこに残っていた冷静さでそう判断したカイジは、こみ上げる憤りを深呼吸してどうにか抑え、口で応戦することに決めた。

「……はっ。お前さては、妬いてんだろ?」

 アカギに負けじと、性悪にせせら笑ってやる。
 二倍にも三倍にも膨らまされた罵詈雑言が、すぐさま返ってくるとカイジは睨んでいたが、しかしその読みは完全に外れた。

「……」
 アカギはなんと、その顔からさっきまでの嘲笑の一切を消し去り、無表情で黙りこくっていたのである。

「え……お前……」
 予想外の反応にカイジは戸惑う。
 だが、すぐにその反応の意味を勝手に解釈すると、みるみる下卑た笑みで顔をにやつかせる。

「なーんだ。自分がチョコレート貰えなかったからって、オレに嫉妬すんなよなー、アカギ」

 アカギの肩が、ぴくりと動いた。
 眉間に微かに刻まれた皺に気がつかぬまま、カイジはにんまりと笑う。

 ありとあらゆることで負かされ続けているアカギに嫉妬されるということが、胸がすくほど気持ちよく、先ほどの怒りはどこへやら、カイジは完全に上から目線でアカギに呼びかける。

「でもまぁ、お前も人並みにヤキモチ妬くことがあるんだな。ちょっと安心したぜ?」

 そう言って、ぽん、とアカギの肩に乗せたその手を、次の瞬間、容赦なく捻り上げられてカイジは絶叫した。
「いててててっ!!」
 煩悶するカイジの手を力一杯掴み、アカギはカイジを床に引きずり倒す。
「いたっ! てめ、なにを……っ、!?」
 全身を強打して涙目になるカイジの上に跨がり、アカギはカイジを見下ろした。

「あんた本当、犬みたいに鈍いんだな」

 ぼそりと呟かれた言葉。
 見上げるアカギの顔が凍りつくほど恐ろしい怒りを宿していて、その表情だけですっかり縮こまってしまったカイジは、アカギがチョコレートの箱を乱雑に床へ投げ捨てても、ひとことも発することができなかった。

 怯えを隠すことも忘れているカイジの腕を押さえつけながら、アカギはおどろおどろしい声音で囁く。

「犬には犬の交尾がお似合いだ。そうだろう? なぁ、カイジさん」

 あ、死んだな、オレ。
 そう、カイジは思った。









 それからはもう、口に出すのもはばかられるような痴態の連続だった。

 宣言どおり、カイジは犬のように卑しい『交尾』を強いられ、なんどもなんども絶頂させられた。
 汗まみれになりながら乞うた許しも聞き入れられず、互いの精も根も尽き果てて、まさに地獄の淵が見えるまで、淫蕩な饗宴を繰り広げることとなった。

 数時間に及ぶ交合が終わる頃には、カイジもアカギも、起き上がることができないほどに疲労し、後背位で繋がったまま、ぜえぜえと乱れた息を繰り返していた。
 汗やら何やらで無惨に汚れた素っ裸の体と体が、くっついて剥がれなくなってしまいそうほどベタベタして不快感を煽る。
 カイジは床に頬を押しつけたまま、乱れた髪の隙間から、哀れに床に捨て置かれている四角い箱を見る。
 激しくアカギに抱かれている最中、少女に貰った箱が揺れる視界にちらつく度、カイジは罪悪感で発狂しそうになった。

 動かすのさえ気怠い腕を、そろそろとその箱に延ばす。
 だが、それを遮るように上から白い手が延びて、先に箱を奪った。
 アカギが動いたせいで、未だ体の中にある勢いを失ったアカギ自身の角度も変わり、カイジは眉を寄せ、ため息をつく。
「……どけよ」
 掠れてほとんど声にならないカイジの言葉に、アカギはあっさりと自身を抜き取り、その背後から離れた。
 ぐったりと床に寝転がり、カイジは目を瞑る。
 もうなにもかもどうでもいい……このまま眠っちまいたい……と思ったカイジだったが、ビリビリと紙を破く音が聞こえて、跳ね上がるように起き上がった。
「い、……ッ!」
「かなり無理したんだから、起き上がらないほうがいいよ」
 腰が壊れそうな痛みに襲われ、悶絶しながらゆっくりと床に沈んでいくカイジを見下ろすアカギの手の中には、すっかり包み紙を剥がされてしまったチョコレートの箱があった。
 あれだけ肉交に耽っておきながら、アカギはこの短時間ですっかりいつもの調子を取り戻し、体を起こすことすら叶わないカイジを後目に、床にどっかりと胡座をかいている。
 せっかく貰ったチョコレートの箱を、アカギの手によって裸に剥かれ、少女の想いまで汚されたような気がして、カイジの心にふつふつと怒りが蘇る。
「もう充分だろ……それ、返せよ……」
 憤りに震える声に、アカギは表情を変えぬまま箱の蓋を毟り取る。
 そして、その中からひとつぶ、きれいな丸い形のトリュフを指で摘まんで取り出すと、なんの躊躇もなく口の中に投げ入れた。

「あ、あーーっ!?」

 カイジの叫び声を無視して、アカギはまずそうに顔をしかめながらチョコレートを咀嚼する。
 何回かだけ噛み砕いて無理やり飲み下すと、次は星形のホワイトチョコを口に入れ、やはりまずそうな顔で噛み潰していく。
「もうやだ……、なんなんだよお前……っ」
 カイジは泣きそうになった。

 アカギが甘いものを好まないということを知っているカイジは、まさかアカギがこんな凶行に及ぶなどとは夢にも思っていなかった。
 なのに。
 人生で初めて貰った本命チョコを、こいつに食われるなんて。


 涙ぐむカイジをよそに、丸飲みする勢いでホワイトチョコを食べ終わったアカギは、指についたチョコを舐めとりながら、不機嫌そうな顔でカイジを見下ろす。

「大好きな『伊藤さん』の大好きな人に食ってもらえて、このチョコも幸せだろ」

 投げつけるようなアカギの台詞に、カイジの涙がすっと引っ込んだ。
 白と黒の斑模様の、四角いチョコレートをぽんと口に放るアカギを、狐につままれたような顔で見上げる。
「……何?」
「い、いや、その……」
 この世の終わりが来たような凶相でチョコを噛むアカギから、カイジは目を逸らせないでいた。
 そんなことあるはずがないと思い込んでいて、気づきもしなかったひとつの可能性が、頭を過ぎったからだ。

 アカギがヤキモチを妬いているのは、チョコを貰って浮かれているカイジにではなく、カイジにチョコを渡した少女に対してなのだ、という可能性。
(でも、いや、まさか……)
 顔も名前も知らない少女に嫉妬するアカギなんて想像がつかない。
 普段のアカギのイメージとは、不釣り合いも甚だしい。

 だけど、そう考えれば一連の奇矯な行動の説明がすべてつくのだ。


 チョコを執拗にカイジの手に渡すまいとしたこと。
「妬いてたんだろ?」とカイジに言われ、黙りこくったこと。
 嫌いなはずのチョコレートを、まずそうに食べ続けていること。

「あんた本当、犬みたいに鈍いんだな」という台詞の真意。

 本当に、自分はものすごく鈍いのかもしれないと思いながら、カイジはアカギの顔を見上げる。
 渋面をつくりながら、次々にチョコを頬張るその顔が、さっきまでは腹立たしかったのに、徐々になんだか可愛く、愛しいもののように思えてきた。

「アカギ」
 呼べば、口をもぐもぐさせながら、アカギはカイジを見る。
 意地っ張りでつむじ曲がりなこの男が、こんな形でも自分への想いを垣間見せたのだ。それに答えないわけにもいくまい。
 カイジはアカギからぎこちなく視線を外し、口を開いた。

「オレのこ、こ、こ……」
「犬から鶏に退化したの?」
「違う!」

 カイジはひとつ、大きく深呼吸をしてから、今度はアカギの顔をしっかりと見据えて、言った。

「オレのこ、恋人は、お前だから」

 アカギは軽く目を見開いて、口を動かすのをやめた。
 ハムスターみたいに膨らんだままの右側の頬を、触りたいな、などと考えながらカイジが現実逃避しているうちに、アカギは口の中のチョコレートを飲み込み、ニヤリと笑った。

「聞こえなかったな。もっかい言ってよ」
「なっ……!」

 真っ赤になるカイジに、アカギはくく、と喉を鳴らす。
 そして、チョコレートの箱を静かに置くと、カイジに覆い被さってその唇に口づけた。

 飲み込む唾液が、滴るように甘い。
 こんな形で少女から貰ったチョコレートを味わうことに、とんでもなく後ろめたさを感じつつ、カイジは白い髪に手を差し込み、せめてもの腹いせのようにぐしゃぐしゃに乱しながらアカギを強く引き寄せた。








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